紫苑
「では、あちらをお願いしますね、シェルリア」
「かしこまりました」
白く、所々に金の模様が入った美しいドレッサーの前に座り、大人しく髪を結われていたチェルシーが、その折れてしまいそうな程細い指で指し示したのは、読み終わった分厚い本の山である。
白を基調とした家具に、ボルドーのカーテンが目を惹くチェルシーの部屋は、少女のイメージする姫の部屋そのものだ。もちろんチェルシーの趣味ではなく、装飾などにも興味を持たないチェルシーを心配した王妃の指示のもと整えられた部屋である。
そんな部屋に似つかわしくない本の山は、これまた王女の部屋には似つかわしくない、執務室にありそうなほど大きな机の上にある。これだけはチェルシーの意向で置かれたものだ。
「借りてきてほしい本もリストアップしてあります。退屈なお茶会なんてなかったら、わたくしも一緒に行けましたのに」
「そのようにおっしゃるものではありませんよ」
不貞腐れるチェルシーを注意しながらも、髪を結う手を止めないのはライラ・ミケローニ伯爵夫人だ。ライラは第三王女チェルシー付き侍女主任を務めていて、文官を務める旦那様と二人の子を持つ女性である。
仕事に厳しい彼女の性格を表すような、眼鏡の奥に覗くつり上がった目が、シェルリアに早く行けと訴えてくる。
ライラは典型的な貴族夫人らしい人だが、面倒見が良く、結婚して一度王宮を辞したが、子供が大きくなってからチェルシーの元に戻ってきた優しい面もあり、シェルリアはライラが嫌いではない。怒られるのは怖いが。
「それではチェルシー様、行ってまいります」
シェルリアはそそくさと本の束に手を伸ばす。ずしりと手にかかる重みで、僅かに笑みが引きつった。
そんなシェルリアにチェルシーは「ああ、そういえば」と声をかける。
「先日、シェルリアが大切にしているお守りの花を図書館の裏で見つけましたの」
「紫苑ですか?」
「ええ、そうよ。もしよかったら見てくるといいわ」
「……ありがとうございます。では、行ってまいります」
シェルリアは軽く膝を折ってチェルシーに感謝の意を返し、部屋を出た。
王宮図書館までの道のりは長い。なぜなら、王宮図書館は王宮の敷地の端にあるからだ。侍女であるシェルリアでさえ長いと感じる道のりを、チェルシーは楽しそうに通うのだから、好きとは恐ろしい。
ひゅーっと廊下の窓から冷たい風がシェルリアの頬を撫でる。ふるりと体を震わせたシェルリアは、小さく息をこぼした。
「またこの季節がやって来たのね」
冷たくなり始めた風に紫苑の花。窓から見える木々は赤や黄に色づき、視界を鮮やかにする。
シェルリアは決して秋が嫌いなわけではない。新たな生命が芽吹く春も、全てが生き生きと動き出す夏も、真っ白な世界を眺めながら暖かな紅茶を楽しむ冬も、どの季節も大好きだ。
だけど、様々な薬草が採れるモンスティ子爵領にとって最も忙しい季節と言える秋は、少しだけ特別だった。
「……紫苑か」
シェルリアの口から覇気のない声が漏れる。
紫苑は、黄色の管状花の周りを薄紫色の花びらが彩る美しい花で、観賞用に育てられる事が多いが、モンスティ領では薬草としてのイメージの方が強い。
けれど、シェルリアにとって紫苑は、観賞用でも薬草でもない。
シェルリアは肌身離さず持っている【お守り】の事を思い浮かべた。薄黄色の厚紙に、押し花にされた二輪の紫苑が飾られた栞。
気づかずに捨てられてしまいそうなくらい平凡で、特別感など感じさせない栞を、シェルリアが大切にしている理由は、母が『大切にしてほしい』と言ったからに他ならない。
別に何か願掛けをしているというわけでもないし、その栞がなくなったら悪い事が起こるともシェルリアは思っていない。けれど、なんとなく手放すのが惜しくて、必ず持ち歩いていたら、いつの間にか【お守り】のようになってしまった。
王宮図書館に着いたシェルリアは、慣れた手つきで返却手続きをこなし、司書にチェルシーから預かった『借りたい本のメモ』を渡す。メモを見た司書の引きつった顔を見て、帰りも手が痛くなるんだろうな、とシェルリアは肩を落とした。
「すみません。数が数なので、少しお時間をいただけますか?」
「わかりました。少し時間を潰してきますね」
「助かります」
もはや司書も顔なじみと言っていい。笑顔で見送るシェルリアに軽く頭を下げ、司書は本棚の奥へと消えていった。
「さてと。どうしようか」
いつもならば、本をぶらぶらと眺めたり、気になる本を読んでみたりして時間を潰すが、チェルシーに紫苑の事を聞かされているにも関わらず、見てこなかったというのもいただけないだろう。
シェルリアは、寒そうだなぁ、と思いつつも、図書館の裏へ続く扉へと足を向けた。
扉を開けてシェルリアが一番最初に感じたのは、懐かしさだった。鼻をくすぐる香りが故郷の領地を思い出させる。思わず肺いっぱいに息を吸い込んだシェルリアは、冷たい空気のおかげで目が醒める思いがした。
目の前に広がるのは色んな種類の植物。誰かに褒められるために造られた庭とは違い、高さや大きさ、花の色などを考慮されることなく植えられた植物達は、シェルリアにとって見慣れたものばかりだった。
「こんなところが王宮にあったなんて……薬草ばっかりだわ」
見ただけでもかなりの面積があり、奥には温室もあるようだ。王宮の端で薬草を育てていることを知らなかったシェルリアは、その広さと種類の多さに感嘆の息を漏らした。
「だけど、チェルシー様もよくこんなにたくさんの薬草から紫苑の花を見つけたわね」
これでは見たと嘘をついても、どこにあった? と聞かれたら嘘がバレるだろう、とシェルリアは苦笑いを浮かべる。
「……仕方がない。探すか」
「何かお探しですか?」
「っ!」
誰もいないと高を括っていたシェルリアは、返事がかえってきたことに驚き、ビクリと肩を震わせた。声の主を探すようにあたりを見回しても、人の姿は見えない。
その時、ガサガサと背の高い植物の葉が大きな音を立てて揺れだした。シェルリアは思わず息を呑み、動きを止める。
じーっとよく目を凝らして見てみれば、大きく揺れた葉の隙間から眩しい金色がシェルリアの目に飛び込んでくる。
「……まさか」
シェルリアの頭に一人の人物が浮かびあがった。美しい金髪を持つ人物など、この国には数え切れないほどいるだろう。それこそ、金髪の薬師の知り合いだってシェルリアにはいるのだ。
それなのに浮かんでしまったのは、最近、彼のことを考える機会が多すぎたからに違いない。
「もしよろしければ、お手伝いしますが」
そう言って薬草の葉の横からひょこりと顔を出したのは、シェルリアが思い描いていた男と同一人物でーー
「……セドリック・ランベル、さま」
シェルリアの表情が引きつったのは言うまでもない。