11 触れた手
鈍重な生理痛は翌日になっても引く気配を見せなかった。痛みに耐えかねて横たわっているうちに日曜日も終わり、また平日が巡ってきた。十二月二十七日、月曜日。学校では終業式が執り行われ、私たちは束の間の冬休みを迎えた。
ひかりやゆかりとの関係には依然として亀裂が走っていた。ぎこちなく「おはよう」と挨拶を交わしたまではいいものの、いつものような無駄話が続かなくて、しまいには視線のやり場も失って自分の席へ戻った。わたしの事情なんか話したって、きっと二人は理解してくれない──。ゆかりの叩きつけた諦念は否定しきれない生々しさをもって、私たちのあいだに重たい影を引いていた。
結局、終業式のあともみんなで寄り集まることはなく、二人は追い立てられるようにそれぞれの部室へ向かっていった。その丸い背中を見送りつつ、溜め息をひとつこぼして、私も生徒会事務室の戸を叩いた。机の上には未完の仕事が山積していた。冬休み明けに配布する校内広報誌の制作、教官会議に提出するアンケート結果報告書の作成、他校での制服再導入の事例を探るべく視察の許可を取るメールの送信。
「綾瀬ちゃん、大丈夫?」
「顔真っ青じゃん」
「今日はもう帰った方がいいんじゃない。冬休み中だってここは開いてるんだし……」
口々に投げかけられる他人事の懸念も、紙面作りに没頭していれば耳に入らなかった。やれることはやれるうちに消化しておきたい所存だった。できる仕事を放置して溜め込んで、休暇中に登校する羽目になるのが嫌だった。学校が嫌いなのでも、電車が嫌いなのでもない。中川という用心棒ができて以来、一時的に遠ざかっていた痴漢の匂いが、このところふたたび濃くなってきているのを感じる。まだ手出しはされていないけれど、確実に、近くに潜んでいる。鋭敏な私の肌が警鐘を鳴らしている。
できることなら電車に乗りたくない。だけど電車に乗らなければどこにも行けない。私は不自由だ。不慣れな足を引きずって歩く人魚姫のように。
雑念を振り払う勢いでキーボードを叩き、書き散らかした記事を紙面に貼り付けて並べる。ほこりっぽい部屋の空気に意識が馴染んでゆく。いつしか日も暮れ、窓の外には黄昏色の空が舞い降りてきた。広い事務室は私と、書類を片手に居眠りしている青井先輩の二人きりになった。なんとか広報誌を書き上げたところで、なけなしの集中力もふっつり切れた。
「……そろそろ帰ります、私」
施錠を託すべく声をかけると、先輩はとろけた目を少し開けて、「んぁ」と鼻から抜けるような声で応じた。
「やっと終わった?」
「まだ全部じゃないので、冬休み中に出てきて片付けます」
「手が足りなくなったら私を頼っていいんだよ。ほら、こんなに暇してる」
「……考えておきます」
「つれないなぁ」
わざとらしく先輩はおどけた。
クジラみたいに鷹揚な瞳が、ドアノブに手をかけた私の姿を黒々と映している。
「綾瀬には図々しさが足りないね。もっとこう、私が他人を従えてやる! ってくらいの気概でいないと、都合よく搾取されるばっかりになっちゃうぞ」
あなたとは違うんですと言い返すのを私は我慢した。また一つ、喉の奥に言葉が溜まって、墨を落としたようにどろりと濁った。
通学電車は相変わらずの超満員だった。学校は終業式を迎えても、まだ世間の職場の大半は仕事納めを迎えていない。リュックサックの紐を握りしめ、無理なく収まる空間を探して乗客のあいだに身体を押し込む。あとから乗り込んできた人々も同じことをしている。苦しげな音を立てて扉が閉まる。十五両編成の土浦行き普通電車は、押し出されるように日暮里駅を定刻発車した。
垂れ込める汗の匂いで頭痛が加速する。闇雲に手を伸ばして吊革を探しながら、痛みの収まらない下腹部にもう一方の手のひらを宛がう。いつもの調子なら気にならない足元の振動も、今日はずいぶん骨に響いて気持ちが悪い。茫然と目を閉じているうちに一駅が過ぎた。じきに電車は二駅目に差し掛かった。流れ込んだ外気に足首をくすぐられ、おもむろに私は顔を上げた。我先にと私を押しのけて、くたびれた顔のサラリーマンが電車を降りてゆく。汗の匂いはいくらか和らいで、すんと澄んだ冬の空気が車内の湿度を下げる。おかげでようやく身動きを取れるようになった。『南千住、南千住。ご乗車ありがとうございます』──駅の構内放送が途切れ途切れに耳へ入ってきた。
あと一駅だ。
あと三分、耐え抜けば私の勝ち。
探り当てた吊革に掴まって体重を預け、肩の荷を下ろしかけた私の身体を、次の瞬間、嗅いだ覚えのある腐臭が静かに取り巻いた。ぞわっと全身の毛が逆立って、あまりの寒気に私は目を見開いた。にわかに激しい胸騒ぎが始まった。二本の足は棒に成り果てた。振り向く力も、勇気も、足元の振動にすべて奪われた。
本物の匂いじゃない。
気配だ。
ハイエナだ。
とっさに太ももを閉じた。冷えたスカートの生地を押しのけて、太ももの間に何かが割り込んできた。ざらついた大きな手だった。電流を浴びたように鳥肌が立った。
「ひっ……」
すんでのところで声を抑える。続けざまに吐き気が盛り上がってきて、青ざめながら私は左手で口を覆った。最悪だ。よりにもよって生理中で調子の悪い時に、痴漢が始まった。
『次は北千住、北千住、お出口は左側です』
抑揚の乏しい車内放送が遠くなる。甲高い走行音と不気味なシンクロを描くように、痴漢の指が肌を荒らし回る。内股を触るのが関の山だった従前が前哨戦に思えるほど、遠慮を知らない本格的な触り方だ。私は満足に息もできない。うっかり息をしたら、吐きそうになるから。
「はァ……はァ……はァ……ッ……」
羽音のような囁き声が、粘り気のある舌先で耳を犯す。周りの乗客は揃いも揃ってイヤホンで耳を塞いでいる。万事休す。私は目を閉じた。駅に着くまで二分はかかる。二分間、誰の助けも期待できない。ぐちゃぐちゃに犯されたところで誰も痴漢には気づかないし、咎めもしなければ悲しみもしない。また一人の女子中学生が無駄に身体を汚したな──なんて、箸にも棒にもかからない哀れみを投げかけるだけだ。
目頭が熱くなった。噛みしめた唇に鉄の味が染みた。濁った血にまみれて立ち尽くしながら、中川がいてくれたらな、などと都合のいい仮定に耽りかけた自分を強く恥じた。──虫のいいことばかり考えるな。挽回のチャンスは何度もあったじゃない。中川と誠実に向き合って、非を認めて謝っていたら、きっと今でも私たちは一緒に電車へ乗っていた。もう中川は私を助けてくれない。私はひとりで痴漢に抵抗しなきゃいけない。中川を傷つけた分だけ、その痛みをどこかで背負わなきゃいけないのだ。
もういいよ。
どうにでもしてよ。
どうせ私は拒めないんだから。
だけどせめて、この身体から初めてを奪うのは、私の愛する人であってほしかったな。
ぱしゃ、と間抜けなシャッター音が足元で響いた。スカートの中身でも撮影されたのだろう。そのうち短パンの方も脱がされて、中の下着まで撮られるのかな。いま見たら文字通り血だらけだろうにな──。吐き気に溺れながら私は情けなく笑った。目のふちから盛り上がった涙が、おぼろに視界を乱してゆく。視力の急速な低下を補うように研ぎ澄まされた聴神経が、突如、背中の向こうでつんざいた声を激しく捕捉した。
「──何してんだ!」
心臓が止まりかけるほどの大声だった。
凍り付いた私の目に、次々にイヤホンを外す周囲の乗客が映った。人々は私ではなく、私の背後に立つ声の主を凝視していた。肝心の私だけが振り向けなかった。呼び止められた痴漢の指が硬直したのを、痛みの底に沈みながら感じ取った。
「聞こえてるんだろ。こっちは何してたか全部見てるんだぞ!」
震えを帯びた大声を浴びるや否や、痴漢の手がすり抜けて引っ込んだ。おぞましく肌が粟立って、私はまたも声を上げかけた。口を押さえた拍子に涙がボロボロあふれた。
聞き間違えるはずがない。
私がよく知っている人の声だ。
そして今、ここにいるはずのない人の──。
「証拠だって見せてやる。触ってるところカメラで撮ったからな。大人しく……」
最後まで彼が言い終わらないうちに痴漢が暴れ出した。身体の向きを変え、声の主に対峙したのが分かった。次の瞬間には周囲の乗客が血相を変えながら私を押しのけ、よってたかって飛び掛かっていった。「やめなさい!」「大人しくしろ!」「暴れるな!」──。車内の大混乱など気にも留めないかのように、電車は悠々と速度を落として北千住駅に滑り込んでゆく。取り押さえられた痴漢の荒い息が、白く煙って車内を漂う。
扉が開いた。
突き飛ばされるように私はホームへ転がり出た。
足に力が入らない。生まれたての仔鹿みたいによろめきながら数歩ほど歩いて、膝に手をつく。慌ただしい足音が私を追いかけてきた。真っ先に視界へ入ったのは、手入れの行き届いた革靴と学ランのズボンだった。
「──大丈夫かよ、綾瀬っ」
私は顔を上げた。
汗だくの中川が、崩れそうな私を見つめていた。
一連の事情聴取が終わるころには一時間以上も経過していた。両親の職場にも連絡が行って、残業を切り上げたお母さんが警察署まで迎えに来ることになった。知らせないで済むなら知らせたくなかったのに、お巡りさんはどうしてもといって譲らなかった。
一階の待合室には中川の姿があった。
クラゲみたいな佇まいの私を見て中川は腰を上げ、長椅子の一角を譲った。
「終わったの、聴取」
「……来てくれてたんだ」
「ひとりにしておけないよ。あんなの見たら」
私は黙って中川の隣に座り込んだ。痛みの収まらない下腹部がキリキリ鳴き声を上げて、そこでようやく空腹を自覚した。腕時計の針が二十時過ぎを指している。こんなことに巻き込まれなければとうの昔に帰宅して、お母さんの代わりに夕食を作っているはずだった。
サイレンがうなりを上げている。ガラス張りの玄関の向こう、門番よろしく座り込む巨大なカエルのキャラクターの前を、赤色灯を光らせながらパトカーが走り出してゆく。どこを向いても警察官ばかりで、悪事を働いたわけでもないのに居心地が悪い。中川も落ち着かない様子で人々の顔を覗いている。私も、それからたぶん中川も、警察署の世話になったのは今度が初めてだった。
駅に着いてからの流れは驚くほどスムーズで、いまでも少し夢見心地がするくらいだ。駆けつけてきた駅員さんに数人がかりで取り押さえられた痴漢は、ホームの上で延々と何かを叫んでいた。迷惑防止条例違反とかいう罪状で逮捕されたらしい。私は駅員さんに連れられてホーム上の事務室へ移動して、そこで合流したお巡りさんに話を聞かれた。さらには被害届を出さないと捜査が進まないといわれ、こうして最寄りの警察署まで連れてこられた。中川への事情聴取はすべて駅で終わっていると聞いていたのに、わざわざこうして中川は警察署まで足を運んでくれた。──私なんかのために。
「ごめん」
私は消え入りそうな声でつぶやいた。鈍い中川は「何が?」と無神経に尋ね返してきた。
「何がって、全部……」
込み上げた言葉が喉に詰まって私は言い淀んだ。
いつもの呪いだ。いくら嚥下しても詰まりは取れない。息が苦しくて、背中を丸めて嘔吐きたいのに、中川の前ではそれもできない。私は涙目で唇を噛んだ。やっとの思いでひねり出せたのは、今しがた口にしたばかりの「ごめん」一言きりだった。
謝らなきゃいけないことがたくさんある。はじめて痴漢から救い出された日も、勉強会に嫌気が差して途中離脱したときも、私は被害者面で動揺するばかりで、中川の善意や厚意にも気づけなかった。もしも素直になれたなら──なんて、情けない自分を顧みるのはもうたくさんだ。汚い場面を見せてごめん。みっともない背中をさらしてごめん。メッセージの返信すら満足にできなくて、ごめん。
「謝ることないよ。綾瀬は何も悪くないだろ」
怒ったように中川が首を振った。
「あるよ」
私も負けじと首を振り回した。
「なんにも言わないで、家に帰ったらちゃんと手を洗って。私、すっごく汚いから。汚い血で身体中ベタベタだから」
「なに言ってるんだよ。綾瀬が汚いもんか。痴漢の手が汚かったとしても綾瀬は汚くない。汚される前に僕らの手で止めたんだから」
「汚いよっ。心も身体も全部ぜんぶ……!」
やけくそになって叩きつけた言霊を、中川は右手で払いのけた。
たちまち、飛び上がらんばかりの電流が全身を巡って、思わず私は本当に吐きかけた。振り上がった中川の手が、私の右手を取ったのだった。
「だったら……これで僕も汚くなったでしょ」
震える声で中川は言い切った。
「もうやめろよ。ぜんぶ終わったんだよ。綾瀬が傷つく必要なんて何もないんだよ。この手だってちっとも汚くないよ。もしも誰かに汚いって中傷されたなら僕を呼べよ。反論が出なくなるまでそいつを論破してやる。二度とそんな口を利けないようにしてやる。だから、頼むからもう、そんなこと言うなよ。自分で自分を傷つけるなよ」
五本の指で結わえられた手のひらが熱い。論破されたのは私の方だった。いつものように突き放して逃げることもできずに、汗ばんだ中川の手と、その手に握り込まれた私の手を、途方に暮れながら見比べた。胸の奥のほうが強く燃えて、煮えたぎった血が喉元へ込み上げてくる。入り混じった無数の気泡がボコボコと沸き立っている。
初めて、中川が私に触れた。
あんなにも私に触れることを拒んでいたのに。
私のせいだ。わがままなことばかり言って私が中川を振り回すから、中川は背反する倫理の中で揺れたんだ。私に触れれば不快感を与えかねない。けれども私に触れなければ、私は堕ちていってしまう──。要らぬ葛藤の末に中川を駆り立てたのは、ほかでもない私自身なんだ。
ぜんぶ、ぜんぶ、私のせい。
身体の芯から震えが走った。絞り出すように「どうして」と疑問符を発したら、中川の手がぴくりと動いた。
「どうしてそこまでして私に優しくすんの」
うつむいたまま、息も絶え絶えに私は叫んだ。無数の気泡が口のなかで弾けた。中川の応答を待つつもりはなかった。だって、これは質問じゃない。跳ね返った衝撃で私自身を断罪するためのメガホンだから。
「意味わかんない。どうして私なんか助けたの。なんで黙って見逃さなかったの。なんで非常ボタン押すだけで、通報するだけで済ませなかったの。私なんか助けたって何の利益もないじゃん。なんなら中川が危ない目に遭ってたかもしれないじゃん。痴漢がナイフとか持ってたらどうする気だったわけっ。逆上して刺されたりしたらどうする気だったわけっ……!」
握られた手がわなわなと震える。あとからあとから気泡が膨れて弾けて、もう罵詈雑言の生成も追いつかない。嗄れ果てた喉には濁った血がだくだくとあふれてゆく。私は制服の胸元を握りしめた。じんと熱い光がスカートに落ちて、染みを描きながら砕けて消えた。
痛い。
痛いよ。
心も身体もぼろぼろだ。打ち上げられて跳ねて傷だらけになった魚みたいに。
この痛みはきっと想いの裏返しだ。私はやっぱり中川のことが好きなんだ。何も期待しないと泣いて叫んだくせして、いざ痴漢に襲われれば無意識に中川の助けを求めてしまった。なけなしの私の期待に中川は土壇場で応えてくれた。けれども隙間なく垂れ込める負の感情の下では、あふれ返る感謝も愛情もくすんでしまう。本音隠しの嘘が喉に絡みついて蓋をして、沸き立った血が胸の奥でぐらぐら暴れている。
お願い、気づいてよ。中川のことが憎いんじゃないの。憎たらしいのは私自身なの。素直になれずに嘘ばかり重ねて、傷つけるような言動ばかり取ってしまう、天邪鬼な自分が狂おしいほど憎い。死んでしまいたい。海の泡にでもなってしまえばいい。想い人の目の前で辱めを受けても抗えない、不浄で情けない私なんか──。
「……ごめん」
中川の重たい声に、はたと私は無言の自虐を止めた。
「そうだよな。ごめん。僕、綾瀬の気持ちなんか何も考えられてなかった」
ささやかな感触とともに空気が右手を包み込んで、こらえきれずに私は「あ……」と喘いだ。中川の手が私を離したのだった。うつむいた中川の瞳には光が映り込んでいなかった。うつろな横顔を床に向けたまま「たまたまだったんだ」と中川は切り出した。
「乗り込んだ電車に偶然、綾瀬が乗っててさ。迷惑かけたくなかったから話しかけないでいたんだけど、そのうち痴漢が忍び寄ってきて、綾瀬のこと触り始めて。何とかしなきゃって思った。こないだみたいに無理やり間へ入って邪魔をしてもよかったけど、それじゃ埒が明かないと思って、わざと騒ぎを起こして取り押さえた。それだけなんだ。巻き込まれた綾瀬の気持ちなんて少しも配慮できてなかった。そんな余裕、なかった」
「埒が明かないって、なんで……」
「しばらく綾瀬と距離を置こうと思っててさ」
中川は私の顔色を覗きもしなかった。
「受験、もう本当に近いから。友達との交流も絶って、追い込みをかけようと思ってる。綾瀬だけじゃないよ。クラスの連中とも会わない。話さない。そのくらいしないと間に合わない」
だから、と中川は続けた。
わずかに声が震えていた。
「……綾瀬のことも、もう、守れなくなる」
私は中川の言葉を茫然と咀嚼した。温もりの失せた世界の底で座り込みながら、その言葉がもたらす意味を考えた。たちまち、ぎゅっと胸が縮んだ。またひとつ喉の気泡が弾けて、引き裂かれるような痛みが私を襲った。──いやだ。せっかくこうして距離も縮まったのに、また離ればなれになるなんて嫌だ。けれども私には引き留める権利も根拠もない。私も三年前、中学受験の前後には周囲との連絡を絶ったし、学校だって休んだ。それほどまでに気を遣ってコンディションを整えなければ、受験は乗り越えられない。我が身をもって知った教訓は裏切れない。
「それでわざと、痴漢が捕まるように……?」
「そしたら痴漢も金輪際、綾瀬に手出しできなくなるでしょ。僕がいなくても」
「そこまでしてどうして私のことなんかっ……」
食い気味に重ねた問いかけに、中川は答えてくれなかった。ただ、黙って首を振って、それからおもむろに立ち上がった。
「綾瀬のお母さん、来たみたいだよ」
ガラス戸の向こうに人影が映っている。慌ただしい足取りで駆け込んできたのは、確かに私のお母さんだった。入れ違いに立ち去ろうとする中川の背中を、息も絶え絶えに「待ってよ」と私は見上げた。裾を掴む勇気はなかったけれど、中川は足を止めてくれた。
「誤魔化さないで答えてよ。受験が終わったら塾も辞めるんでしょ。そしたら中川、もう──」
──私の前に現れなくなるんじゃないの。
尋ねる文句は恐怖に呑まれて、続きを口にできなくなる。すべて分かっているみたいに中川は首を振った。私の姿は最後まで見てくれないまま。
「また会えるよ。……そのとき、ちゃんと話すよ」
丸い背中にコートをひるがえして、中川は警察署を出ていった。私はまだ狐につままれたような心持ちで、茫然と長椅子に腰かけていた。見開き続けた目が乾いて痛む。とうとう応答のひとつも発せられなかったのは、泡立った血で喉がグチャグチャに詰まっていたせいだ。代わりに身体じゅうから血の気が抜けて、静かな寒気が肌を包み込んだ。駆け寄ってきたお母さんに抱き締められても寒気は消えなかった。中川の手の温もりを知ってしまった欲深い私には、いまはどんな暖房も慰めの言葉も効かなかった。
「あいつのこと、初めて下の名前で呼んじゃった」
▶▶▶次回 『12 溺れる人魚姫』




