出会う
丸いテーブルの上には、白いカップが二つとポットが一つ。中央には小さな花瓶に紫色の桔梗が三輪活けられている。
辺りを見渡してみても、変わったものはなにもない。あるのは、ランプが二つと、出窓に無造作に置かれた本が五冊。
状況に頭がなかなかついていけないシェルリアは、落ち着くためにもとカップに手を伸ばした。
鼻を抜ける香りにほっとして、口にすれば、苦味もなく優しい味わいが口に広がる。何だか懐かしい気がして、シェルリアはふぅっと肩から力を抜いた。
シェルリアがいるのは、先程の噴水のある庭から少し奥に入ったところにあった小さな小屋の中だ。
王宮の敷地内には、王宮で働く者達用の寮が建ち並ぶ一角がある。シェルリアはそこから、先程の庭のある王宮の裏側に近い場所まで来ていた。
あの庭に来るだけでも、警備する騎士達の目を盗んで来たのだ。夜勤の時には夜中でも王宮の中を歩き回れるとはいえ、何もないのに王宮の外をうろうろするのは不自然である。
怒りや悲しみに周りが見えなくなっていた先程とは違い、冷静さを取り戻し始めていたシェルリアは、自分のしている事に恐ろしくなってきた。
そわそわとシェルリアがし始めた頃、小屋の奥の扉が開く。現れたのは、この小屋へと誘導してきた仮面の男だ。
「お茶はお口に合いましたか?」
「は、はい」
「それはよかった。私が調合したのです。そのお茶には、精神安定や女性の身体に良いとされる成分が入っているんですよ」
ははは、と穏やかに笑う仮面の男とカップを何度か往復して見る。冷静になってきたと自分では思っていたが、得体の知れない男から出されたお茶を飲む時点で冷静ではないようだ、とシェルリアは自己分析をした。
仮面の男は「失礼します」と丁寧に断りを入れ、シェルリアの向かいの席に腰を下ろす。
組まれた足はすらりと長く、カップを口に運ぶ動作はとても優雅だ。シュッとした顎や喉元は男性らしさを醸し出すのに、仮面の下から覗く金色の瞳がふわりと緩み、柔らかな彼の雰囲気を作り出す。
「貴方が『忘れ屋』で間違いないんですよね?」
シェルリアは思わず問いかける。彼女の思い描いていた『忘れ屋』と、雰囲気が違いすぎるからだ。
『忘れ屋』は王宮の中で噂話に時々登場する人物だった。
二週間に一度、真夜中の鐘がなる時に「大切な記憶よ、消えないで」と唱えると現れる『忘れ屋』は、忘れたい記憶を消してくれる。そう噂されていた。
記憶を消すかわりに大切なものを奪っていくだったり、寿命が縮むだったり、様々な事を聞いていたのだが、実際に会ってみるとそんなに恐ろしい感じはしない。
呼んでおきながら、実際にいたことも若干驚きである。
「ええ、そうです。では、お話を聞きましょう」
そう言った瞬間、彼の纏う空気が急に変わった。
柔らかかった瞳は真剣さを帯び、真っ直ぐシェルリアを見つめている。シェルリアはゴクリと息を呑んだ。
「あ、あの……」
「ゆっくりで構いませんよ」
言い淀んだシェルリアを気遣ってくれたのか、表情とは裏腹に、優しい言葉がかけられる。
シェルリアは不安げに揺れる赤い瞳を隠すように、カップに視線を落とした。
「私、ずっと好きだった人がいたんです。いつも優しくて、一緒にいると楽しくて。これからもずっと一緒にいたいと思っていましたし、彼もそう言ってくれてました。好きだって言ってくれてた。なのに……彼と私の好きって気持ちは違ってたみたい」
萎んでいくようにシェルリアの声は小さくなっていき、震えだす。
そう、シェルリアは見てしまった。恋人だったはずの彼が、木陰で女性と唇を合わせている瞬間を。
それも、その女性をシェルリアは知っていた。彼女は伯爵令嬢であり、第二王女クリスティーナ様の侍女で、見目が麗しく、優秀な、他の侍女達に憧れられる存在だったからだ。
仲睦まじい二人の様子を目にし、シェルリアは言いようのない感情に襲われた。
自分に笑いかけてくれていた彼の瞳は、愛おしげに彼女に向けられ、優しく頭を撫でてくれた彼の手は、大切そうに彼女の髪を梳く。心を満たす口付けをくれた彼の唇は、もう自分を求めてはくれないだろう。
悲しい、寂しい、苦しいは、怒りへと変わり、シェルリアはこの場に立っている。
彼との思い出を全て消してもらおうと思っていた。何もかもいらない。あの幸せな記憶は、一瞬で虚しいものへと変わってしまった。あんな男が好きだったなんて情けない。もう二度と昔のようには戻れない。次に彼の前に立った時、シェルリアは平然としていられる気がしなかった。
「だから……早く消してしまいたい」
震えていたはずの声は、仮面の男に話していくうちにはっきりとしたものへと変わっていた。スカートを握りしめるシェルリアの手に力が入る。
ぽっかりと心に穴が空いてしまったかのように虚しいのは確かだ。まだどこかで嘘だと思いたい自分だっている。
だけど、裏切られて腹が立っているのも事実だし、うじうじと悩んでいてもいい事なんてないことは、はっきりと理解しているのだ。
「あんな男との思い出なんて、忘れてやる!」
それは、心の奥底にある悲しみを誤魔化すためだけの叫びだったのかもしれない。けれど、シェルリアははっきりと、声高らかに、彼との決別を宣言した。
案外、人に話すと頭が整理でき、しっかりと考えられるものである。王宮は貴族社会であり、噂好きの集まりだ。例え信頼できる同僚でも、どこから漏れるかわからない。その点で言えば、仮面の男は誰だかわからないし、消してもらえば、真実かなんて自分じゃわからなくなるのだから、格好の話し相手である。
「そこまではっきりと言い切れるのに、忘れるんですか?」
「は、い?」
仮面の男からの予想外な質問に、シェルリアは間抜けな表情のまま首を傾げた。
「え、や……忘れたいから話したんですよ?」
「それはわかっています。だけど、私には決別を迷っているように見えないので」
仮面の男の言う通りである。シェルリアは彼との別れを迷っているわけではない。ただ、苦しく辛い感情や虚しいものに変わってしまった思い出を消し去ってしまいたかっただけなのだ。
「彼との思い出を消したいのは承知しています。ですが、彼との思い出を消すということは、彼のために頑張ってきた貴女の努力も消すことになりますよ?」
「そんなものーー」
「彼との思い出の部分を消したところで、彼の影響を受けて生活してきた貴女の姿が変わるわけではありません。今の貴女があるのは、彼がいたからでしょう?」
シェルリアの心臓がドクリと跳ねる。
彼に好かれるためにヘアメイクを研究した。夢を追いかける彼のような立派な大人になりたくて必死に勉強もした。騎士である彼の自慢になれるよう仕事だって頑張ってきた。
「悲しみや苦しみから解放するために記憶を消すことはできます。けれどーー」
「私は悲しんでないって言うんですか?」
「いいえ、そうではなく。前を向き始めている人にとっては、原動力になりえる記憶もあるということです」
「原動力?」
仮面の男は「そうです」と頷くと、ふっと口元を緩めた。一気に彼の纏う空気が穏やかなものへと変わる。
「もう二度とこんなめに合うものか、とか。もっといい男を捕まえてやる、とか。そう思えるようになったらこっちのもん、らしいですよ」
「らしいですよって……」
シェルリアの口から思わず苦笑いが漏れる。目の前の仮面の男は何を言い始めたのだろうか。励ましているにしては押しが弱く、適当に言っているにしてはシェルリアの様子をしっかりと観察している。
「すみません。私、あまり恋愛関連は得意じゃなくて」
「いや、『忘れ屋』は励ますんじゃなくて、忘れさせるのが仕事でしょう?」
「んー、まぁ、そうなんですけど。私はそうありたくないというか」
顎に手を当て、うーん、と悩み始めた仮面の男にシェルリアは呆れた眼差しを送る。どうやら彼は、シェルリアの記憶を消したくないらしい。
そして、シェルリアも一生懸命励まそうとしてくれる目の前の男を見ていると、暴れていた感情が落ち着いてきたのか、熱が冷めたのか。消す必要がないように思えてきてしまった。
「なんか、もういいような気がしてきました。きっと彼を見たら、またこの感情を思い出すんでしょうけど、貴方のことも思い出しそうですし」
そして思い出すと、きっとなんだか馬鹿らしくなって熱が冷めていく気がしたのだ。
「それは良かった」
本当に嬉しそうに仮面の男が笑うから、シェルリアは騙されたような気分になった。
もしかしたら全てが、彼の計画だったのかもしれない。お茶や彼の纏う空気、誰にも見られない小さな小屋、彼を呼ぶ呪文だって。
「貴方は何者なの?」
それは何を考えているのかわからない彼に対する、ちょっとした好奇心。
「あっ、人に名前を聞く時は、自分から名乗るのがマナーよね。私はシェルリア・モンスティ」
「シェルリア……モンスティ?」
仮面の男は噛みしめるようにゆっくりとシェルリアの名前を繰り返した。驚いているようで、喜んでいるような。なんとも言えぬその声色に、シェルリアがどうしたのかと尋ねようとした時、仮面の男がシェルリアの両手を掴む。
「きゃあ! な、なに!?」
懸命に手を振り解こうとしても、嫌がっているシェルリアに気づいていないのか手は外れず、真っ直ぐシェルリアに向けられている金色の瞳が僅かに揺れていた。
その眼差しに気づいたシェルリアは、暴れることをやめる。
「ねぇ、どうしたの? 手を離してほしいのだけど」
「っ! ……すみません」
ハッとしたように仮面の男は手を離すと、シェルリアとの距離をあけた。そのことにシェルリアは安堵の息を吐く。
紳士的な態度だったので、男の人と二人きりだけど小屋へと入ったのに、甘くみていたか、とシェルリアが反省していると、彼から遠慮がちな声がかけられた。
「あの……申し訳ありませんでした」
「あぁ、まあ、はい」
深々と頭を下げられ、シェルリアは煮え切らない返事を返す。許すとも言えないし、許さないと言って何か起きても嫌だった。
「こんなタイミングで言うのもあれなんですが」
そう言うと、彼はびしっと背筋を伸ばし、姿勢を正す。思わず向かい合うシェルリアも背筋を伸ばした。
なんだか、彼から緊張感が漂ってくる。
「私はセドリック・ランベルと申します。シェルリア嬢、どうか私とお付き合いしてください」
「……ふえ?」
ありえない言葉が並んでいた。
それは、言葉の意味を理解した瞬間、返事を返すこともせず、シェルリアが回れ右をしてドアから飛び出すくらい、である。
人に見られるなんて気にもせず、シェルリアは寮を目指してひた走る。冷たい風が頬にあたり、頭にのぼった熱が徐々に冷めていった。
「なんて言ってた。お付き合い? それって……いやいや、それより、セドリック・ランベルって言ってたよね!? いやいやいやいや、あり得ない。だってーー」
セドリック・ランベルは、王宮に四人しかいない王族が認めた特別王宮薬師の一人なのだから。