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知っていること

 カリカリとペンを走らせる小さな音が、静かな空間に響き渡る。文字なのか、絵なのか、見ただけではさっぱりわからない複雑な図形を、素早く、けれど忠実に書いていく。



「シェルリア、終われそうかしら?」

「はい。このペースならば貸出期限までには間に合うと思います」



 王女の部屋の端にテーブルを引き入れ、古く分厚い資料の中からチェルシーの欲しいところだけを書き出していく作業は、チェルシー付きの侍女にとって通常業務の一つと言える。

 いくら王女の願いでも、古い文献は大変貴重な品なので、長期で貸し出しをしてもらえない。そのため、研究に必要な箇所は模写するしかないのだ。


 部屋の中央奥に置かれている執務机では、シェルリアと同様、チェルシー自身も模写している。インクに塗れる王女の姿を見て、嘆いているようではチェルシー付きの侍女は務まらない。



「やっぱり本を読むことに慣れているシェルリアが一番早いのよね」



 手元から視線を外すことなくチェルシーはシェルリアを褒める。

 しかし、シェルリアはあまり嬉しくなかった。


 最近では、女性は勉強よりもマナーや刺繍を身につけなさい、なんて考えはかなり昔のものになりつつあるが、それでも本にかじりつく貴族女性は少ない。最低限の勉強はするが、学院でもマナー講習などが主だ。

 そうなれば、自然と本を読む機会は減り、読んだとしても小説などの書物のみ。なんと書いているのかわからない文字が連なる分厚い本に触れ合う機会など皆無と言っていい。


 そのためか、チェルシーの手伝いは侍女達が交代で行うのだが、なかなか作業が進まない。そこで重宝されるのが、薬草などの勉強のため幼い頃から分厚い本と睨めっこをしてきたシェルリアなのである。


 まだ学院に入る前、シェルリアは自分の領地の特産物である薬草の些細な違いを覚えるため、資料に載っている薬草の模写をよくしていた。上手いと褒められるくらい熱心にしていた記憶がある。

 その経験が、現在チェルシーの役に立っている。それは大変光栄なことなのだが、若干同僚達に押し付けられている感も否めない。


 研究の補佐をしてくれる者を雇えばいいのにとも思うが、人との関わりをあまり好まないチェルシーはそれをよしとせず、結局、仕事の合間を縫って侍女達が手伝うことになるのだ。

 そんなわけで、部屋でチェルシーと二人きり。黙々とシェルリアは文献と睨み合っていた。



「そういえば、先日はどうでしたの?」



 チェルシーの思わぬ問いかけに、シェルリアは手を止める。どうやら先が見えてきたことで、気持ちに余裕が生まれたのだろう。

 正直、シェルリアにそこまでの余裕はないが、無視するわけにもいかない。シェルリアは再び手を動かしながら、チェルシーが言う『先日の出来事』を思い出していた。



「……良い経験をさせていただきました」



 可もなく不可もなくな返答にチェルシーは「そうなの」と相槌を返す。


 シェルリアは見当違いな答えではない、と思っている。『忘れ屋』の仕事は、普通に生きていれば絶対に経験することのできない出来事だった。

 人それぞれが抱える悩みや考え方、忘れ屋を頼る理由。それらに触れ合うことができて、シェルリアも色々と考えさせられたのは紛れも無い事実である。



「セドリックとは、うまくやっていけそうかしら?」

「そ、それは……」



 シェルリアは言葉を詰まらせる。


 最初の頃のセドリックの印象は最悪だった。けれど、彼がシェルリアとの出来事を忘れたのではなく記憶自体がないことや、自分の力に悩み苦しんでいるのだと知ってから、セドリックに抱いていた嫌悪感は薄れている。


 もちろん、出会ったばかりのシェルリアに告白紛いの言葉をかけてきたことなど、全てを信用できるまでには至っていない。

 しかし、セドリックが見せる優しさや誠実さが嘘だとシェルリアには思えず、何よりも、時々見せる砕けた空気感に安堵するのも確かなのだ。



「うまくやっていけるかは、正直わかりません。ただ、やっていけたらいい、とは思います」

「ふふふーー、それは良い変化ね」



 チェルシーの楽しそうな笑い声に、シェルリアは恥ずかしさを覚えた。


 名前を偽るほど拒絶していたのに、もう心を開き始めているシェルリアを、チェルシーはどう思っているだろうか。すぐに考えを変える簡単な女だと思われてはいないか。

 しかし、シェルリアの心配は杞憂に終わる。



「セドリックの事情は聞いた?」

「はい」



 シェルリアは手元から顔を上げ、チェルシーに目を向けた。作業を続けていたチェルシーも視線を感じたのか、手を止めて顔を上げる。

 ふわりと優しく微笑んだチェルシーは女神のように神々しい。その表情を見ただけで、シェルリアの肩から力が抜けていく。



「ちゃんと伝えたのね。よかったですわ」

「……私が聞いてもよかったのでしょうか」



 忘れ屋がセドリックであることは、ほとんどの者が知らないはずだ。ましてや、セドリックの記憶が消えてしまうなんて噂も聞いたことがない。

 隠しているのかはわからないが、少なくも皆が知らない重大なことに違いはないのだ。


 そんな大事なことをセドリックが何故教えてくれたのか、シェルリアには全くわからない。あの時、セドリックが見せた態度の意味も。


 シェルリアは不安げに瞳を揺らす。そんなシェルリアにチェルシーは「大丈夫よ」と優しく声をかけた。



「彼は貴女に知ってほしいと思ったのでしょうから」

「どうして最近知り合ったばかりの私なんかに……」

「さぁ、どうしてでしょうね……本能で感じ取ったのかしら?」



 その含みのある言い回しにシェルリアは目を細める。探るような眼差しを向けられても、チェルシーは笑みを崩さない。



「チェルシー様は、何かご存知なのですか?」

「知ってると言えば知っているわ。でも、これ以上はわたくしが言うべきことじゃないと思うの」



 言いたいことを言い切ったのか、チェルシーはそのまま机の上にある文献に視線を落とし、ペンを走らせ始める。

 一方、シェルリアは困惑を隠しきれない様子で、何かを問おうとしては音にならず、口をパクパクと動かすことしかできなかった。


 チェルシーは何を知っているというのか。セドリックとは、シェルリアが忘れ屋に会いに行ったあの日が初対面のはずだ。

 シェルリアの知人には薬師はいても、王宮特別薬師はいないし、ランベル伯爵家と夜会で言葉を交わしたこともない。



「……でも、もし」



 ーーもし何処かで会っていたとしたら。



 シェルリアはふるりと身体を震わせる。

 何か大切なことを忘れている気がしてならなかった。





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