13 王子様の沈黙
上の空で過ごす日々は早かった。瞬く間に三が日も過ぎ去って、始業式を迎えて、気づけば三学期に突入していた。それはすなわち、あの悪夢の電車通学が幕を開けたことをも意味する。もはや痴漢の脅威は取り除かれたと知っているのに、久々に帰りの電車へ足を踏み入れた時は緊張で震えが止まらなかった。けれども何も起こらなかった。太い指が肌を脅かすことも、そこに幼馴染の男子が割って入ってくることもなく、何食わぬ顔で電車は北千住駅のホームに滑り込んだ。
あの痴漢がどんな運命をたどったのか、詳しいことは知らない。示談交渉というのも両親に任せっきりで、両親も私を関与させたがらなかった。その両親の話では、犯人は資産家の親を持つ四十代の無職で、意外にもしおらしく取り調べを受けている様子だった。ただ、私を狙った理由については、頑として口を閉ざしているそうだ。堅物で臆病そうな女子中学生だから抵抗されないと思ったんだろう──なんて、正直につぶやけば両親が悲しみに暮れるのは分かっていたので、天邪鬼な私はそっと口をつぐんだ。
いなくなった痴漢の動向よりも、同時にいなくなった人のほうが私には気がかりだった。乗った電車が南千住駅を出発するたび、切なさに縮む胸を黙ってなだめた。今頃どうしているのかな。こんな時間になっても勉強してるのかな。新着のないメッセージアプリを何度も見返しては、マフラーに埋めた口をちょっぴり開いて「奏」と呼ぶ練習をした。一文字でも発すればたちどころに頬が染まって、三文字も口走る頃にはマフラーに顔ごと埋めたくなる。あんまり必死で、あんまり夢中だったものだから、そのうち通学電車のお供だった単語帳や英語の参考書も開かなくなって、しまいにはリュックサックからも取り出さなくなった。
東京都内の高校受験は二月に最盛期を迎えるようだ。私立高校の大半は二月上旬、都立高校も二月下旬には試験日程を終える。それまで辛抱すれば、ふたたび奏は過酷な受験の世界から戻ってくる。それまでのあいだ私にできることといえば、邪魔をしないで待つことだけ。そういって自分を戒めれば戒めるほど、奏の行く末を案じずにはいられなかった。毎晩、毎晩、奏の夢を見た。あの卒業式の日の夢だった。防火扉の影で泣いている私を奏は決まって見つけ出した。いつものように突っぱねるのを懸命に我慢して、何度も告白しようと心を絞った。けれども絞りすぎた心が砕けてこぼれて、結局は苦しまぎれの文句を叩きつけてしまう。そうこうしているうちに朝が来て、目が覚めて、乱れた布団の中で私は思い知るのだった。私が私である限り、夢の中の未来も変わりはしないことを。
早く奏に会いたい。
受験なんてなくなってしまえばいいのに。
だけどそんなことを言い出したら、世の中の多くの人は高校受験じゃなく、私の未来を変えた中学受験の方をなくしてしまいそうだ。
やるせない思いをもてあそびながら私は登下校を繰り返した。ようやく少し「奏」呼びにも慣れて、なおざりにしていた英単語の復習に慌てて取り掛かった頃には、いくらか手遅れに近かった。
他人の心配をしている場合じゃなかった。
私自身の内部連絡入試が目前に迫っていたのだ。
「わたし、通ってる……」
職員室前の掲示板を見上げたゆかりが、途方に暮れたような声を発した。一瞬、本当に落ちたのかと肝を冷やしたけれど、次の瞬間にはゆかりは小さなガッツポーズを決め、私たちに向き直った。
「これでわたしたち、来年からも一緒だね」
張りのない声だ。二人は望んでないかもしれないけど──。分かりやすい予防線の張られた曇り空の笑顔に、「うん」とひかりが不器用に口角を上げて応じた。
「正直あたし、ゆかりが落ちるとは思ってなかったけどね。肩叩きだって受けてなかったでしょ。本当にヤバい子は三年の夏の時点で先生に肩を叩かれるって言うじゃん」
「……うん、まぁ」
「どっちかっていうとあたし今、あかりの結果の方にびっくりしてるよ」
ぐっと私は唇を丸め込んだ。言及は免れないものと覚悟は決めていた。
掲示板には内部進学の可否とは別に、内部連絡入試を受けた全校生徒のスコアも掲示されている。三年分の内申を加味する前の、純然たるテスト結果を反映したものだ。それによれば私の順位は、約二百名の学年全体で百二十位。五十位のひかりにも九十位のゆかりにも負けたばかりか、一歩間違えれば高校進学すら危ぶまれるほどの低水準だ。にわかには信じられずに何度も自分の名前を探し直した。けれどもやっぱり私の名前は、百二十位のところに所在なく居座っていた。
握りしめた拳が静かな震えを帯びて収まらなかった。毎日、毎日、奏にばかり心を費やし続けた結果がこのざまだ。地頭でも才能でも勝てない私は努力で二人を上回るしかなかったのに、その努力をほとんど放棄していたのだから無理もない。
立ち尽くす私を不安げに伺ったゆかりが「ほら!」と笑って手を叩いた。
「元気だそうよ。内部進学はちゃんとできるんだから心配することなんてないじゃん」
「……うん」
「そんな暗い顔しないでよ。わたしも一緒に進学できることになったんだし。それに、ほら、その……アレの嫌疑も晴れたんだし」
私も、ひかりも、何と返したものか分からずに押し黙ってしまった。言い出しっぺのゆかりまでもが「あ……」と口ごもって無責任に目をそらした。いたたまれない空気があたりに流れ込んだ。いつものように下世話な冗談や笑いで場を濁すには、流れ込んだ空気はあまりにも黒ずみ過ぎていた。
結局、ゆかりの生理不順は生活習慣の乱れによるホルモンバランスの悪化が原因と結論付けられた。無論ゆかりの素人判断ではなく、きちんと産婦人科を受診したうえでの結論だ。かといって私たちの再三の忠告が効いたわけでもなく、聞けば様子を怪しんだ親に無理やり連行されて検査を受けたらしい。冬休みのあいだに生理も来たようで、かくしてゆかりの危機は何事もなく幕を閉じた。そして同時に、幕の向こう側に隠されたままの不都合な事情を窺い知るきっかけも失われた。
「……これでよかったんだよ。全部、さ」
ジャケットの袖を引っ張ったひかりが、言い聞かせるようにつぶやいた。
夕刻から降り出した雨が、見上げた街並みに薄い紗幕をかけてゆく。手袋をはめた手でビニール傘の柄を握りしめて、足早にパン屋の軒下へ駆け込んだ。小窓の奥から漂う香ばしい小麦の匂いが、降り注ぐ寒さをわずかにはねのけた。
「クルミパンとチーズブレッドと、あと……クロワッサンください」
「お一つずつでよろしいですか?」
私は小首を垂れた。唇が凍りついて思うように声を出せなかった。手際よく袋詰めを進める店員さんも、早くお店を閉じて帰りたいと言わんばかりだった。無理もない、こんなに寒いんだもの。手持ち無沙汰のままぼんやりと見とれてしまって、「八七〇円になります」と言われて慌ただしく財布を取り出した。
ここ数週間、何をするにも上の空だった。溜め息をついたとたんに思考がそれて、集中力が削がれて、目の前のことに手がつかなくなる。今朝も天気予報も確認しないまま家を出て、槍のような氷雨に降られながらコンビニへ駆け込んで傘を買った。昨日は帰りの電車を乗り過ごして数百円の運賃を無駄にした。おとといは帰りがけに立ち寄った区の図書館に財布を忘れて、半泣きで探し回る羽目になった。
「ありがとうございましたー」
店員さんのくたびれた挨拶を背中に浴びながら、パンの入った袋を握って道へ出る。雨はまだ降りやまない。はたと嘆息して、静かな街並みを私は見上げた。行儀よく並んだ道端の街灯が、濡れたアスファルトの路面を白っぽく光らせている。靴の中が湿って気色が悪い。水溜まりを慎重に避けて回りながら、誰もいない住宅街をとぼとぼ歩いた。
何ひとつ手につかない一日だった。授業の予復習も、生徒会の仕事も、海底を這う貝のように遅滞して進まなかった。胸を波打つ不安は今も鎮まらない。言うまでもなく、内部連絡入試の結果が生んだ衝撃の余波だ。
なに言ってんの。何も手につかないのは今日に始まったことじゃないくせに──。誰のものともつかない声が私を嘲る。私は首を振って彼女を黙らせた。うるさい。黙ってよ。私だって嫌というほど自覚しているんだから。無気力の原因にも思い当たる節がある。三週間前、警察署の待合室で奏と別れたときから、ちっとも心が燃えて奮い立たない。奮い立つのは唯一、奏のことを考えて悶えているときだけだ。
何気なく持ち上げた視線が、左手前に立つ小学校の校舎を映した。
ただでさえ重たい足取りがいっそう重みを増して、ビニール袋を携えたまま立ち止まる。校門に彫り込まれた【足立区立千寿桜葉小学校】の文字に私は目を細めた。
懐かしいな。
ここで奏に声をかけられて再会したんだった。
あのときもパン屋さんの帰りで、こうして袋を持っていたんだったな。奏は口下手な私を引き留めようと躍起になって、ありもしない同窓会の話なんかでっち上げて……。
「…………」
震える唇をそっと私は閉じた。歩き出す気力が湧かなくて、そのまま雨の中に立ち尽くした。原付のエンジン音が背中の向こうを通り過ぎる。国道を行き交うトラックの轟音が、時折おぼろげに空気を揺らす。あとはひたすらに雨が降りしきるばかりだ。私に声をかけてくる人も、駆け寄って声をかけたくなる人の姿もない。
パンを買った報告を忘れていたのを思い出して、カバンからスマートフォンを取り出した。メッセージアプリを起動した指が無意識に動く。開いたのは家族のグループ画面ではなく、奏のメッセージ画面だった。なんの新着もない画面を私はぼうっと見つめた。奏の謝罪を私が【うん】の一言で素っ気なく撥ねつけて以来、私たちのやり取りは途絶えたままだ。閉じた校門の前に立ちすくんだまま、震える指を画面に這わせてメッセージ入力欄を開く。十二マスのキーボードが立ち上がる。何ひとつ言葉も浮かばないのに、その一瞬、何かを送りたくてたまらなかった。私たちの繋がりが途絶していない事実を無性に確認したかった。このまま黙って立っていると、あの日、この場所で再会した事実も、交わした言葉や約束も、降りしきる雨の中へ溶けて流れ落ちてしまいそうで。
ねぇ、奏。
突然メッセージなんか送ったら迷惑になるかな。
距離を置きたい、交流を絶ちたいって奏は言ったけど、メッセージを受け付けないとは言わなかった。だからどうか嫌がらないでよ。私の頭は奏にまみれて今にも弾けそうだよ。嫌われたくない、離れられたくないって、ありもしない可能性ばかりに身がすくんでしまうの。奏の握ってくれた右手の温もりが消えないの。毎晩、毎晩、奏の温もりを思い出しては溺れてる私を、きっと奏は軽蔑するよね。おかげで仕事にも勉強にも身が入らないよ。嫌われたくないのに、嫌われるような私ばかりがどんどん出来上がってゆくんだよ。ねぇ、どうにかしてよ、奏──。
【勉強、順調?】
さんざん悩みあぐねてひねり出した一言目は、いつものごとく素っ気なかった。私は目をつぶって送信アイコンを押した。奏の家は小学校の近くにある。今、私の目と鼻の先で、あいつがメッセージを受け取ったはず。祈る思いで息をひそめていると、じきに既読がついて、返信が届いた。
【うん】
意趣返しのような素っ気ない言葉に私は胸を詰まらせた。
【そっか】
【突然どうしたの】
【別に。私でも役に立てるなら質問とか答えようかなって思っただけ】
【親切だね】
【勉強会のときは役に立てなかったから】
奏の返事が途切れた。スマートフォンを握りしめながら私は唇を噛んだ。違う。こんな意地悪な言葉を叩きつけたいわけじゃないのに。
【あのさ】
すがりつきたい一心で畳み掛ける。既読の表示がついた。
【入試終わったら暇になるんでしょ。中川の受ける入試っていつ終わるの】
まだ返信は来ない。焦る頭を振り絞って、高校入試の日程を私は思い返した。
【志望校って都立? 私立?】
【都立の入試って三月頭には結果出るんでしょ】
【そしたらさ、】
最後まで打ち終わらないうちに送ってしまった。乾ききった雑巾を絞っても水が出ないように、句点の先に綴る文章がどうしても滲み出てこなかった。下手な言葉で恋心を悟られたら本当に軽蔑されてしまう。無我夢中で目を閉じて、暗闇の底で思案に暮れた私は、不意のスマートフォンの鳴動に目を見開いた。ようやく奏が返信を送ってきたのだった。
【ごめん。入試が終わっても暇じゃない。引っ越しとか色々あって】
いやに淡白な口ぶりだ。能面みたいな奏の笑顔が脳裏をよぎった。場にそぐわない「引っ越し」の四文字に、思わず私は眉をひそめた。
【なんで引っ越し?】
【電車通学できない理由でもあるの】
奏からの返信はきっかり一分も途絶えた。
【家族の都合で東京を離れるんだ。向こうの高校に進学する】
【もう、この街には帰ってこない】
送りつけられた文面を私は食い入るように見つめた。とっさに意味が分からず、わずか十三文字のメッセージを何度も頭から読み返した。何べん読み返せども意味が分からなかった。分からないから返事も思いつかなかった。大きな泡の弾ける音が響いた。耳が遠くなって、どこに立っているのかも分からなくなった。白のペンキをぶちまけられたように頭の中が曇ってゆく。けれども奏の示唆した不都合な真実は、白のペンキをぶちまけたくらいじゃ消し去れなかった。
東京を離れる。
向こうの高校に進学する。
もう、この街には帰ってこない。
【どうして?】
血の気の抜けた指先で私は返信を打った。
既読がつくことはなかった。
耳鳴りが止まない。氷雨に打たれた傘が凍りつく。冷え切ったパンからは香ばしい小麦の匂いが消えてゆく。それでも私は辛抱強く返事を待ち続けた。降りしきる雨の中へたたずんだまま、息もできずに。
「わたし、もう、あいつのこと素直に『好き』って言えないから」
▶▶▶次回 『14 砂糖がけの憎しみ』




