表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/21

01 三分で破れた初恋








 ──お姫さまは、絹やモスリンの、りっぱな着物をいただきました。お城の中で、お姫さまが、だれよりもいちばんきれいでした。でも、かわいそうに、おし(※)だったのです。歌をうたうことも、ものを言うこともできません。絹と金とで着かざった、美しい女のどれいたちが出てきて、王子と、王子のご両親の王さま、お妃さまの前で、歌をうたいました。中のひとりが、ほかのものよりもじょうずにうたいました。すると、王子は手をたたいて、その女のほうへほほえみかけました。それを見ると、人魚のお姫さまはとても悲しくなりました。自分だったら、もっともっとよい声でうたうことができたのに、と思ったのです。そして、心の中で言いました。


「ああ、王子さま、あなたのおそばにいたいために、あたしは、永久に声をすててしまったのです。せめて、それだけでも、わかってくださったら」




 ──H. C. Andersen

   「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)より


     (出典:青空文庫)

     (https://ww) (w.aozora.g) (r.jp/cards) (/000019/fi) (les/58848_) (67709.html)

     (※おし(唖)……口が) (きけないこと。何らか) (の障害があって言葉を) (話せないこと。)






挿絵(By みてみん)




 



 ──ああ、また来た。

 スカート越しの不気味な感触に鳥肌が立った。

 有象無象の汗の匂いを詰め込んだ、午後六時の常磐線快速取手(とりで)行き。無数に連なる人垣のどこかで、誰かがベージュのダッフルコートをたくし上げ、太ももに手を伸ばしている。私は吊革を強く握りしめた。ぐっと喉が鳴った。速度を上げた電車が橋に差し掛かる。モーターの発する甲高い振動が、強張った私の身体を小刻みに突き上げる。『次は北千住(きたせんじゅ)、北千住』──。アナウンスの無機質な声に、また喉が鳴る。

 直近の半月で九回目か十回目だ。

 手つきと手口からして、たぶん同一人物。

 毎日のように電車の時間を変えているのに、偶然じゃ片付けられないほどの精度で私を見つけては、息をひそめて時を待つ。そうして、最後の一区間で手を出してくるのだ。川を挟んで対峙する二つの駅を結ぶ、所要時間三分の直線区間で。

 車内放送が乗換路線を案内している。名残を惜しむように痴漢の手つきが激しくなる。声を上げかけて、私は懸命に唇を噛んだ。もうすぐだ、あと少しの我慢だ。駅に着いたらすぐにでも逃げ出してやるんだから。ささやかな決意で気を慰めても、込み上げる不快感は消えてゆかない。けれども抵抗を試みる勇気も気力もない。

 気を紛らわせてくれる存在を求めて、左手で必死に英単語帳をめくった。何の変哲もない中学三年生向けの単語帳だけど、いっとき恐怖を忘れるには役に立った。


【I wish I could be honest.】


 例文の文字が掠れてぼやける。この構文は多分、習ったばかりの仮定法過去だ。現在の事実に反することを願望の形で述べる反実仮想の表現。つまり例文の意味は『素直になれたらいいのにな』。

 揺れる電車の中で私は首を縮めた。私の人生なんて反実仮想だらけだと思った。もしも裕福になれたなら、もしも今より可愛くなれたなら、もしも素直になれたなら──。そうすれば痴漢ごときに屈することなく、もっと心豊かに自信満々に、溌溂とした青春を送れたのだろうか。心の割れ目から染み出した後悔が、ただでさえ苦しい喉をいっそう締め付ける。息が詰まって、吐き気が込み上げて、崩れ落ちるように私は吊革へぶら下がった。

 もう嫌だ。

 もう限界だよ。

 痩せた心を映すようにしなびて垂れた黒のポニーテールが、刹那、後頭部に人の気配を感知した。

 どんと体当たりを受けた身体が前へ押し出される。誰かが不意に私と痴漢のあいだへ割って入ってきた。痴漢の手が太ももから剥がれた。荒い息遣いが遠くなった。


「逃げて!」


 低いささやき声が耳をくすぐった。男の人の声だ。舌打ちの音も響いた。鳥肌が立ったままの両足に、機械的なドアチャイムと乾いた冬の冷気がまとわる。開いた扉から喧騒が流れ込んでくる。私を乗せた電車は、いつの間にか降車駅へ着いていたのだった。

 転げ落ちるように私は電車を降りた。『ご乗車ありがとうございました』──柱の並ぶプラットホームにアナウンスが反響する。乗降客でごった返すホームを見渡しても、私を襲った痴漢の姿は見当たらない。無理もない。私が痴漢の立場ならそのまま電車に乗り続ける。だって乗り続ければおのずと逃げられるのだから。

 まだ動悸が収まらない。ぐちゃぐちゃにされた心は血の色に濡れたままだ。身体から力が抜けてへたり込みかけていると、にわかに慌ただしい足音が背中を叩いた。


「大丈夫だったですか」


 はっと私は顔を上げた。私と痴漢のあいだへ割り込み、脱出を促してくれた人の声だとすぐに気づいた。

 お礼を言わなきゃ。

 胸の奥に義務感が膨れ上がる。

 無理に笑顔を浮かべようにも、表情筋の制御さえおぼつかない。歪んだ顔をマフラーに埋め、(あえ)ぐように深呼吸をして向き直る。わたわたと彼が手を振るのが見えた。


「あの、なんか無理に下ろしちゃってすいません。あのままだとまずいと思ったから、とりあえず痴漢から引き剥がさなきゃって焦って、それで」

「えと、その……いいんです。どうせ私、この駅で降りるつもりだったし……」


 滑り出してゆく十五両編成の電車が風を巻き上げる。その一瞬、すん、と鼻先をくすぐった匂いに釣られて、ぎこちなく私は顔を上げた。

 懐かしい匂いだった。

 よく知っている人のものだ。優しくて、温かな。

 とっさに脳幹が警告を発した時には、彼と目を合わせてしまっていた。嫌な予感は的中した。解きほぐしたばかりの頬が引きつって固まった。ほとんど同時に彼は呼び声を発した。


「もしかして……綾瀬(あやせ)?」

(なか)……(がわ)っ……」

「びっくりした。小学校以来だよね。背格好も変わっちゃってたから気づかなかった」


 彼はまん丸の目で後頭部を掻き始めた。

 中川(なかがわ)(かなた)、十五歳。私と同じ中学三年生。むかし小学校で私のクラスメートだった男子だ。見上げるような背丈は優に一七〇センチを超えている。大人しい口ぶりにも、裏を感じさせない爽やかな口元にも、あのころの面影が色濃く残っている。私は口を閉じることもできない。暖房を浴びて乾燥しきった唇に、細いひび割れが走って痛みを放ち始めた。

 どうしよう。

 頭、真っ白だ。

 顔は真っ赤なのに。

 とんだ醜態を晒してしまった。どうか見知らぬ人であってほしかった。昔の知り合い、それもよりにもよって中川(このひと)の前で──。


「中学受験して湯附(ゆふ)に進学したんだったよな。元気してた?」


 不器用に中川が問いかける。おずおずとうなずくと、彼は一歩、私に向かって距離を詰めた。かかとにホームの壁が当たった。後ずさる余地はなかった。

 去ったはずの吐き気が急に込み上げてきた。

 そっか、と中川が微笑む。嘔吐をこらえるのに必死で、私は首も満足に触れない。


「そんなことより大丈夫かよ。ああいうの今日が初めてなの? それとも常習?」

「……常習」

「常習って、それじゃ狙われてるってこと? やばいよ綾瀬。通学経路も変えた方がいいよ。下手したら綾瀬の通学先だって知られてるかもよ」

「……うん」

「うん、じゃないってば。とりあえず駅員さんのところに行こう。痴漢されましたって言おう。車内に監視カメラがついてるはずだし、それ見れば犯人だって……」

「……いいよ。放っといてよっ」


 耐え切れずに私は叫んでしまった。

 叫んでから、言い放った台詞の一字一句を噛みしめて、青ざめながら口元をおおった。

 まん丸に見開いた目で中川が私を見つめている。分厚いコートの胸元には、嘔吐した土気色の言葉が赤黒く飛び散って染みを作っていた。鼻を刺す血の匂いに顔が歪んだ。

 ──ああ。

 伝わっちゃった。

 こんなことを叫ぶつもりじゃなかったのに。

 いまさら発したものは取り消せない。どろりと垂れ込めた覚悟に背中を押され、私は無我夢中で首を振り回した。


「私の問題だから私で何とかする。だから忘れて。お願いだからぜんぶ忘れて」

「そんなことできるわけ──」

「忘れてって言ってんの! 分かってよ!」


 渾身の力で私は中川を突き飛ばした。よろめいた中川の脇を駆け抜け、脱兎よろしくエスカレーターを目指す。「綾瀬!」──叫ぶ彼の声も気配も血なまぐさい匂いも、なだれ込んできた雑踏に蹴散らされて消えた。私は死に物狂いでエスカレーターを駆け上がった。広いコンコースに踊り出て自動改札機にICカードを押し付け、よろめきながら壁にもたれかかった。立ち込める吐き気で口の中が酸っぱい。弾けんばかりに高鳴る心臓から、鈍い痛みが胸いっぱいに広がってゆく。

 やっちゃった。

 底なしの失意で目の奥がツンと()みた。

 最低だ。ろくに感謝も伝えないまま、忘れることだけを一方的に強要して、返事も待たずに逃げてきちゃった。もう二度と顔向けできないよ。ぜんぶぜんぶおしまいだ。

 ぐったり閉じたまぶたの奥に、小学校時代の記憶が浮かび上がって水色に霞んだ。

 私──綾瀬(あやせ)灯里(あかり)は、中川奏の同級生だった。クラス替えでも奇跡的に分かれることはなく、六年間ずっと同じクラスであり続けた。でも、その記録は中学進学とともに途切れた。私が中学受験を成功させ、地元の中学校に通わない未来を選んだからだ。いまも私は地元の駅から電車を乗り継いで、片道一時間近くの遠距離通学を続けている。顔を合わせることのない日々が続くうち、小学校の人間関係は跡形もなく失われた。記憶も刻一刻と薄れていった。それでも中川のことは不思議と思い出せる。親しげに話しかけてくれたこと、一緒に本を読んだこと、学芸会の演劇で同じ舞台に立ったこと。卒業式の日、ひとり物陰で泣いていた私を目ざとく見つけて、その手を差し伸べてくれたこと。

 私は中川奏が好きだった。

 あまりにも淡くて幼い、まぼろしみたいな初恋を引きずったまま、卒業とともに離ればなれになった。

 中川にだけは痴漢を受ける姿を見られたくなかった。黙って耐えることしかできない私を見て、あの人がどんな心象を抱いたのか想像もしたくなかった。心優しい中川のことだから、きっと私を憐れんだのだろう。可哀想に思ったからこそ手を差し伸べてくれたのだろう。それもこれも憶測でしかない。だって私は中川の手を払いのけてしまったから。

 ああ。

 やっぱり私の人生なんて反実仮想だらけだ。

 もしも素直になれたなら、中川の手を取って礼を言って、それから真心を込めて伝えたのに。あのころ好きだったんだよ、って。


「どうしよう……」


 途方に暮れてうなだれる私の前を、電車を降りた人々の群れが通り過ぎる。私はチェックのマフラーを口元まで引っ張り上げた。いくら深呼吸を試みても吐き気と動悸が収まらない。灼けるように赤く、熱くなった目頭から、いまにも心が砕けてこぼれ落ちそうだった。







『もしも素直になれるなら』をお手に取っていただき、ありがとうございます。


本作は隔日更新です。冒頭3話を一挙公開後、2日に一度のペースで更新してゆきます。

全21話、完結は6月14日の予定です。

完結までお付き合いいただけたら幸いです。


■!■ 本作は「第十五回 書き出し祭り」参加作品です。

■!■ この物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体・事件とは一切関係ありません。

■!■ R15指定作品です。流血・傷害・犯罪等の描写が含まれています。閲覧には注意をお願いします。





「そしたら私だって今頃、誰かの前で真っ当に恋をしていたの?」


▶▶▶次回 『02 人魚姫の憂鬱』




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ