二文字間違えただけなのに。
きっかけは、単なる『誤字』だった。
これは、私の不注意が招いた事態。でも、それだけで済ませるにはあまりにも凄惨で、恐ろしくて……現実とは思えない光景だった。
目を逸らすことなんてできなかった。汚い道路に座り込んで、私は恐怖にわななきながら、眼前に広がる地獄さながらの惨状を直視するのみ。
狂おしく踊るパトカーの赤色灯に、続々と集まる野次馬達、声を上げてそれらを追い払う数名の警察官。
そして……血にまみれた死体と化した、友達の姿。
死してなお、命を失ってもなお……彼女の瞳は私を一直線にとらえ、決して逸らさなかった。
――赦さない。お前が私を殺したんだ、私はお前を、絶対に赦さない。
そんな声が聞こえてきそうなほどの、憎悪と糾弾が込められた眼差し。
恐怖と罪悪感に蝕まれ、全身が石のように硬直してしまって立てなかった。尿が漏れ出て、下着が濡れるのを感じた。
悪夢なら、早く覚めてほしい……私が見ているのはまぎれもない『現実』で、何をしようと覆らないものだった。
◎ ◎ ◎
哀子は、私の幼馴染だった。
彼女が住むマンションは私の家のはす向かいで、幼稚園の頃からの仲だった。
昔からよく哀子は家に来たり、逆に私が行ったり……そのたびにお人形さんごっこやお店屋さんごっこ、それにお絵描きやゲームをしたりした。春や夏には公園で遊んだり、四つ葉のクローバーを探したり、冬にはふたりで大きな雪だるまを作った。お互いの親に連れられて、一緒にショッピングモールに行ったりもした。
幼馴染であり、長く同じ時間を共有した親友。そう、哀子は親友だった。物心ついた頃からいつも一緒にいて、私の人生で初めてできた……かけがえのない友達だったのだ。
だけどひとつ、哀子には難点があった。
小さい頃から彼女は極度に内気な性格で、人見知りが激しくて……こんな言い方をしていいのかは分からないけれど、とても陰気な子だったのだ。
幼稚園でも哀子は私以外とは一切話さず、誰とも目を合わせようとはしなかった。私と遊んでいる時に他の子が来たりすると、怯えるように視線を逸らし、縮こまって私の後ろに隠れてしまうのが常だった。
さらに多くの人の視線に晒されるのも苦手で、お遊戯会の時とかは壇上に上がっただけで泣き出してしまって……哀子はひとりだけ、お遊戯に出るのを免除されていた。
哀子ちゃんだけずるい、特別扱いされている……当然ながら、他の子達からそんな不満の声が上がった。だけど先生は、『哀子ちゃんは誰よりも泣きやすい子なの、分かってあげて』と皆に教え諭していた。
幼稚園の頃は、それでみんな納得した。だけど、小学校に進学してからはそうもいかなくなった。
内気で大人しい哀子は、男子達からいじめの格好の的になったのだ。うじうじ女、陰気女、じめじめ毒キノコ女……そんな悪口を浴びせられる哀子を、もちろん私は放ってなどおかなかった。
――哀子をいじめんな、このバカ男子ども!
哀子をいじめる男子を目にするたび、私は叫びながらそいつに飛び掛かった。
当然、男子と女子だから力の差はある。でも髪の毛を鷲掴みにしてやれば、もう何もできない。もしくは、先手を打って顔面に強烈な一撃を喰らわせれば、そいつは戦意喪失して退散する。幾度か重ねた男子とのケンカで、私はそれらを学んでいた。
そして哀子を救うたびに、彼女は私に『ありがとう』と言ってくれた。
それが嬉しかったのは間違いない。間違いないのだけれど、私は日々不安を募らせていった。このままでいいのだろうか、私がいなくなったら、哀子は自分で自分の身を守れるのだろうかと感じたからだ。
依存という言葉を知ってから、私は今のような状況がいつまでも続いていては、彼女のためにならないと考えるようになっていった。
――哀子、少しは強くならないと……私もいつまでも、哀子のそばにいてあげられるとは限らないし……。
夏の日の夕方(その日も、哀子は男子にいじめられた)、私は隣を歩く哀子にそう切り出した。
もちろん、私は哀子を責めるつもりで言ったわけじゃない。純粋に彼女を思えばこそ、哀子を心配しての言葉だった。
しかし、哀子の反応は思いがけないものだった。
ただ黙って私を見つめ続けたかと思うと、急に頭を抱えてしゃがみ込んで、ぶるぶると全身を震わせ始めたのだ。
驚いた私が何かを言うより先に、
――夏希ちゃんも私をいじめるの? 夏希ちゃんもあの男子達と同じなの? ひどい、ひどいよ……!
哀子が、涙ながらに私を糾弾したのだ。
突然のことに困惑したけれど、それ以上に罪悪感が勝った。私にはそんなつもりなどなくとも、哀子からすれば、心を抉られる言葉だったのだろう。
後悔に苛まれながら、私は哀子の肩を抱いた。
――違うのよ哀子、ごめんね……ずっと私はそばにいるから、哀子のこと、ちゃんと守るから……! だからお願い、許して……あんなこと、もう絶対言わないよ!
それ以来、私はもう哀子に何かを言うのをやめた。
そして、彼女への言葉に気を遣うようになった。また不用意なことを言って、哀子を傷付けてしまったら……もう、取り返しがつかないと感じたからだ。
いじめられる哀子と、彼女を守る私。
私達のそんな関係は、小学校の六年間が過ぎても続いた。同じ中学校に進学し、クラスが別々になっても続いた。
哀子は相変わらず内気で、陰気で、社交性がなく……中学生になってもクラスで浮いてしまって、いじめの標的になっていた。それは、小学校の頃とまったく同じ状況だった。
私は引き続き、いじめから哀子を庇い続けた。小さい頃から男子達と何度もケンカしていたお陰で、気丈さには自信がついていた。
哀子を守ることは使命だと感じられていたし、いじめに立ち向かう私を先生も褒めてくれた。
高校に進学しても、きっと私は哀子を守り続けるのだろう……と思っていたけれど、そうはならなかった。
進学先の高校は同じだったけれど、哀子はすぐに不登校になってしまったのだ。
小学校の頃から……いや、幼稚園の頃から、哀子は人の目に耐え忍んで日々を過ごしてきていたのだ。他の大勢の子がいるという状況、学校に通っている以上は当たり前だろう。しかし哀子にとっては、重石を背負わされているようなものなのかも知れなかった。
哀子はずっと耐えてきた、我慢してきたのだが、高校に進学した直後についに限界が訪れたのだ。
私は心配して家を訪ねた。だけどお母さんから、哀子は部屋に引きこもったまま出てこないという事実を聞かされた。
それでも何かできないかと思い、お母さんから哀子は一応携帯電話を持っているということを聞かされて、私はメモ帳を取り出してそこに自身のメールアドレスを書き記した。
――私のメールアドレスです、何かあったら相談してって、哀子さんに伝えていただけますか?
そう告げて、お母さんに手渡した。
以降、私は哀子とはメールでやりとりをするようになった。
顔を見なくはなったものの、哀子を守るという使命感は失わなかったのだ。
しかし、哀子と会わなくなったのをきっかけに、彼女の存在が私の中で希薄となっていったのは事実だった。
思えば、幼稚園でも小学校でも、中学校でも……私は哀子に気を遣いながら日々を送ってきた。
それがなくなったことで、私は初めて自分自身の学生生活を謳歌できるようになったのだ。それまではできなかったこと……思うように友達を作り、バスケットボール部にも入り、みんなと一緒に勉強して笑い合う……正直言って、枷から解放された心地だった。
こんなこと、本人には言えないけれど……私はこれまで哀子に縛られてきた。彼女という存在があったせいで、自分は鉄格子のない牢獄の中にいたのだ……そう感じるようになった。
その考えは、日に日に強くなっていった。
哀子とは毎日メールを交換していた。初めのうちは、繊細な哀子を傷つけることが書いていないかと、私は打ったメールを送信前に何度も読み返していた。でも、面倒になり始めて……次第に確認もしなくなった。
部活の休憩時間中、私は更衣室で水筒と一緒に携帯電話を鞄から取り出した。
哀子に、メールを打っておく。
哀子、元気?
やっぱり、まだ学校に来るのが怖いの?
また哀子の家に行こうと思うからさ、今度は顔を見せてよ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
休憩時間は、給水のためのもの、本来は携帯電話などいじっている時間などない。
すぐに先輩から呼び戻されて、私はそのメールを送信し、携帯電話を鞄に放り込んでバスケットボールの練習に戻った。
もちろん、そのメールが悪夢への入り口だったなんて、夢にも考えはしなかった。
練習を終えて、自転車で帰路に着いていた私の視界に、人影が映った。
時刻は六時半を回っていて、すでに日は落ちていた。ゆえに、その人物の顔は見えなかった。
人影は動きもせず、ただ私の家の前に佇んでいた。その様子はまるで、私を待ち構えているようにも見えた。
誰なの? 私の家の前で何をしているの? 怪訝に思った私は、思わず自転車を降りた。
近づいていって、その人が女だと分かった。
白いワンピースをまとっていて、黒い髪をぼうぼうに伸ばした女の子……不気味だと感じたけれど、直後に私は、その人物の正体に気づいた。
「哀子……?」
前髪から覗くその顔を見て、一目で分かった。
彼女は、哀子だったのだ。しばらく会っていなかったが、間違えるはずなどなかった。
「どうしたの、こんな時間に……!」
私は哀子に駆け寄った。
彼女の顔を間近で見て、思わず息を飲んでしまった。
遠くからでは分からなかったが、哀子はげっそりと痩せていて、顔色がとても悪かった。目元にはクマまでできていて、とても健康な状態とは思えなかった。
自転車を道路に停めて、私は彼女に話し掛ける。
「その顔、どうしちゃったの? 何があったの?」
哀子は答えなかった、私と視線を合わせようとすらしなかった。
何日もお風呂に入っていないのか、彼女の体からは異臭が漂っていて、思わず顔をしかめそうになった(でももちろん、反応しないように努めた)。
「哀子……?」
心配がちに、私はまた話し掛けた。
すると、彼女はやっと答えた。しかし、私の質問に返答したわけではなかった。
「裏切った……」
とても低く聞き取りづらい声で、哀子がそう言った。
「えっ、何?」
怪訝に感じた私が訊き返すと、哀子はやっと顔を上げた。
泥のように濁った瞳が、私を捉える。
「夏希ちゃん、私を裏切った……」
何を言っているの?
そう言う暇は与えられなかった。
一体、いつからそんな物を……いや、最初からずっと持っていたのだろう。哀子の右手には、果物ナイフが握られていた。街灯の明かりを、その鈍い銀色の刃が反射しているのが分かった。
えっ? えっ? どうしてこんな物を? そう言う必要もなかった。
その使い道を、彼女自身が口にしたからだ。
「殺してやる、殺してやる!」
直後、哀子が迫ってきた。
状況の理解が、まるで追いつかない! 何でなの、何でこんな……それが間違いだった。
凶変した哀子が襲い掛かってきた理由――今は、そんなことを考えている場合ではなかったのだ。
振り回された果物ナイフが、私を一直線に切り付けた。
「ああああああああっ!!!!!」
痛みに悲鳴を上げる私、溢れ出た血液が頬を伝い落ちるのが分かる。
でも、気を抜く猶予は与えられなかった。哀子がまた、果物ナイフを持ち直して私に飛び掛かってきたのだ。
私は反射的に、果物ナイフを持った哀子の右腕を掴んで押さえた。
「ぎぎぎぎぎぎぎ……!」
奇声を発しながら、私を刺し殺そうとする幼馴染。
目を見開き、口の端から涎を垂らして迫るその姿は、まさしく狂人だった。
「哀子やめて、何でこんなことするの! 私が誰だか分からないの!?」
「分かる、夏希ちゃんだよおっ!」
果物ナイフを私に向け続けながら、哀子は言った。
「信じてたのに、信じてたのに、私に『死ね』って言った、私を裏切った……とっても残酷で嘘つきで下衆で下劣で悪辣で鬼畜で最低で悪魔で売女で性悪で雌豚でドブネズミでゴキブリでウジ虫でダニでムカデで糞にたかるハエで、生きてる価値のない夏希ちゃんだよおおおおおおおっ!!!!!」
猛烈な口臭を吐き出しながら、私に悪口雑言を浴びせかける哀子。
無数の暴言は、私の心を針のように突き刺した。でも、気になったのは彼女が最初に言ったことだ。
死ねって言った? 私が、哀子に……?
もちろんそんな覚えはない、私は彼女に、そんなことは絶対に言っていない。
「哀子っ……!」
呼びかけを無視して、哀子はまた私に襲い掛かってきた。
私はとにかく、逃げることを最重要事項と定めた。家に入って鍵を掛ければ良かったのだけれど、正常な思考をしていられるような状況ではなく、そんなことも考え付かなかった。
とにかく走った、曲がり角を利用して追ってくる哀子を振り切り、電柱の陰に身を潜めた。
そして私は、携帯電話を取り出して送信済みトレイを開き、自分が送ったメッセージを呼び出した。哀子がおかしくなった理由が、そこにあるはずだったからだ。
「はあっ、はあっ……っ……!」
携帯電話を操作しつつも周囲に視線を巡らせ、哀子が「なあああああつきちゃあああああん、遊ぼうよおおおおお」などと言いながら、ひたひたと足音を立てつつ(彼女は裸足だった)道路を歩いていくのが見えた。その右手には、果物ナイフが握られたままだった。
見つかったら、また襲われる……殺される……!
恐怖に身を震わせつつ、携帯電話に視線を戻した。こんな状況に至った原因を究明することも、私には重要事項であったからだ。
私が開いたのは、さっき部活の休憩時間中に送ったメール。というのも、これが哀子に送った中では最新のメールだったからだ。
哀子、元気?
やっぱり、まだ学校に来るのが怖いの?
また哀子の家に行こうと思うからさ、今度は顔を見せてよ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
――読み返してみて、何の変哲もないメールだと思った。
どこをどう見たって、哀子に『死ね』などとは言っていない。
原因は、このメールじゃないってこと? それじゃあ、別の日の……?
そう考えつつ、震える手で携帯電話を支えながら、今一度私は自分が書いた文章を読み返してみた。
哀子、元気?
やっぱり、まだ学校に来るのが怖いの?
また哀子の家に行こうと思うからさ、今度は顔を見せてよ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
――そして、何かが引っ掛かるのを感じた。
もう一度……もう一度注意深く、まばたきもしないで最初から最後まで読んでみた。
哀子、元気?
やっぱり、まだ学校に来るのが怖いの?
また哀子の家に行こうと思うからさ、今度は顔を見せてよ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
本文の一か所が、目に留まる。
哀子、元気?
やっぱり、まだ学校に来るのが怖いの?
また哀子の家に行こうと思うからさ、今度は顔を見せてよ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
やっぱり、まだ学校に来るのが怖いの?
また哀子の家に行こうと思うからさ、今度は顔を見せてよ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
また哀子の家に行こうと思うからさ、今度は顔を見せてよ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ。
「ああっ、あああああっ……!」
意味のない声が、口から漏れ出た。
私は、気づいた。気づかされた。
手の平が汗でベトベトになり、口の中が渇くのを感じる。
哀子がおかしくなった理由が分かった。彼女が何故、私に『死ね』と言われたと言うのかも理解できた。
私が送ったメール、その最後の一行に……答えが集約されていたのだ。
私ね、哀子に『絶命』してほしいんだ。
岩石で殴られるような衝撃が、全身を走り抜けた。
私はここを、『私ね、哀子に説明してほしいんだ。』と書いたつもりだった。でも、『説明』のところを『絶命』と打ち間違えていたのだ。
昨日、私の好きな『絶命少女』という漫画をネットで検索した。次の単行本の刊行日が知りたかったのだ。その時の予測変換履歴が携帯電話に残ってしまい、『せつめい』が『絶命』に変換されてしまったのだ。
私ね、哀子に絶命してほしいんだ……。
これでは、哀子が私に『死ね』と言われたと受け取っても不思議はない……!
私がやってしまった、とんでもない変換ミス。凶変した哀子と、彼女が私に向ける凄まじいまでの殺意……! この状況に至るまでの事柄が、パズルのピースを組むように頭の中で形となっていった。
だとしたら、だとしたらこの状況は、私の『誤字』が招いたってことに……!
その時だった。
「みいいいいいつけたあああああ」
壊れた機械が発するような声に、弾かれるように後ろを振り返った。
いつの間にそこにいたのか、ぼうぼうに黒髪を伸ばして右手に果物ナイフを握った少女が、私の僅か数メートル先に立っていたのだ。
「っ!」
立ち上がって逃げようとする私、しかし後ろからがっちりと髪を鷲掴みにされて、地面に引き倒された。
「がっ!」
後頭部を打ち、鈍い痛みが走る。悶える私に、哀子が馬乗りになった。
「夏希ちゃん、痛い? 痛い……?」
ゲラゲラと笑う哀子が、私の腹部に果物ナイフを突き立てようとする。
どうにか彼女の右手首を両手で掴み、それを阻止することに成功した。だが、ナイフの切っ先はじわりじわりと私の胸に迫ってくる。不健康に痩せた哀子の外見からは、想像もできないほどの力だった。
哀子にとって、私はもう憎悪の対象でしかない。彼女は私の命を奪うことに必死なのかも知れないが、私も自分の命を守ることに必死だった。
しかし、下から押し返すだけの私に対して、哀子は自身の体重も乗せてナイフを突き下ろそうとしている。体勢的に、私は完全に不利だった。
ダメ、押し返せない……このままじゃ刺される……!
「死んで」
汚い歯を覗かせて、哀子が笑った。
彼女が持つナイフの切っ先が、私の胸に触れようとした時だった。
「おい、君達何をしている!」
どこかからか聞こえた男性の声に、哀子の注意が私から逸れた。
運よく、通行人が現れてくれたのだ。奇跡的に生じたその一瞬の隙を、私は見逃さなかった。
勢いを付けて起き上がり、馬乗りになっていた哀子を前方に突き飛ばす。それは、逃げる時間を稼ぐための反撃だった。言うなれば、正当防衛のつもりだったのだ。
死に物狂いだった私は、哀子を突き飛ばした先に何があるのかなど気にもしなかった。
「っ、危ない!」
叫んだのは、さっきの声を発した男性だ。
次の瞬間、クラクションとブレーキの音がけたたましく鳴り渡り、私は弾かれるように、それらが発生した方向へと視線を向けた。
――道路に飛び出した哀子目掛けて、大きなトラックが迫っていた。
「っ!」
私は息を飲んだ。
逃げる以前に、状況の整理が追いつかなかったのだろう。哀子は逃げることも、声を上げることすらなかった。
次の瞬間、グシャリという鈍い音が響いた。それは人体が打ち砕かれる音――何トンもある大型トラックの衝撃をまともに喰らい、哀子が宙に撥ね飛ばされる音だった。
偶然か必然か、哀子は私の目の前に落下した。その瞬間、私はビクリと身を震わせた。
目の前で起きた惨く恐ろしい出来事に、私はそれが現実なのかを疑わずにはいられなかった。
しかし、夢でも幻でもないことを否応なく思い知らされる。目の前に転がる哀子の姿が、動かぬ証拠だった。
道路に伏した哀子は、ピクリとも身動きをしなかった。
流れ出したおびただしい血液が、彼女を中心に赤い水溜まりを形成していき、やがてそれが指に触れ、私の靴や制服のスカートに染み込んでいくのが分かった。
恐怖、それに罪悪感が頭の中を駆け巡る。私はただ、震えながら無意味な言葉を発することしかできなかった。
「ひっ、ひいいいいいっ……!」
トラックを運転していた男性が降りてきて、哀子を見るなり悲鳴を上げた。
「バカ野郎! 急に飛び出して……ひっ、ひえええええっ!!!!!」
さっきのブレーキ音やクラクション、それに哀子が撥ねられる音を聞きつけたのだろう。続々と人が集まってきて、その場は騒然となった。
私は動けなかった、何もできなかった。私に許されたのは、哀子が流した血の水溜まりに尻を浸す形で、そこに座り込んでいることだけだった。
「嘘よ、こんな、こんな……!」
白いワンピースを血に染めた哀子を見ながら、私は言った。
しかし、次の瞬間だった。
命を失ったと思っていた哀子、その充血した目がギョロリと動き、私を捉えたのだ。
「ひっ!」
驚きと恐怖で、私は声を上げた。
哀子は何も言わなかった。言わなかったのだが、
――赦さない。お前が私を殺したんだ、私はお前を、絶対に赦さない。
そんな声が聞こえてきそうなほどの、憎悪と糾弾が込められた眼差しだった。
恐怖と罪悪感に蝕まれ、全身が石のように硬直してしまって立てなかった。尿が漏れ出て、下着が濡れるのを感じた。
悪夢なら、早く覚めてほしい……私が見ているのはまぎれもない『現実』で、何をしようと覆らないものだった。
どうして、どうしてこんなことに……。
◎ ◎ ◎
その後……周囲の目もあって、私は高校を辞めた。
哀子を死なせたことで、警察の取り調べを受けた。正当防衛が認められたので不起訴にはなったけれど、罪悪感と恐怖、それにあの光景が頭から離れなくて……私は一歩たりとも、部屋から出られなくなってしまったのだ。
私のPTSD(Post Traumatic Stress Disorder)……『心的外傷後ストレス障害』は極めて深刻なものだと、精神科医から告げられた。
哀子に襲われて、危うく殺されかけたこと。哀子がトラックに撥ねられた時の鈍い音に、血染めになったその姿に、彼女が絶命間際に私に向けたあの恐ろしい眼差し……それらを思い出すたびに怖くて怖くて、全身がガタガタと震えてしまう。
髪はぼうぼうに伸びてしまった。お風呂には何日も入っていないし、歯も磨いていない。きっと、私の体も口もすごく臭いのだろう。
どうして、こんなことに……。
脂ぎった髪を掻きむしりながら、私はそれを幾度も考えた。結論はもう出ていたけれど、こんなことになってしまった原因は到底、受け入れられるものではなかった。
こんなことになった原因……それは、あの『誤字』だ。
哀子へのメールのあの誤字……あれが始まりだった。私の注意不足が、たった二文字の間違いが……こんな悪夢のような出来事を招いたのだ。
突如、外から車がブレーキをかける音が聞こえてきて……私は思わず耳を塞いだ。
「ひいっ!」
あれから、ブレーキやクラクションの音が鼓膜を揺らすたびに……私はあの出来事を思い出す。
血にまみれた歯を見せながら笑う、哀子の顔が頭に浮かぶ。
そして、カーテンを閉め切ったこの部屋で……固く目を閉じながら、喉が嗄れるほどの悲鳴を上げるのだ。
「いやあああああぁぁぁぁぁあああああ――――ッ!!!!!」
どうして、どうしてこんなことに……!
私は、私はただ……。
私はただ、二文字間違えただけなのに。
BAD END
本作は、『瑞月風花様』主催の『誤字から始まるストーリー企画』に参加させていただくために書き下ろしました。
誤字にはくれぐれも気をつけて。
もしかしたら、こんな恐ろしいことになるかも知れませんよ?