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文禄征虎譚〈黒田家虎狩りの逸話〉

作者: 宇治丸

 文禄四年、仲春の朝鮮。

 対馬海峡に面する海岸近くに構えられた機張(キジャン)城の中庭に、カッカッと、木刀の打撃音が響いている。

 城主の黒田長政とその家臣菅六之助が、鍛錬のため打ち合いをしていた。


「この地での生活も慣れてきたな」

「冬と空風以外はさほど豊前と変わりませぬな」


 冬以外はな。と長政が構えを解き、目を閉じた。脳裏に浮かんだのは、この地での熾烈な戦と、それより以前の故郷の情景である。


「思えばかれこれ三年以上、故郷(くに)の土を踏んでおらんのだな」



 三年前の卯月に、黒田隊はこの地に降り立った。第三部隊の主将として一度は半島の奥地まで攻め入ったものの、兵站の延伸と明国十数万の援軍により撤退を余儀なくされた。

 戦は熾烈を極め、一時は黒田も玉砕を覚悟したほどであった。

 加えて大陸の乾いた空気が伴う極寒の冬季は、西国の将兵らにとってこの上ない障害となった。凍死、餓死、流行病など、戦とは無関係に死傷者が続出した。

 一方で朝鮮側も明軍を養うだけの兵糧は確保できず、戦況は膠着状態に陥った。


 こういうわけで、日本軍と明軍が停戦の和議を結ぶことになった。

 日本軍の大多数は帰国したが、黒田、立花、鍋島など西国大名の一部は朝鮮に残った。各々が日本様式の城郭──倭城を築き、これの警備にあたる事となった。


「退屈でやり甲斐のない任務だ」


 長政はそう思っている。

 長政をはじめとした各隊の主将らは、先の戦で戦線を離脱したことを太閤秀吉に責められた。それゆえに、今はなんとしても〝手土産〟が欲しい。

 だというのに、功をあげる機会は和議により失われてしまった。城の警備程度では大して喜ばれまい。殿下の御眼鏡に適う事はないだろうか。



「殿」

「ああ。すまない、六之助。やはり剣の腕でお前にはかなわないな」


 六之助の声に目を開いた長政がふっとはにかんだ。木刀を握る右腕はじんじんと痺れ、熱を持っていた。

 六之助は鼎を曲げるほどの怪力で、その上新当流と新陰流の剣術を極めている。でありながら、己の腕を奢ることはなく、剣を学びたい者には丁寧にその術を教えている。


「努力家の殿の事です。いずれ私など及ばぬほど上達なさるのでしょうな」

「そうさなあ。爺になるころには追いついてみせようじゃないか」


 にしし、と笑う長政に六之助もつられて微笑む。六之助は用の済んだ木刀を預かると、長政の顔を覗きこんだ。


「何かお悩みですか」

「わかるか、六之助」


 長政は心の内を見透かされた事に目を丸くして、太閤殿下に評される方策はないかと相談した。


「せっかく、異国の地に来たのです。珍品を献上するのはいかがでしょう」

「なるほど。しかし、何も思いつかんな」

「城下をご覧になれば、目新しい物もあるやもしれませぬ」


 ふむ。と長政は頷いた。

 完成して間もない機張城だが、いわゆる戦争特需により行商人が頻繁に出入りしているのだ。長政は早速通訳と従卒を連れて、見廻りがてら城下を歩く事にした。


 城下は日本のそれと比べれば人がまばらだ。戦により朝鮮の民が逃げ散ったためである。

 残った民衆も痩せて困窮している様子だったため、長政は軍資として運び込まれた米をわけ与えた。重臣の栗山善助が井戸を掘り出してからは、民衆も安堵し人も徐々に戻っている。


──君は国に依り、国は民に依る

 唐の太宗の言葉だ。時をかけて朝鮮中の民衆を味方につければ、朝鮮平定の思惑も叶うだろう。もっとも、太閤秀吉が許さないだろうが。


 城下にはやはり、行商人があちらこちらの道端で商品を広げていた。明や朝鮮の薬草、豚や狗などの食肉、弩や鎖子甲といった現地の武具など、品目は多種多様だ。

 左右に目配せしながら歩く内に、見慣れないが見覚えのある模様の皮を発見した。長政は足を止め、店主の男に声をかけた。


「これはなんの皮だ」

「へえ。これは虎皮になります」


 これが。長政は実物の虎皮に心が踊った。

 虎など屏風や掛軸でしか見た事がない。長政はこの行商に通訳を通して色々と尋ねた。行商は、虎の皮は鐙や床の敷物とし、肉や内臓は滋養強壮の食品に、骨は乾かし粉砕して鎮痛薬として用いると話した。

 これを土産とすれば、太閤殿下がお喜びになるに違いない。長政は確信し、城へ飛んで帰った。



「まるで猪でも狩るような調子で仰る」


 はっ。と笑ったのは後藤又兵衛だ。

 機張城に戻った長政は、家臣を集め虎狩りへ行こうと提案したのだ。みな一様に驚いた表情をしたが、又兵衛の言葉でどっと笑いに変わった。


「そうだとも。巨大な猪を狩るのだ。鉄砲の腕に自信がある者は鉄砲を持て。三左衛門」

「こちらに」


 進み出たのは身の丈六尺を超える大兵肥満の男。長政の弟のように育てられた、黒田(旧姓加藤)三左衛門だ。

 長政は一挺の火縄銃を出し、彼に持たせた。


「お前に次郎坊を預けるのも久方ぶりだな。あの時のように、援護を頼むぞ」

「はっ。お任せ下さい」


 三左衛門の返事に心強い事だとはにかむ。そうして自らは、烏天狗の象嵌が施された火縄銃を手にした。長政の持つ火縄銃『太郎坊』と三左衛門に預けられた火縄銃『次郎坊』は文字通り兄弟のように二挺一対で丁重に扱われた。かつてふたりで大猪を仕留めた事もある。


「それで。又兵衛は猪を探しにゆくのか」

「まさか。殿が虎に喰われた時は私が虎を仕留め、腹を裂いて助け出さねばならんでしょう」

「ぬかすわ」


 ふっ、とふたりして鼻で笑い、くくくと肩を震わせる。互いに互いが虎なんぞ敵ではないと考えての戯言である。

 又兵衛は愛用の槍を肩に担ぎ、まだ見ぬ獣ににやりと笑った。


「殿。私も御相伴致します」


 そこへ朱具足の偉丈夫がやってきた。

 先刻、長政に剣の稽古をつけていた六之助だ。


「……六之助がいれば心強い。が、矢傷の具合はどうなのだ」


 六之助は先の戦で右の頬に毒矢を受け、傷は膿んで爛れていた。見るからに痛々しいため、実戦に耐えうるか懸念された。


「この程度の傷で、畜生相手に後れはとりませぬ。獣は気配を殺します。見張る者は多いに越したことはないかと」

「六之助のいうことももっともだ。わかった。同道を許す。だが無茶はするなよ」

「有難う存じます」


 いつも無茶をするのはどこの誰でしょうなあ。という又兵衛に、長政は振り向いてじとりと睨んだ。


 長政を筆頭に、又兵衛、六之助、三左衛門。他近臣数名に足軽百人あまり。なにはともあれ、虎狩りの隊が完成した。

 栗山、母里をはじめ大多数の将兵らは機張城に居残る事になった。



 機張城の周囲には深緑に覆われた山々が連なり、日本の風景とさほど変わりがない。一行は行商の情報を頼りに、北方の山中へ分け入った。

 山のあちらこちらに膝丈を超えるような巨石が転がっており、時には足元の覚束無い岩の上を通らねばならなかった。

 そのため虎を運ぶためにと連れていた荷負い馬も、麓の木に繋いで置いて行くよりなかった。


「む。みなの者、あの木を見ろ」


 一行が獣道を歩いていると、長政が足を止めて一本の大木を指さした。目線より二尺ほど上の位置に、つるはしの先で抉ったような痕が数本残されている。


「これは虎の爪痕だ。やつらは猫の様に爪を研ぐ習性があると聞いた。恐らく近くにいるぞ」

「こりゃあ随分大きな猫ですな。熊すら喰ろうてしまいそうだ。恐ろしい」


 又兵衛がやってきて、興味深そうに爪痕を見上げた。恐ろしい。という言葉とは裏腹に、声色は楽しそうだ。


「どこにおるかわからん。散開するぞ」


 長政は又兵衛ら諸将と足軽たちを方陣に広げ、周囲を隈無く見張らせた。


 一行は一様に息を潜めて、札擦れの音ひとつすら気を配った。木々や枯れ草の合間に目を凝らしつつ、ゆっくりと歩を進める。


「殿、あの岩の上をご覧下さい」


 長政のそばへ歩み寄った三左衛門が指さす先に、山吹色に黒い縞模様の獣がのそりと動くのが見えた。間違いなく虎の皮の主だ。

 虎は岩の上をうろつくばかりで、こちらに気付いた様子はない。


「この距離では仕留められんな」


 長政は三左衛門以外の者らに下がるよう指示をした。

 弾薬(たまぐすり)を詰められた太郎坊を持ち直し、火皿に口薬を篭め火蓋を閉じる。火縄を取り付け、いつでも射撃できるよう虎に目を向けた。


「三左衛門。奴をおびき寄せるぞ」

「はい」


 虎から目を離さず発せられた言葉に三左衛門は頷いて、虎の足元へ次郎坊の銃口を向ける。引き金を引くと乾いた破裂音が森に響いた。

 かきん、と虎の足元の岩が欠けて飛んだ。


 虎は音に振り向いて、眼下で金銀に光るふたりの兜を見据えた。ゆらりと岩から降り立ち、黄金色の目と鋭い牙を剥いて威圧する。


「来い」


 長政の唸るような呼び声と火蓋を切る音に、虎が吼えて巨体を躍らせた。

 ひと跳びで、長政との距離がぐんと縮まる。

 誰かが堪えきれず「お早くお撃ちくだされ」と叫んだ。長政の傍に控える三左衛門、後ろに退いた六之助は何も言わず、又兵衛は欠伸さえ漏らした。


 虎が大口を開け両前脚で長政を捕えんと跳躍する。その眼光と太郎坊の銃口が一直線になる。

 すかさず、長政の人差し指が引き金をひいた。


 タンッ──銃声と共に前脚を地に着けた虎は、後退る長政を追わんと巨体を揺らしてさまよった。眉間に鉛玉を受け、最早まともに歩けはしない。

 そうして近くの岩穴で足を踏み外し、どうっと転げ落ちていった。


「殿、お見事です」


 三左衛門が声を上げたのを機に、足軽たちが歓声をあげて長政の銃の腕を讃えた。


「待て。まだ仕留めたかわからん。誰ぞあれを引き上げて参れ」


 と長政が命じると、皆どぎまぎして声を潜めてしまった。「行けよ」「お前も降りろ」……足軽たちがひとりふたりと穴を降りるが、誰も虎の息を確かめることができないでいる。


「なんだァ? どいつもこいつも腰が引けていやがる」


 穴の上から虎の様子を眺める人混みに、朱具足の男が割って入った。井口兵助。長政の幼少期より仕えている無鉄砲で野放図な男だ。六之助と似ているが縅糸まで全て朱の胴と兜を身につけ、真新しい朱槍を携えている。

 

「仕方がない。この俺が見てやろう」

「どけ」


 一歩踏み込んだ兵助の脇を、別の男が歩き過ぎて岩穴を滑り降りていった。兵助はかッと頭を熱くして岩穴へ駆け下りる。


「久太夫てめぇ」


 肩を怒らせる兵助も大口を開けて横たわる虎もなんの事はないとばかりに、虎の鼻に手をあてがう。この小河久太夫は、先の戦で奮戦した小河伝右衛門の甥である。

 久太夫は頭上へ向けて事切れている旨を伝えると、綱を下ろすように指示をした。


「聞いてるのか」

「やかましい。手伝わんのならその槍で兎でもついておれ」


 白け顔で綱を引き寄せる久太夫の手から兵助が綱を分捕り、虎の前脚脇の下に縛りつけた。


「誰がやらんといった。俺はお前が俺を無視した事が気に食わねぇだけだ」

「お前が悠長に見栄を切っておるからだ。引き上げるに邪魔であろうが」


 なんだとう! という金切り声が、地上にいる長政の耳にまで届いた。あのふたりは案外馬が合う。と思う。

 やれやれと首を振りつつ、虎の引き上げはふたりと足軽達に任せる事にした。



「わああ!?」


 長政が銃に弾薬を詰めていると、にわかに背後がざわついた。振り返った先で、あろう事か足軽が宙を舞っている。


「何事か」


 火蓋を閉じた長政は、騒ぎの様子を確認するべく移動した。


 黒縞の巨体が、足軽の刀と槍をひらりと躱し、その腕に喰らいつき文字通り吹き飛ばしている。人の群れを崩した虎は、眼光鋭く将兵らを睨め付ける。

 長政が銃を構えるが、虎は一際目立つ朱具足に向けて駆け出した。標的とされた六之助は、心得た。と朱塗拵の太刀を抜いた。


「六之助!」


 長政は銃口で虎を追うが、急所を射止める位置になかった。下手な射撃で逆上すれば、人の手で押さえるのは困難になる。

 逡巡する一寸の間に六之助に接触した虎の鼻先を、六之助の太刀先が掠めた。

 虎が顎を引いたために、その頸を捉えられなかったのだ。

 六之助はこの虎の"太刀筋"を脳裏に描いた。

 今度は腕の振りだけで太刀を斬り下ろす。虎は顎をひいてこれを躱した。そうしてから、頭をもたげてその腕に喰らいつく。


「手前の筋は見えたり」


 虎の生暖かな息が掠めた腕を戻し、今度は踏み込んで虎の耳下から頸へ太刀を振り下ろした。

 六之助の剛力が虎の分厚い皮と肉とを裂いて、どうっと巨体が地に伏した。


「……見事だ」

「菅殿の太刀筋、しかと目に焼き付けました……!」


 ほっと胸を撫で下ろした長政と三左衛門が口々に賞賛し、他の将兵らも得物を掲げてやんややんやと歓声を上げる。六之助はこそばゆそうに目を細めると、静かに太刀を鞘へ収めた。

 ただひとり、退屈そうに木に寄りかかって眺めていた又兵衛は、妙だな。とこぼした。


「どちらも目測より小振りではないか」


 虎は背伸びをして爪を研ぐのか。と結論づけて、この虎狩りも終いだろうと木を離れる。先に仕留めた虎も岩穴から引き揚げられたところだ。


 二頭の虎を足軽たちがひいて、一行は荷負い馬を繋いだ麓へと引き返すこととなった。長政を先頭に三左衛門、又兵衛が続き、中軍で兵助と久太夫らが虎をひかせ、最後尾に六之助がついた。



「おや」


 馬を繋いだ一帯に足を踏み入れた長政が首を傾げた。馬の様子がおかしい。耳を忙しなく動かし、鼻孔を広げ警戒しているようだ。


「殿! こちらへおいでくださいませ!」

「いかがした」


 先に馬の様子を見に出ていた足軽頭が声を上げた。長政が駆けつけると、そこに繋いでいたはずの馬の姿はなく、代わりに千切られた縄と地面におびただしく散らばった血の痕があった。


「これはいったい。……ん?」


 ひた。と頬に雨雫のような感触があった。


 手で拭い見た。ぬらぬらと光る赤いものがベッタリと掌に広がる。血だ。

 さっと頭上を見上げると、太い木の幹に〝馬だったもの〟の皮と骨がぶら下がっている。その蹄の先から、ひた、ひた。と生血が滴って、地面を赤く染めていた。


『虎は獲物を横取りされまいと、樹上に引き揚げて食べるのでごぜえます。やつらは木登りも得意で、樹上で待ち伏せる事もありやす』


 そう行商人が話していたのを思い出した。

 とすれば、この馬喰らいが付近にいるかもしれない。いまだ後続は到着していない。急ぎこのことを伝えねばなるまい。

 長政は太郎坊を手にすると、慌てて来た道を引き返した。



 一方で虎を運ぶ中軍では、足軽たちが競うように二頭の虎を牽いている。その先頭には兵助と久太夫がいる。


「お前らぐずぐずすんなァ! しっかりひけぇ!」


 と怒号をあげる兵助に、足軽たちは戦々恐々としている。虎より怖いなあ。と時折小言も聞こえてくる。


 口ばかり達者よな。

 久太夫が呆れた声で呟くと、逆上した兵助が足軽のひとりから縄を奪って牽き手に加わった。曲者ではあるが単純だな。と久太夫は思うのだった。


 このふたりより更に後ろに、六之助と足軽十数人が続く。先程の事があるため、六之助はより警戒して茂みの奥や木々の合間に目を凝らしながら歩いていた。

 九尺の巨体が樹上にいるなどとは、夢にも思わなかった。



「へえ? 自ら虎を担ぐたあ、ご苦労な事で」

「なんだ後藤か。あっち行け」


 しっしっ、と片手で払う仕草をする兵助を鼻で笑うのは、槍を担ぎ悠然と歩く又兵衛である。このふたり、長政の幼少を知るもの同士ではあるがあまり仲がよろしくない。又兵衛の一族はかつて黒田家を離反したことがあり、家中ではいざこざも多いのだ。


 その又兵衛は、目的地を間近にした自身の持ち場を離れ、ふらふらと六之助のいる最後尾に向かっていた。なにしろ己だけ虎と相対していないのだ。運良く虎に出くわせば自慢の槍でひと突きにして土産にするつもりだった。それが〝あの爪痕〟に見合う大物なら万々歳だ。

 はじめは〝爪痕〟について長政に報告しようかとも思った。しかし、確証のない己の言葉で雑兵が慌てふためき収拾がつかなくなるのは御免だ。

 そうして結局、独りでここまで来てしまった。


「にしても六之助の姿が見えんな」


 殿軍(しんがり)の勤めを遂行するにはあまりに距離が離れている。あの六之助が職務怠慢などあるはずもない。

 もしや、なにかあったか。

 訝しんだ又兵衛の足が速まる。と、向こうから足軽が一人駆けてきた。息を乱して必死の形相だ。


「ごっ、後藤様……!」

「どうした。なにがあった」


 足軽は息を弾ませ、つんのめって又兵衛の足下に這いつくばった。息を整える暇もなく声を上げ訴える。


「虎が頭上からっ、……か、菅様が、襲われました……!」

「なにっ!? ……俺が助太刀に参るゆえ、お前は殿の元へ伝えに行け!」


 足軽は声を出すのも苦しそうに頷くと、その足で又兵衛が来た道を辿って行く。又兵衛は槍を抱え直し駆け出した。


「土産が欲しいとは思ったが、同輩の骸など要らんぞ!」



 それは、突然のことだった。


 枯葉が降ってきたかと思ったら、眼前に獣の巨体があった。六之助の間近にいた兵は真っ先に喉笛を食いちぎられ、宙を舞った。

 六之助が太刀を抜くよりも早く虎の前脚が両肩にのしかかり、押し倒されて身動きがとれなくなったのだ。


「お前達は逃げよ! 腰抜けが刀を抜いたとて……、敵いはせんぞ……!」

「しっ、しかし……っ」


 喰われずにいるのは、虎の鼻と下顎とを掴んで押さえているからだ。

 彼は怪力ではあるが、怪物でない以上体力に底はある。周りにいる足軽たちは息のない虎すら恐れたのだ。とても立ち向かえるわけがなかった。


──先に先陣へ向かった者が助けを呼ぶのを待つよりないか。しかしそれまで、私の腕が、果たしてもつのか?


「ぐあぁッ」


 分厚い樹皮すら破る鋭い爪が、六之助の両肩を抉る。肉と筋をぶつりぶつりと千切る音が、骨を伝わって聞こえてくる。

 六之助は痛みに顔を歪めながらも、顎を掴む指先に一層の力を込めた。


「我が朱具足を、容易く喰らえると……思うなァ!!」

「その通りィ!」


 鬼の形相で六之助が吼えたその時、視界を覆う虎の向こうから銅鑼声がして、虎の巨体がぐらりと横へよろけた。

 傾いだ巨体の向こうで、虎にも負けぬ大柄の男が虎を蹴り飛ばした足を下ろして槍を構えた。


「我ら武士(もののふ)の血肉を、畜生なんぞに喰われてたまるかってんだよ」

「後藤殿! すまん。助かった!」


 凶爪を逃れた六之助も、立ち上がるや二尺三寸の太刀をすらりと抜き構えた。


「おっと。礼を聞くのはこいつを仕留めてからだ」


 ふたりは一歩ずつ右回りに歩を進め、虎との間合いを読む。虎もじっとふたりを見据え、時を待っているようだった。

 ざッ──又兵衛が踏み鳴らした音につられ、虎が脚を浮かせた。距離を詰めた虎に、又兵衛は槍を振り上げた。


「らァ!!」


 又兵衛が塩首で虎の頚椎を強かに打った。

 急所への衝撃にさしもの巨虎も目を回し、太刀を構えた六之助の姿を見失う。


「せやぁ!!」


 渾身の力で振り下ろされた太刀先が、虎の耳下を捉えた。巨体がどさりと叢を揺らし、間もなく事切れた。


「……改めて礼をいうぞ。後藤殿」

「なんの。あんたの骸が手土産にならずに済んでなによりだ」


 矢傷で吊れた口角を上げ笑う六之助の耳が、がちゃがちゃと札を鳴らし地を蹴る足音を捉えた。又兵衛も音に目を向ける。

 時折、木々の合間に兜の金角が覗き見えた。


「殿!」

「六之助。又兵衛。無事か!?」


 ふたりの健在を目にした長政は、しかし遠くからでは安心できんとばかりに駆け寄って、伏した虎とふたりとをまじまじと見比べた。


「怪我をしておるではないか!」

「虎に組み伏せられました。面目ございません」


 篭手の下で引き裂かれ赤黒く染まった直垂を目にし、長政が腕を引いた。六之助が腰を下ろすと、膝立ちとなった長政が手ずから鎧の袖を外した。


「お手を煩わせるわけには」

「いい。傷が開くゆえ俺に任せろ」


 六之助は恐縮しながらも、長政の言葉に従った。長政は傷口を晒で覆い留めると、今度は又兵衛に目を向けた。


「又兵衛はなぜここにいたのだ。お前の隊は麓に着いた頃であったろう」

「私だけ虎と手合わせできなかったので、あわよくば虎を手土産にと思いまして」

「まことに、それだけか」


 訝しげに長政が見つめるので、又兵衛はため息混じりに首を振り、爪痕の高さから虎が他にいる懸念があったと正直に伝えた。

 案の定長政は、口を結んで眉を寄せる。


「懸念があるなら、なぜいわなかった」

「みなが騒げばかえって危険ですので。そもそも、私の言葉など殿は聞かんでしょう」

「見くびるな又兵衛。お前達の命がかかっておるのだ。聞かぬわけにもいかんだろう」


 戦場で前に出るなといっても聞かんというのに。それではまるで、己の命は安いと言わんばかりだ。

 又兵衛は腹が立ち文句が喉元まで上がってきたが、「だが」という長政の言葉に口を閉ざした。


「俺自身油断があったのは事実だ。畜生を追うに刀や槍の徒卒ばかりでは心許ない。今回は運がよかったが、危うくお前や六之助を失うところだった。大将たるもの用心も覚えねばな」


 まことに、無事でよかった。

 俯き拳を握る長政の声が震えているのは又兵衛にもわかった。


「わかればいいんです」


 とはいえ、長政は武功のためにも先陣を外れる気はさらさらない。又兵衛はそうとは知らず、気が済んだ様子で長政から目を離した。


「そろそろ戻るとしよう。この虎も運ばねばならぬ」


 足軽らを率いて虎を麓に運んだ後、生き残った荷負い馬に虎を乗せる。一行は日暮れに赤く染まる機張城に向けて出立した。



 機張城に運び込まれた虎はすぐさま肉と皮に解体される事になった。虎に詳しい現地の者と協議し指示をする傍ら、長政が懸念を口にした。


「太郎右衛門が戻っておらん」


 林太郎右衛門。この若者も虎狩りの一行に混じったのだが、帰途に姿を消したきり、辺りが暗くなっても戻る気配がなかった。


「一体どこにいったのだ」

「林様、ご到着なさいました」


 渋面を浮かべる長政に、折よく何某かの呼び声が聞こえた。外に目を向けると、人集りがこちらにやって来るのがわかった。


「林太郎右衛門、只今帰参つかまつった!」


 声高に叫んだ直利の背後には、十数人の足軽にひかれる虎の姿がある。

 長政はあえて「どうして」とはきかなかった。帰ってくる言葉はなんとなくわかっていたからだ。額に手をあてて、ううんと唸る。


「なぜみな、俺に伝えもせずに無茶をするのだ」


 見れば直利の手にある槍は塩首が歪んでいる。後に長政はこの槍を『虎衝』と呼んで直利の武功を讃えたという。

 この直利の槍を使用した虎狩りが、後に加藤清正の虎狩りと片鎌槍の話になったそうだ。


 後日黒田の部隊は、虎の皮と骨、塩漬けの肉や内臓を手に本国へ帰った。太閤秀吉の元には虎肉が贈られ、その後年号が慶長と変わってからは正式に虎狩りが奨励される事となった。

 虎狩りの話は数多あれども、主将自ら虎を討ち取った話は多くない。黒田家は武辺者揃いであることを物語っている。



〈了〉

 「黒田家譜」と「名将言行録」をもとに、脚色を加えて話を書いてみました。長政と六之助の狩りは家譜、又兵衛のくだりは言行録にあるので、興味がある方はぜひご覧くださいませ。

 三左衛門や兵助は本来この場には描かれません。三左衛門が次郎坊を持っていますが、家譜では長政が次郎坊で虎を撃ちます。この次郎坊は時折福岡美術館で展示されています。

 兵助は久太夫の「仲よき衆」とあったため飛び入り参加させました。

 時系列は家譜に沿って書きましたが計算間違いがあるやも。なお旧暦二月(仲春)は新暦の三月末にあたります。

 野生のトラの習性については謎が多いそうです。木登りが得意とも不得意ともいわれ、狩りは単体で、待ち伏せ型の狩をするといいます。樹上に待ち伏せる狩りをするのはヒョウが有名なのですが、もしかしたらトラもやるのかな、と。こちらも脚色濃いめです。


 ご覧いただき、ありがとうございました。

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