心が軋む
窓の外は少しずつ冬支度を始め、木々は寒そうに枝を震わせる。真っ赤な絨毯のひかれた廊下に漏れ入る光からも熱は感じられず、シェルリアは寒いわけではないのに、ふるりと身体を揺らした。
王宮に来て二年。もうすぐ二度目の冬が来る。つまり、母の命日も近いということ。
つい先日、チェルシーに里帰りの相談をして許可を貰った。
忘れ屋の仕事を引き受けたばかりで、どうすべきかと悩んだが、チェルシーは迷うことなく許可をくれたので、今回は有難く休暇をもらおうとシェルリアは思っている。
休暇は七日間。馬車で片道二日はかかるので、滞在は三日といったところだ。父に手紙の返事を書かなくてはいけない。
それに、セドリックにも一応伝えるべきだろう。二週間おきにある忘れ屋には支障のない日程になっているが、万が一何か起きたときのために連絡しておくのはマナーといえる。
そんなことを悶々と考えながら歩いていたシェルリアの視界の先で何かが動く。目を凝らして見てみると、廊下の奥にある扉が開き、二つの人影が出てきた。
ここは王宮の中でも王族の居住区にあたる場所。階を上がれば国王や王妃、王太子の部屋がある。
そして、距離は離れているものの、チェルシーと同じ階には第二王女クリスティーナの部屋もある。
ちょうど開いた扉のあたりはクリスティーナの居住スペースだった。
クリスティーナはチェルシーの三歳上で、銀髪に青目のチェルシーとは異なる可愛らしい顔立ちの女性だ。幼い頃から病弱故に、あまり公の場に姿は表さない。それどころか、部屋からもほとんど出ない。
シェルリアはチェルシーとクリスティーナが会っているところを見たこともなかった。昔から王宮で働いている者曰く、クリスティーナはチェルシーが苦手らしい。
たしかに普通の貴族女性の感覚では受け入れがたいところも多々あるだろうことは、間近で見ているのでシェルリアも少しは理解できる。ただ、全く会う機会を作らないというのも不思議な気がする。
とはいえ、主人同士の仲があまり良くないからといって侍女達まで不仲になる必要はないはずだ。
クリスティーナの侍女に愛する男性の心を持ち去られたとしてもである。
シェルリアは廊下の奥から自分の方へと近づいてくる人達に、精一杯の笑みを向けた。ここは女のプライドにかけて譲れないところでもある。
しかし、シェルリアの気合とは裏腹に、次第にはっきり見えてきた人影は意外な人物だった。
白地のローブを靡かせるその人は、シェルリアに気づいたのか片手を上げ、冷たい空気までも一気に温めてしまうような柔らかな笑みを浮かべる。
「こんにちは、リアさん」
シェルリアは思わぬ人物の登場に若干表情を引きつらせつつも、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、セドリック様」
チラリとセドリックの隣に並ぶ人物を盗み見る。きっちりと整えられた白髪に白衣を纏った男は、王族専属として昔から王宮で働いている医師だった。
王宮医師はセドリックが親しげに話しかけていることに驚きながら、シェルリアと挨拶を交わし、先に戻るとその場を後にする。残されたシェルリアは、セドリックへと視線を戻すものの、何と声をかけるべきかわからなかった。
というのも、先日、チェルシーと交わした会話が頭に残ってなかなか離れないのだ。
もしかしたら、以前セドリックと出会ったことがあるのではないか。
その疑いは、考えれば考えるほど増していき、シェルリアを不安にさせた。
「こんな王宮の中心部で会うのは初めてですね」
セドリックの言葉に僅かに肩を揺らしたシェルリアは、誤魔化すように大きく首を縦に振る。
「そ、そうですね。私もあまりクリスティーナ様のお部屋近くに来ることはありませんし……セドリック様は薬師のお仕事でこちらに?」
「ええ、まあ。もう私は必要ないのですが、少し様子を伺いに」
そう言ってセドリックは金色の瞳を細め、出て来た扉の方を見る。それだけで、シェルリアは大方理解した。
セドリックの見つめる部屋は第二王女クリスティーナの寝室。共に出て来たのが王宮医師ということは、クリスティーナの診察をしてきたのだろう。
最近では、クリスティーナの体調も大分良くなり、両陛下も喜んでいるという話を耳にするし、セドリックの言う『もう私は必要ない』とは、王宮特別薬師が処方するほど症状が酷くはないという意味ととれる。
それは国民にとって大変喜ばしいことであり、王族に仕える身のシェルリア達にとっても吉報だ。
「クリスティーナ様の体調がよろしいのは喜ばしいこと。これも医師様やセドリック様のお力添えがあってこそですね」
「そう言っていただけると嬉しいです。患者の病を治す薬を調合できるのは薬師だけですし、そのことを誇りに仕事をしているつもりですから……」
言葉の内容とは裏腹に、セドリックの表情が少し固いように見え、シェルリアは思わず彼の顔を覗き込んだ。
「セドリック様? 何か心配事でもおありですか?」
見上げる姿のシェルリアが映る金色の瞳が大きく揺れた。あと少しでも近づけば触れてしまいそうな距離にセドリックは息を止める。
シェルリアは心配が先に頭にきているのか、その距離感に気づいていないようだった。
赤みがかった茶色の髪は綺麗に結い上げられ、侍女服をきっちりと着こなしているシェルリアは、誰がどう見ても立派な大人の女性だ。
しかし、彼女のぱっちりとした二重の赤い瞳がセドリックを過去へと引っ張る。決してセドリックが忘れることのないその記憶は、大切なものであり、薬師としての出発点であり、戒めでもある。
すっと伸ばされたセドリックの片方の手が、柔らかなシェルリアの頬を包み込む。はっとしたシェルリアは、そこで初めて己の状況を理解した。
セドリックの懐から覗き込むように見上げるシェルリアと、真剣な眼差しを向け見下ろしているセドリック。見る角度によっては、キスをしているようにも見える体勢に、シェルリアは一気に頬を染める。
「あ、あ、あのっ、セドリック、様」
「リアさんは薬師の仕事をどう思いますか?」
質問よりまず今の体勢を何とかしてくれと半泣き状態のシェルリアだったが、セドリックから向けられる真っ直ぐな眼差しに文句の言葉を飲み込む。
薬師の仕事ーーそれは、シェルリアにとって憧れでもあった。
領地柄、多くの薬師と接することが多かったシェルリアは、医師の力だけでは病が治らないことを十分理解していた。
医師同様、病について詳しく学ぶのはもちろん、薬草の効能を把握し、症状にあった薬を的確に判断、調合する。医師のように直接身体に治療を施すわけではないけれど、身体の内側から人の命を救う大切な仕事だ。
「人の命を救える素晴らしい仕事だと思っております」
シェルリアも領主の娘として薬草については勉強してきた。
しかし、シェルリアに求められるのは薬師になることではなく、領地の利になる貴族の繋がりを得ることや結婚だということは幼い頃からわかっている。それでもーー
「少し羨ましいです。そんな素敵な力を持つセドリック様が」
くしゃりと笑ったシェルリアの表情は今にも泣き出しそうだった。
セドリックは思わず息を呑む。
「シェル、リア?」
次に息を止めたのはシェルリアだった。
セドリックの口から溢れでた名前。それは、絶対にこの場で、彼から聞くはずのないものだ。
「あ、あの……」
か細く震えるシェルリアの声を耳にして、セドリックは驚いたように目を見開くと、慌ててシェルリアから離れた。頬に添えられていた手がするりと去っていく。
「申し訳ない。昔出会った女性に少し面影が似ていたもので……忘れてください」
「えっ、それはーー」
「セドリック様っ!」
ちょうどその時、セドリックの背後から彼を呼ぶ女性の声がかかる。
先ほどセドリック達がいた部屋から駆け寄って来た女性は、セドリックの影になり気づかなかったのだろう。シェルリアの姿を見るや否や、すっと目を細めた。
シェルリアはビクリと肩を揺らす。何故なら、侍女はシェルリアの彼の心を奪ったクリスティーナ付きの侍女、ネリーだったからだ。
「セドリック様。いつもあれ程お願いしているではありませんか。診察後もクリスティーナ様のお側にいて差し上げてください、と」
ネリーはシェルリアが見えていないかのように、セドリックに話しかける。
一方、セドリックは困ったように眉尻を下げた。
「クリスティーナ様はもう私の薬は必要ないと診断を受けたはずです。本来ならば、私が医師と同伴する必要もありません」
「しかし、クリスティーナ様は今も薬を飲まれており、お心が不安定でございます。少しで良いのです。クリスティーナ様のご気分を上げるためと思って」
「私はーー」
「侍女とお話しをするお時間があるのでしたら、どうかクリスティーナ様のためにお願いいたします」
チラリとネリーに視線を向けられ、シェルリアはぐっと唇を固く結ぶ。詳しい事情はわからないが、ネリーが言いたいだろう目線の意味をシェルリアは汲み取ってしまった。
シェルリアは言うべきか僅かな時間葛藤し、観念したように口を開く。
「セ、セドリック様。私のことはどうぞお気遣いなく……」
王族に仕える者として、第二王女であるクリスティーナの望みを叶える手助けはするべきで、ましてや、望みの邪魔など以ての外である。
それが例え彼の望まぬ事だとしてもだ。
セドリックは一度シェルリアに視線を向けると、小さく息を吐き出し、ネリーに向き直る。
「わかりました。伺いましょう」
「ありがとうございます。クリスティーナ様も喜びます」
美しい礼をセドリックに向けたネリーは、歩き始めていたセドリックの後を追おうとして、振り向いた。
「どうもありがとう、シェルリアさん」
こそりと告げられた言葉にシェルリアは会釈することしかできなかった。
シェルリアに一言もかけることなく去っていくセドリックの背と、彼の後ろについて歩くネリーの姿をシェルリアは黙って見送る。
溢れ出る感情に潰されるかのように心が軋み、シェルリアはそっと胸を押さえた。