12 溺れる人魚姫
デンマークの童話作家アンデルセンが『人魚姫(Den lille Havfrue)』を執筆したのは、二百年近くもさかのぼった一八三七年のことらしい。もちろん原著はデンマーク語で書かれているから、英語の読解さえおぼつかない私には触れることも叶わない。代わりに私を西洋童話の世界へ導いてくれるのは、あまたの翻訳家によって紡がれた日本語版だ。絵本、童話、短編集、あるいはオマージュを受けて作られた無数の派生作品。どれも作者によって少しずつテイストは違うけれど、通底する本筋は変わらない。異種族たる人間の王子様に恋をしてしまった人魚姫が、家族も、美しい声も、そして三〇〇年もの長さを誇る寿命さえもなげうって人間になり、けれどもとうとう想いを遂げられずに最後には自死を選ぶ、救いのない悲恋の物語だ。
はじめて読んだのは絵本だったと思う。冷房の効きすぎた肌寒い学校図書室の片隅で、壁際に座り込みながら、可愛らしい絵柄の人魚姫が泡になって沈んでゆくさまをぼんやりと眺めていた。「泡になって消える」ことが死の比喩であることは当時の私にも理解できた。童話とはすべからくハッピーエンドなのだと思っていた当時の私は、救われない結末にいたく衝撃を受けた。後味の悪い読後感に嫌気が差して、それ以来『人魚姫』を敬遠するようになった。
人魚姫に感情移入できなかったわけじゃない。
むしろ、その逆。
報われない末路に私は感情移入しすぎていた。
物心のついた頃から私の両親は多忙だった。皮革製品の工場に勤務するお父さんと、遠くの病院で事務仕事をしていたお母さんは、いつも夜遅くになるまで我が家のドアを叩かなかった。いきおい、多くの家事は私が分担しなければ片付かない。幼いうちから鍵っ子だった私は、たったひとりの家の中で家事に追われた。掃除、洗濯、大きくなってからは調理やゴミ出しも引き受けた。他の子は楽しく遊び歩いているのに、どうして私だけ──。幼心に不公平を覚えてみじめな思いを抱えたのも一度や二度ではないけれど、毎晩遅くに疲れ切った顔で帰り着いて、溜め息にまみれながらベッドに入って、また朝早くに出てゆく両親の背中を眺めていると、ぎこちない義務感があふれ返って、どんな不平不満も喉の奥へ引っ込んでしまうのだった。
私がやらなきゃ。
私がいなきゃ。
みんなが笑顔で暮らすために。
抱え込んだ義務感は少しずつ私を変えていった。家事に追われて時間が取れないからといって、遊びの誘いを私は片っ端から断った。もっともそれは表向きの理由で、本当はのびのび思い思いに遊び暮らす同級生たちの姿に、嫉妬にも近しい憧れを向けていたせいだ。みんなは遊び疲れて帰宅しても、当然のように温かな風呂とご飯が待っている。私の家には待っていない。みんなのようにゲーム機や漫画やスマートフォンも持っていない。テストの点数や体育での活躍や、ほんのささやかな日々の成果を褒めてくれる家族の姿もない。一緒に過ごせば嫌でも周囲と自分を比較して、みじめな境遇に絶望してしまうから、私はみんなの輪の中にいたくなかった。折り合わない価値観の溝が深まるにつれ、そのうちクラスメートたちも私を遠ざけ始めた。ボタンを掛け違えたシャツのように私たちは分かり合えなくなった。
孤独な時間を私は読書で埋めた。別に読書が好きだったわけでもないけれど、ひとりぼっちの私が共感を寄せられるのは創作世界の登場人物だけだった。手当たり次第に私は本を読み漁った。筋書きにはそれほど興味がなくて、登場人物に共感できさえすればそれでよかった。家事の腕が上がって手待ち時間が増えると、いきおい読書の量も増えた。
あるとき、分厚いアンデルセン童話集を手に取ったのも、そんな闇雲きわまる読書習慣のついでだった。『人魚姫』がアンデルセンの著作だったことも、バッドエンドを迎えるタブーとして敬遠していたことも忘れていた私は、何気ない気持ちで『人魚姫』をふたたび開いた。けれどもそこに収録されていたのは、より原典に近い、曖昧な描写の減った痛ましい人魚姫の結末だった。彼女が魔女に声を奪われ、歩くたびに激痛を覚え、あまつさえ王子様に人違いまで起こされて悲劇的な結末に落ちてゆくさまを、愕然と私は目の当たりにした。なぜ人魚姫がこんなにも苦しい立場に追い込まれねばならないのか理解できなかった。筋違いと分かっていながら、私はアンデルセンを恨んだ。きっと性根の悪い人だったんだ、まっすぐな子の嫌いな人だったんだと言い聞かせながら、二度と開かぬ覚悟で『人魚姫』のページを閉ざした。
感情移入できるとか、できないとか、そんな次元の問題じゃない。
この物語に共感を寄せてしまえば私は破滅する。
だって、まるで正直者がバカを見ているみたいじゃないか。王子様に近づきたい一心で痛みを厭わず“人間”になろうとした人魚姫の真心を、情熱を、この物語は嘲笑っているみたいだ。これが世間みんなの共通理解だというなら、きっと私だって嘲笑われる。家族みんなで楽しく暮らしたい一心で家事もこなし、成績もトップを守り、体育の授業でも足を引っ張らないように頑張り続けてきた私は、一体なんだったのかという話になってしまう。
ねぇ。
誰でもいいから教えてよ。
全部、ぜんぶ、無意味だったの?
あんまり落ち込んだものだから残りの収録作品を読み返す気力も削がれてしまって、せっかく借りたアンデルセン童話集は長らく学校机の肥やしになった。そのまま返却期限間際まで存在を忘れ、司書の先生に指摘されてようやく存在を思い出した。ほこりにまみれた童話集を見つけたとき、ふと魔が差して、こっそり『人魚姫』のページをめくってしまった。けれどもやっぱり心がシクシク痛んで、読み進めることはできなかった。もう固執するのは辞めよう。二度と読み返さなきゃいいのだから──。そう心に決め、元のように童話集を閉じようと指をかけたそのときだった。
『──なに読んでんの?』
深海に、声が降ってきた。
私は顔を上げた。まばゆい光が彼方の水面から差し込んでいた。ひとけのない深海の景色も、横たわる醜い私の姿も、光は容赦なく照らし出した。目がくらんで縮こまる私を、彼は『そんな縮こまらないでよ』といって笑った。
『綾瀬さんのこと、知りたいだけなんだよ』
にっこりと笑いかけてきた彼の正体は、それまでほとんど交流のなかったクラス一の高嶺の花、中川奏だった。私は動揺を隠しきれずに怯えて警戒するばかりだった。だから気づけなかったのも無理はないのかもしれない。それが私の運命を根こそぎ変えてしまう、『人魚姫』の結末を書き換えるような出会いだったことに。人魚姫のような悲劇を恐れ、深海へ閉じこもる未来を選んだ私に、抗いようのない憧れの種を植え付けていったことに──。
──目の奥が引っ張られるようにツンと痛む。
おもむろに私は勉強机から顔を上げた。いけない、居眠りしてしまっていた。重たい頭をもたげてスマートフォンの画面を点け、時刻を確かめる。午後五時。お母さんから新着メッセージが届いている。
【今日も遅くなりそう】
【シチュー煮込んでおいて】
【具材は用意してあるから】
この期に及んで、中川からのメッセージでなかったことに落胆している自分がいる。私は黙って椅子を引いて立ち上がった。解きかけの数学のノートがだらしない糸を引いている。そっとティッシュで拭って、溜め息をついて、ほとんど進捗のなかった教科書やノートをまとめてリュックサックに押し込んだ。
十二月三十日。
窓の外は晦日だった。
学校図書室は閉まっている。近所にある区の中央図書館も閉館中だ。カフェやファストフードで勉強しようにも、お小遣いが少ないので気軽には出かけられない。自宅で勉強するのは苦手なのだけれど、仕方ないので丸一日、ぼんやり勉強机の前で数学に取り組むふりをした。ふりをしていれば多少は勉強になるかと期待していたのに、結局、わずか数問で私の頭は煮詰まった。
背骨が痛い。変な姿勢で居眠りに耽っていたせいだ。よろめくようにベッドへ倒れ込むと、冷えた生地に体温が吸い取られて、そのままぐったりと私は脱力した。両親が帰宅するまで二、三時間はかかる。すぐに調理を始めなくとも夕食には間に合う。ほんの少しだけなら、こうしていても罰は当たらない。しわだらけの布団に埋もれながら目を閉じると、堅物な自分が脳裏の奥で『積み残すのは嫌なんじゃなかったの』と呆れ顔をした。当然でしょ、と詰り返したら、彼女は溜め息を散らしながら胸の奥へ引っ込んだ。
積み残しが許されないのは家事も勉強も仕事も同じだ。湯附中三年生の綾瀬灯里は、勤勉で堅物で生真面目な優等生。たとえそれが一〇〇%好意的な印象でないとしても、足掛け数年を費やして築いた信用をみすみす失うわけにはいかない。私は誰の前でも優等生でいなければならない。両親の前でも、ひかりやゆかりの前でも、中川の前でも。しがない人魚の私が人間扱いを受けるために、決して欠かしてはならない自助努力だ。
だけど時々、それもこれも全部ぶち壊したくなる。
誰にも人間扱いを受けない、ありのままの生々しい自分をさらけ出して、信頼も期待も台無しにしてしまいたい衝動に駆られる。真人間のふりをして痛みをこらえて、地面を歩いているのが無性に嫌になる。
じんと身体の奥で血が滲んで、私は身をすくめた。タツノオトシゴみたいに布団の中で背中を丸めて、冷えた手で太ももに触れる。部屋着のショートパンツから伸びる太ももは、いまはスカートという名の防御壁を持たない。撫でた場所からぞわりと鳥肌が立つ。また身体が熱くなる。かたくなに私は目を閉じた。網膜の裏に中川の姿が浮かんだ。
この世でたったひとり中川だけが、痴漢に屈する無惨な私の姿を知っている。手垢まみれの醜い私を中川は見放さなかった。そればかりか身を挺して二度も私を助けてくれた。この身体が、心が、中川を欲していると知ったなら、それでも中川は私を見放さないでくれるだろうか。中川がいなきゃ生きてゆけないなんて訴えた日には、私のこと、本当に嫌いになるだろうか──。考えても仕方のない疑念が次々に膨らんで、ぎゅっと雑巾を絞ったように胸が痛む。あわい泡が口元に吹きこぼれる。冷えた右手がスウェットの中を這い回って、火照った肌を拭い去る。汗ばんだ身体はそれでも冷めやらない。切なくて、切なくて、いよいよ固く目を閉じながら、網膜の向こうに中川を思い浮かべる。ぬるくなった右手が冴え渡る。身体が跳ねる。込み上げてきた無数の泡に溺れて、喘ぐように中川だけを見つめた。中川は私を見つめ返してくれない。目の色は前髪に隠れて分からない。穏やかな笑みが口元に染みるばかりだ。
三日前、この右手を中川の手が握った。
だからいまも私の右手は中川と繋がっている。
あんなにも私に触れるのを拒んでいた中川が、はじめて触れてくれた大事な場所。もっともっと触れてほしい。この胸の高鳴りを肌越しに知らしめたい。ひかりやゆかりによく狙われる脇も、首筋も、お腹も、足も、中川の守ってくれた身体のすべてを、中川になら好きなように甚振られてもいい。なんなら舐めてくれてもいい。血に汚れた身体も心もぜんぶ飴みたいに舐め尽くして、跡形もなく綺麗に溶かし流してほしい。中川の舌先だったら溶けて逝ってもいい。だって私、そのくらい中川のこと、どうしようもなく好きだから。
会いたいよ。
今すぐ会って抱きしめてよ。
苦しくてたまらないよ。助けてよ。あの夜、卑劣な痴漢から私を守ってくれたみたいに──。
「あ……」
込み上げる気泡にまみれて私は叫んだ。
「かな……たっ……」
どさくさに紛れて中川を名前で呼んでしまった。突き抜けるような切なさと罪悪感が足元に穴を開いて、震えながら私は枕を握りしめた。──あいつのこと、初めて下の名前で呼んじゃった。あんまりびっくりしたものだから、もういちど呼ぼうとしても声にならなかった。部屋が沈黙を取り戻す。限界まで昂った心が鎮まるにつれて、網膜の中川が呆れ果てたようにぼやけてゆく。スマートフォンを見ると三十分も経っていた。期待はしていなかったけれど、案の定、中川からの新着メッセージはひとつもなかった。
重い身体を引きずって私はベッドから這い上がった。貧血を起こしたみたいだ。めまいが強くて足元もおぼつかない。それでもなんとか壁に手をついて、乱れた部屋着を整えた。白濁した頭の中は死にたくなるほど中川であふれている。力が抜けて元のようにベッドへ座り込みながら、目を閉じて、息をひそめて、中川のことばかり考えた。いくら考えても幸せになれないのは分かっているのに、考えないことには息もできなかった。
──『しばらく綾瀬と距離を置こうと思っててさ』
──『綾瀬のことも、もう、守れなくなる』
──『また会えるよ。そのとき、ちゃんと話すよ』
中川の残した言葉たちが、記憶の底で際限なくリフレインする。
鋭い痛みが胸をかすめた。段ボールに入れられて海辺に捨てられたような痛みだった。布団の端を掴んで、ぎゅっと力を込めて、ぎこちなく私は首を振った。──孤独な未来を恐れるには早い。だって中川はまだ、連絡先を通じて私と結びついている。塾も、住まいも、通学先の学校も知っている。三年前の卒業式のときはそうじゃなかった。私と中川のあいだに再会の保証は何ひとつ存在しなかった。
高校受験が終われば、また会える。
私はふたたび彼のもとで人間になれる。
いまはそう思えるだけでも幸せ者なのだから。
涙のかけらを拭って目を閉じる。いくぶんぼやけていたけれど、網膜の底には中川の面影が残っている。頼りない声で「ねぇ」と私は呼びかけた。中川が顔を上げた。
頑張ってよ、高校受験。
そしたら私も頑張るよ。
今はまだ思い通りにいかないけど、もしも素直になれるなら、きっと今度は逃げないから。逃げずにちゃんと向き合って、私の気持ち、伝えるから。それまでどうかそのままでいて。ほかの子のものになんてならないで。昔のままの優しい人でいてよ──。
畳み掛けると中川は静かに微笑んだ。
瞳を彩る色の見えない、王子様みたいな優しい顔で。
「……これでよかったんだよ。全部、さ」
▶▶▶次回 『13 王子様の沈黙』




