10 友達
カーテンの隙間から滑り込んできた冷気が、重い頭に針を突き刺した。
くたびれた腕を持ち上げて、カーテンを開く。淀んだ空をひらり、ひらり、光のかけらが舞い降りてきて、窓ガラスに貼り付いたとたんに溶けて空に馴染んだ。枕元の時計が午前六時を示している。そういえばクリスマスの朝は冷え込むって言ってたな──。ベッドから上体だけを持ち上げて、うずくまるように私は溜め息をついた。暖房はかかっているのに、漏れ出す息も白く凍っていた。
十二月二十五日、土曜日。
東京の天気は雪だった。
ホワイトクリスマスに特別な感慨はない。むしろ、身体が芯から冷えて憂鬱になる。むかしから寒さの苦手だった私は、冬になれば大抵、丸一日を居間のカーペットの上で毛布にくるまって過ごした。多忙な両親は寒さにも構わず仕事に出ていたし、ほかに過ごす相手もいなかった。適当にテレビをつけて恋愛ドラマなんかを漫然と眺めては、画面の向こうで抱擁する俳優たちを羨んだのが懐かしい。いとしい人の隣に立って、手を繋いで、肌を駆け巡る血の熱さを感じられたら、きっと、冬将軍もサンタクロースも怖くなくなる──。あのころの私はまだ、恋の何たるかも知らない無垢な夢想家だった。
曇った窓に吐息を吹きかける。雪よりも白く染まったガラスの表に、初恋の人の穏やかな顔が浮かんでくる。そっと人差し指を立てて、曇った場所を拭いながら、連絡の取れない中川のことを思う。中川も今、こうして肌を覆う寒さに震えながら、灰色の空を見上げているだろうか。ほんのわずかにでも私のことを考えていたならいいのに。けれどもきっと憎まれているだろうし、憎まれるくらいなら忘れられてしまいたいな。顔も声も何もかもすべて。あの日、面と向かって叫んだように。
「いたた……」
声が漏れる。頭が痛い。ほかの部位も水が染みたように重くて冷たい。寒さのせいで風邪でも引いたか。ともかく着替えようと思い立ち、凍った身体を叱咤しながらベッドを降りたところで、下腹部の違和感に気づいた私はゆるゆると脱力した。風邪の嫌疑は一瞬のうちに晴れた。
何のことはない。
女の子の日が来ただけのことだった。
ひかりやゆかりとは午前十時に池袋駅の東口で待ち合わせていた。東京の三大副都心のひとつとして君臨する豊島区の池袋は、私たちの学校から一番近い繁華街でもあった。なにも勉強会の場所が繁華街である必要はないのに、二人とも「せっかくクリスマスなのに遊ばないなんてもったいない」といって譲らなかった。仕方ないので私もよそ行きのコートに袖を通して、痛み止めを飲んで、ちょっぴり化粧の真似事も施して電車に乗った。生理中で体調も崩れているのに、つのる寒さのせいで余計に気分が悪い。仲睦まじいカップルに挟まれて吊革につかまりながら、吐き気の混じった吐息を何度も足元へ逃がした。いくら服を重ねても血の匂いが消えない。今度の生理はいやに重かった。
アレの日が来た、なんて大っぴらに白状することもできない私を、ひかりもゆかりも躊躇なく連れ回した。合流早々、駅直上のデパートになだれ込んでスポーツウェアを見て回り、アニメグッズ店の並ぶエリアに赴いて新刊の漫画を漁り、賑わう道を戻りながらブランチ代わりのクレープを頬張った。テンションの上がったゆかりが意気揚々と「ボウリングやろうよ」と言い出したので、さすがの私も忍耐が切れて「ボウリングは無理」とうめいた。お腹が痛くてそれどころじゃない。ボウリングはおろか、勉強に集中する気力も振り絞れない。
顔面蒼白の私を前に、鈍感な二人はようやく事情を察してくれた。ひとまず落ち着ける場所を確保しようと、無言の合意が交わされた。降りやまない雪を見上げながら商店街を歩いて、雑居ビルの軒下にカフェを見つけて逃げ込んだ。
「結果オーライかもね。もともと勉強する気で来てるんだもん、わたしたち」
漫画のどっさり詰まった紙袋を足元に置いて、ずず、とゆかりが紅茶を啜る。痛む頭を振りつつ私は嘆息した。誰のために勉強会を開いたのか思い出してもらいたいものだった。「吞気なもんだね」とひかりも頬杖をついた。
「こないだの数学の小テストでついに零点まで取ったくせに」
「しょうがないじゃん! 大っ嫌いな図形問題だったんだもん」
「それにしたって全問不正解なんてことある?」
「全問じゃないよ。一問だけ合ってたよ。だけど間違えたら減点される問題を間違えちゃって、それで差し引きゼロに……」
呆れ果てて物も言えなくなったひかりが、桜色のロールケーキにフォークを差し込む。「見捨てないでよ!」とゆかりが半泣きですがりつく。夫婦漫才を眺める思いで私はテーブルに突っ伏した。香ばしい紅茶の匂いがやわらかに膨らんで、雪に濡れた身体のまとう寒気を際立たせた。
数ある女性向けジャンルの中でも、ゆかりが好んでいるのは女性同士の恋愛モノだ。暇さえあれば定期試験前だろうと構わず、新刊を読みふけっては一人で盛り上がっている。こんな体たらくでも得意科目の国語や英語では平然と満点を連発するのだから、天賦の才とは恐ろしいものだと思う。私はゆかりのような天才型じゃない。はたまた、一を学べば十を覚えるひかりのように、地頭に恵まれているわけでもない。だから中学受験でも必死に努力するしかなかった。努力は嘘をつかないという両親の言葉を信じて疑わずに、同級生たちの遊び回るあいだも寸暇を惜しんで勉強して、泥臭い合格を勝ち取った。ひかりやゆかりの受験勉強なんて、不器用な私の追い込みに比べれば平凡なものだっただろう。均等で綺麗な三角形の平面を描く私たちの関係にも、少し斜めに光を当てれば、こんなふうに汚らしい凹凸が浮かび上がる。
いやなやつだな、私って──。
歪んだ心と連動するように下腹部が疼いて、脂汗を拭いながら私は顔をしかめた。テーブルの向こうで「大丈夫?」とゆかりが声を曇らせた。
「まだけっこう痛むの? お腹? 頭?」
「あんまりキツそうなら解散しようか。ゆかりにはひとまず高校進学を諦めてもらうとして……」
「ちょっと! ひどい! なんでよ!」
ゆかりの悲鳴を聞き流しながら、ひかりが大きな手で背中をさすってくれる。きめの細かい皮膚から伝わる体温が、凍り付いた身体をほのかにやわらげる。私は首を振って愛想笑いを作った。私個人の事情で誰かの予定を歪めてなるものかと、不器用な意地が奥底で燃えた。
「別にいいよ。じっとしてたら治るし」
「あかりが大丈夫なら……そうするけど」
そういいながらもひかりは撫でる手を止めない。ゆかりも不安げに覗き込んでくる。痛みで縮こまりながら私は首をすくめた。感謝よりも先に不甲斐なさを募らせる天邪鬼な自分に、こんなとき、いっそう嫌悪感が込み上げる。
「あかりの生理が重いのは前から知ってるけど、なんかあれだよね。可哀想になるよね」
「仕方ないよ。人それぞれタイプがあるんだし。あたしなんか毎回サクッと終わるから、ぜんぜん生活にも部活にも支障ないけど」
「あーあ。生理なんて来なきゃいいのにな。女に生まれて一番つらいのってぜったい生理だよ。男子はこういうの経験しないんでしょ? ほんと羨ましいなぁ」
「ほんとにね。生理なんて来なきゃ──」
大きな音を立てながらひかりがカップを置いた。波打った紅茶がこぼれそうに膨らんだ。仰天して顔を上げると、ひかりは正面のゆかりを凝視していた。
「ゆかり、来てなくない?」
ゆかりの視線が逃げるのを私は見た。
その問いかけの意味を理解するや否や、血の気が引いた。ひかりの頬からも赤みが逃げた。「え……」とひかりは引きつった声を発した。
「マジなの」
ひかりとゆかりは偶然にも生理周期が近くて、よく一緒になって苦しむ姿を見かけている。そのひかりはすでに十日ほど前、今度の生理を終えたばかりだ。ゆかりには生理は来なかった。けれども五日程度の誤差なら健康体の女性にも生じるから、そのとき私たちは「調子悪いのかな」なんていって何気なく笑い合って、それで自分を納得させたのだった。
「……なんかね。まだ来てないんだよね」
ゆかりは笑顔のまま下を向いた。開いたままの瞳孔がどろりと黒く濁って、奥に宿る光を覆い隠してゆくのを、私もひかりも唖然と見つめていた。心臓が高鳴りを始めた。下腹部の痛みも掻き消すほどに。
「……たしか生理不順の原因って色々あったよね」
「ダイエットとか過剰な運動とか、ストレスとか」
「ゆかりがダイエットなんかするわけないし、運動だって苦手だし、ストレス溜めてそうな雰囲気もないよな。進学かかってる状況でも吞気に遊び回ってるくらいだもん」
「あとは重たい病気か……妊娠?」
万が一にも妊娠など有り得ないと思いつつ、念のために列挙したつもりだった。複雑な面持ちでひかりの貶し文句を聞いていたゆかりが、その刹那、微動とともに凍り付いた。私も釣られて絶句した。
図星なら、いよいよ笑い話じゃ済まなくなる。
だけどゆかりは否定のそぶりを見せない。
「どういうこと。なんか身に覚えあんの」
震える声でひかりが尋問を始めた。ゆかりは冷え切った声で「ううん」と曖昧に笑った。
「ないよ。だって、その……中じゃなかったし」
衝撃に打ちのめされながら私は二人の尋問を聞いた。青ざめたひかりが矢継ぎ早に「ゴムはつけたの」「ピルは飲んだの」と問いを重ねる。ゆかりはどれにも首を振って応じた。それらのやり取りの意味を理解しないほど、私も性知識の浅い子供ではなかった。
ゆかりは避妊に失敗したのだ。
そして、そういうことをする相手がいたのだ。
ぐいと引っ張られるように意識が遠のいた。真っ先に目の奥をちらついたのは、ゆかりにも置いて行かれた、という身勝手な動揺だった。交際経験があるのはひかりだけだと思い込んでいた。いや、ゆかりの相手はそもそも交際相手ではないのかもしれない──。喉を詰まらせた私の代わりに「誰なの!」とひかりが立ち上がり、ゆかりの両肩を掴んだ。物言わぬ海藻のようにゆかりは揺れた。
「ねぇ、教えなよ。相手は誰なの。誰がゆかりにそんなことしたの。今からでも間に合うなら何とかしなきゃでしょ。七十二時間以内ならアフターピルだって……!」
「もう過ぎちゃったよ。一週間も前だもん」
ゆかりは力なく笑った。
カラオケだ。勉強会の日取りを決めたときの折衝を私は思い返した。あのときゆかりは『友達とカラオケにこもって勉強会をやる』先約があるといって、先週土曜日の開催を拒否したのだった。
「もう過ぎちゃったって、そんな簡単に……! 前に言ってたカラオケの日でしょ。友達だか何だか知らないけど、そんなことするやつと付き合うのは今すぐやめなよ。今だって十分ヤバい状況なんだし、これからだって何されるか分かんないよ!」
目を怒らせながらひかりが叫ぶ。ゆかりは口元から笑みを引かなかった。つぶらな瞳の奥は曇天のような闇色に沈んでいた。そっと首を振り、ひかりの手を掴んで剥がしながら、ゆかりは「無理だよ」と目を伏せた。
「付き合いやめるとか、無理。わたしの一存じゃ決められないもん」
「なんでよ! 友達なんでしょ! 違うってんなら一体なんなの!」
「そんな細かいことまで話せないよ」
「はぁ? いまさら何言って……」
「友達だからって何でもかんでも話せるわけじゃないよ。二人だってそうでしょ?」
心臓が跳ねた。ひかりの心臓も跳ねたみたいだった。言葉を失った彼女が椅子に座り込むのを茫然と私は見つめた。おもむろにゆかりが首を振った。青白い光を宿した彼女の瞳は、動揺する私たちの姿を捉えてもいなかった。
「わたしの事情なんか話したって、きっと二人は理解してくれないよ。そのつもりがないとかじゃなくて、できないの。わたしたちは一〇〇%分かり合えるわけじゃない。どんなに仲良くても結局は他人だもん。だったらわたし、そんな危ない橋を渡りたくない。二人の前では嫌なこと考えずにのんびり仲良くしてたい。……それとも二人は、そうじゃないの?」
どす黒い諦念がゆかりを支配している。肯定も否定もできない私たちを一瞥して、ゆかりは静かに自嘲の笑みを拭い去った。店内BGMの音量が上がる。むせ返るような紅茶の香りが空気を濁す。窓の外の雪は雨に変わって、傘を差した人々が慌ただしく往来している。
ゆかりの言うことは息苦しいほどの正論だった。実際問題、言えないことなんかたくさんある。ひかりだって病院通いの理由を明かしてはくれないし、私も痴漢の件や勉強会の経緯は隠したままだ。これから先も明かすつもりはない。この醜い身体の秘密を知られたら軽蔑されるのが分かり切っているから、話したくても話せない。きっとひかりもゆかりも私と同じ。ゆかりはただ、そういう暗黙の諒解をほんのわずか詳らかにしただけ。そうと分かっているのに、喉元に刃物を突きつけられたような不気味な心持ちが消えない。胃の底が濁って、吐き気が上ってくるのを私は覚えた。膨れ上がった悪心はたちまち喉を塞いだ。口にできない言葉が、想いが、血の匂いを発しながら身体のなかで淀んでゆく。
ああ。
やっぱり私、湯附でもやり直せなかったのかな。
小学校では心を預けられるような人間関係を紡げなかった。すべてをゼロに戻して挑んだ中学生活で、ひかりやゆかりは私の友達になってくれた。けれども私は事実、二人に自分の核心をさらけ出せていない。それは二人も同じことで、結局、私たちは互いに胸襟を開けるほどの関係には至れていなかったのだ。三年前の私が恐れた未来だ。私が私であるうちは、何度やり直そうとも行き着く先は同じなんじゃないか──って。
──『俺たち、もう、素直に何でもかんでもさらけ出せる歳じゃないんだ』
小台くんの声が沈黙を乱すように波紋を広げた。ぞっと這い上がるように湧いた不安が、うなだれた私を鼻の先まで染めてゆく。このままでいいわけない、私だけでも心を開けと、閉じ込められた理性が胸底で叫ぶ。私は首を縦には振らなかった。振れるわけがなかった。うつむいているから二人の顔も見えなかった。
「……そうだよね」
ひかりが紅茶を啜るのが聴こえた。
「あたしたち、バカ話で盛り上がってるくらいがちょうどいいもんね」
いやに明るい声だった。そのまま彼女が勉強道具を取り出したので、私も、ゆかりも、足元のカバンを黙々と漁った。いくら漁っても真意を問いただす勇気は出てこない。込み上げた吐き気も消えない。今はただ、隠しごとを抱えすぎて歪に膨れた心が、胸の形に合わなくて痛むばかりだ。
「また会えるよ。……そのとき、ちゃんと話すよ」
▶▶▶次回 『11 触れた手』




