案件:1【あまりに素早い土下座。俺じゃなきゃ見逃しちゃうね】
まるで雲の中を泳いでるようだった。
ここがどこかも分からない。
濃霧のような白に包まれた視界と脳味噌じゃ、ろくな思考も纏まらない。
ふわふわとした空白に浸っている。
けれども、それをおかしいと訝しむこともなく、ただ身を任せていたい。
そんな曖昧な感覚の真っ只中。
『強い男の条件はシンプルだ』
響いたのは、少ししゃがれた男の声だった。
『"間違えない"、それだけだ。あるいは間違いに鈍感であるってところか。だが、そりゃ強いだけよ。強さは男の嗜みではあるが⋯⋯痛みに鈍くはなれないお前にゃ、ちぃと酷だろうな』
いやあんた誰だよ。俺の何を知ってんだよ。
いや、俺の何かを知ってんのか? だったら教えてくれよ。丁度切らしてたんだ。
矢継ぎ早に浮かぶ言葉は、けれども音になることはない。唇が閉じた貝みたいに動かない。
ぼやけた全ての中で、一方通行の会話は続く。
『だが良い男の条件はもっとシンプルだ』
でも。
『辛い時、窮地に陥った時⋯⋯笑え』
でも、なんだろう。
どうしてかは、俺にもさっぱりなんだけどさ。
『なにくそと笑え。だからどうしたと笑え。余裕綽々に笑えば良い。冗句一つでもかましゃ良い。そういう奴の背中は、いつだって頼もしく見えるもんだ』
この男の言葉を、声色を、一語一句を。
懐かしいって思った。
すとんと腑に落ちて、胸に広がる温度だった。
『だから⋯⋯良い男を目指せ、渚』
だから、そいつがゆっくりと遠ざかっていく感じがして。
待ってくれと、夢を欲しがる子供みたいに精一杯⋯⋯手を伸ばした。
けども。
──むにゅ。
この手が掴んだのは想像した男の堅い肩ではなく、マシュマロみたいに柔らかい感触。
何故だろう。触り心地はめちゃくちゃ良いのに、生きた心地がどんどん薄らいでいく予感が膨らんでいって。
あっ、これ夢だわって気付く瞬間ってあるだろ?
それが今だよ。
「⋯⋯ほほう。絵に書いたようなラッキースケベじゃん。いようラブコメ主人公。んで、感想は?」
「⋯⋯お前さん、着痩せするタイプだったのな」
「おっけーそれが辞世の句ね」
「感想言えっつったのそっち⋯⋯ぶぼらはっ!?」
鬼に金棒、鳩尾にエルボー。
目覚めの一発にしてはあまりに重い一撃じゃありませんかね。
永眠待ったなし。再び目覚めた日には、殺人未遂で訴訟も辞さない覚悟である。
まぁがっつり揉んだ以上、敗訴する未来しかないんだろうがな。
「死ぬかと思った⋯⋯」
「ほらほら、起きた起きた。朝ご飯冷めるよー?」
「へーい」
「⋯⋯って、わー!? ちょ、なんでパンツ一丁なんだよー!! このスケベー!」
「ぜぱっ!?」
這う這うの体でなんとか起き上がろうとしたら、更なる追撃のアッパーカットで俺のダメージは加速した。
そういや昨日寝苦しくてつい脱いじまったんだ。
妙なとこで乙女な部分がある火鈴の顔が、目に見えて真っ赤になってる。
事故とはいえ胸揉まれても割と平然としてる癖に、男の裸は駄目なのか。解せぬ。
◆ ◇
ともあれ着替えを終えて、そそくさと朝食の席へ。
テーブルの上には鮭おにぎりと漬物、ベーコンと茸の炒めものに、卵焼きに味噌汁と、湯気立つフルコースが所狭しと並んでいた。
いやもう完璧だわ。
流石はメイド。一家に一人火凛ちゃんは伊達じゃない。実際そんなキャッチコピーはないけども。
「⋯⋯そういや、腹ペコ室長はどした? まだ寝てんの?」
「いんや違うね。リコ様ならお仕事中だよ」
「マジか。こんな朝っぱらからとか珍しいなオイ」
まだ日が昇ったばかりから相談が来るのもそうだが、あの寝坊助羊が仕事してるのも意外と言うか、もはや違和感と言うか。
珍しい事もあるもんだと、チラッと盗み見た窓の外。
広がるのは青空ばかりで槍はやっぱり降ってない。
「それがさぁ、相談相手がなっかなかに変わり者な『羊』だったみたいでね。今朝みたら、事務所の扉に矢文が刺さってたの」
「⋯⋯え、矢文?」
「そそ」
それ変わり者ってレベルじゃねーぞ。
矢文ってなんだよ。戦国時代からタイムスリップでもした斥候か何かか。でも羊らしいし。
矢文使う羊ってパワーワードが過ぎるんだが。
「んで手紙を見てみるとさー『私メリーさん。今貴女に相談したいことがあるの』って書いてあって」
「⋯⋯は?」
「で、三途の川の麓で待ってるーって追伸まで添えてあってね。リコ様も羊の頼みなら行かねば、って感じで」
「節子、それ羊ちゃう。都市伝説の女の子や」
変わった羊だなと思った所に予想外過ぎる刺客のエントリーに、危うく味噌汁を吹きかねない。
いやほんとどういう事だってばよ。
なんで都市伝説が普通に相談に来てんだよ。
相談ってあれか? 来世は口裂け女が良いとかそんな感じか?
「え、女の子ってことは人間?!」
「いや人間ってのは違う。どっちかっつーと妖怪が近い。つか全然羊関係ねぇよそいつ」
「あーそっち毛かぁ。久々に人間の依頼人が来たのかって思ったのになー」
「ある意味人間よりよっぽど珍しいの来ちゃってますけど!?」
ていうか、そもそもメリーさんの羊は羊ではあるが、メリーさんは羊じゃないし。
都市伝説のメリーさんは童謡のメリーさんと関係ねぇし。あぁもう、メリーさんでゲシュタルト崩壊起こしそうだわ。
そんなこんなな混乱に包まれながら、今朝も空は三本脚の烏が飛ぶ。
地獄は今日も変わらず、常識が常時、地獄絵図であるらしい。
◆
と、何事もなく一日が終わるかに思えたが。
奇抜な始まり方をした一日は、どうやらただじゃあ終わらないらしい。
やる事もなく事務所でごろごろしてた所を火鈴に見咎められて、箒とちりとりを手に出た庭先で。
「⋯⋯おい兄ちゃん。ここが三途の川先相談事務所で合ってんな?」
「⋯⋯⋯⋯命だけは何卒」
「は?」
明らかにカタギの雰囲気じゃない強面に声をかけられた俺は、あまりにも素早い土下座という名の命乞いを敢行したのだった。
⋯⋯ちくしょー。今日は絶対厄日だ。