不思議な人
シェルリアはゆっくりとカップを口元へ運ぶ。先ほどよりも感じる紅茶の香りに、ふぅと小さく息を吐いた。
「私、不思議な人でしょうか?」
僅かに首を傾げ、シェルリアはセドリックに問いかける。
紅茶の効果、或いはセドリックの表情のせいか、空気が最初よりも柔らかく感じられ、緊張と警戒がほぐれていく。
セドリックもシェルリアの変化を敏感に感じ取ったのか、張り詰めていた糸が切れたかのように、貴族らしい美しい体勢を少し崩し、椅子の背もたれに寄りかかった。
そのらしくない姿にシェルリアは若干驚いたが、セドリックも緊張していたのかもしれないと思うと、少しだけ親近感が湧いてくる。
「リアさんは気にならないんですか?」
問いかけに脈略のない質問で返され、シェルリアはキョトンとした表情をセドリックに向ける。
「どうして記憶が消せるのか。記憶がなくなるのか。普通、気になって聞いてくるとか、気味悪がるとかしません? それとも、興味を持つ気にならない程、私のことを嫌ってますか?」
つまり、不可思議な力について何にも反応を示さない自分が不思議だ、と言っているのかとシェルリアは理解した。
言葉の最後の方から、記憶を思い出せないことへの罪悪感みたいなものを感じたが、そのことは敢えて触れる必要がないだろう。どうせ仕方がない事なのでしょう、と言ったところで納得すまい。
「それは、聞いていいことだったんですか?」
シェルリアの言葉にセドリックは目を見開く。明らかに驚いている様子だが、シェルリアはセドリックの驚く理由がわからなかった。
セドリックは伯爵位の家柄であり、王宮特別薬師でもある。子爵の娘でしかないシェルリアが、ずかずかと相手の領域に入り込めるはずがないだろう。
「私は決して気味が悪いなんて思っていません。苦しんでいる誰かを救える力なのですから。ですが、気になるからといって安易に口にしてよい事柄なのか、私には判断できなかったのでーーあ、あの? セドリック様?」
シェルリアは言葉を最後まで紡がことができなかった。というのも、セドリックのシェルリアを見つめる視線があまりにも真っ直ぐだったためだ。
晒してはいけないとすら思える程の真剣さに、シェルリアは狼狽える。金色に飲み込まれそうだった。
「わ、私、何か失礼なことを申してしまいましたでしょうか?」
シェルリアは度々セドリックに失礼な言葉を吐き捨ててきている。もしや、無意識のうちにセドリックの気に触ることを言ってしまったのではないか、とシェルリアは気が気ではなかった。
だが、セドリックはシェルリアの言葉に力なく首を横に振る。
「……いいや、違う」
セドリックの瞳が大きく揺れたかと思うと、彼はふぅ、と小さく息を漏らしながら目元を大きな手で覆い、天井を見上げた。
その仕草があまりにも色っぽかったので、シェルリアは思わずセドリックに釘付けになる。
一方、セドリックはシェルリアからの熱い視線など気にしていられない程、そわそわと落ち着かない気分に襲われていた。
それはかつて味わったことのある感覚。けれど、はっきりとは思い出せない。
ただ一つわかることは、彼女になら話してもいい。知ってもらいたい。そうセドリックの心が訴えているということ。
セドリックは目元から手を外すと、記憶を探るようにゆっくりと口を動かし始めた。
「本格的に薬学について勉強し始めた幼い頃、自分に王宮特別薬師になりえる力があると知った私は、父の研究室に忍び込んだんです」
それはセドリックが十一歳の、まだ好奇心や探究心ばかりが先走り、周りが見えていなかった頃の話だ。
「あの時はちゃんと薬を調合できると信じて疑っていなかった。本に書いてある通りにすれば簡単に作れると思っていました」
まだ調合は早い、とさせてもらえず、知識ばかりが膨らんでいった。試してみたいという衝動を抑えなかったのは、自分の力を過信したせい。セドリックは父親の目を盗み、薬品に手を伸ばした。
「結果、調合は失敗。薬は破裂し、舞い散った不完全な薬を吸い込んだ私は、毎日、太陽が昇る時間帯に何かしらの記憶が消え、他人の記憶を消す力までも身につけてしまいました」
そこまで話したセドリックは、天井に向けていた視線を目の前に座るシェルリアへ戻す。馬鹿でしょう? と問いかけてくるようなその表情に、シェルリアは言葉が出なかった。
「治す方法はたくさん調べたし、古い本も読み漁った。チェルシー殿下にも協力してもらった。治る可能性のあるものは色々と試しもした……まあ、結果は出ていませんけど」
セドリックの自虐的な笑みがシェルリアの目に痛々しく映る。いつの間にか、常に穏やかな微笑みを浮かべている貴公子らしいセドリックの姿は見当たらなくなり、年相応の青年に見えてくる。
今、目の前にいるセドリックが本来の姿なのだろうか、と思案しつつ、シェルリアは恐る恐る口を開いた。
「も、もしかして……忘れ屋もその症状を治すために?」
それは確信に近い質問で、案の定、セドリックはそうだ、と頷く。
「それを知ってもなお、俺が冷たい人間だとは思いませんか?」
シェルリアはセドリックの言葉を聞き、目の前にいる彼こそが本来のセドリックの姿なのだとはっきり理解した。
彼が本音で向き合ってくれるのであれば、シェルリアも真摯に返さなければいけないだろう。
「思いません。病を……この場合だと薬の副作用と言うのでしょうか? どちらにしろ、症状を治したいと思うのは当然のことではありませんか?」
モンスティ子爵家の領地は様々な種類の薬草が採れる。そのため、薬師だけでなく、患者やその家族が病に効く薬草を求めて直接来ることも多い。
医者や薬師しか薬についての知識がないとはいえ、双方と患者の出会いもまた巡り合わせだ。患者の病に効く薬を必ずしも出会った薬師が調合できるとは限らないし、正しい知識を持っていないことも大いにある。
どんなに薬学の発展が著しいアルリオ王国でも、医師や薬師になれる者は少なく、実際に学び、知識を身につけるのは生身の人間で、完璧な人間に出会えることなど滅多にないだろう。
だからこそ、僅かな望みに賭けて、薬草に詳しい者が多いモンスティ領に来る。彼らは、ただ病を治したいだけなのだ。
そのような者たちを多く見てきたシェルリアに、セドリックの行いを軽蔑するなどといった考えは浮かばない。
「それに、セドリック様の気持ちはどうであれ、相談に来た方達は救われているはずです。そこに罪悪感を持つ必要なんてないと思います。というか、自ら選んでやってきた依頼人の覚悟に失礼ですよ」
今までの依頼人を見て来たわけではないが、少なくともラフィネは強い覚悟を持って来たのだとシェルリアは感じた。ちゃんとした覚悟や強い意思がない者は、シェルリアのようにセドリックの言葉で決断しきれないだろう。
だから、セドリックが自分の治療のために他人の記憶を消すとは、なんて酷いことを……と考えているのであれば、お門違いである。
シェルリアはどうだと言わんばかりに僅かに胸を張り、セドリックに視線を投げかける。包み隠さず、本心をぶつけ、少しでもセドリックの憂いが晴れたら、とシェルリアは本気で思っていた。
だが、セドリックはというと、感激するでも、反発するでもなく、呆気にとられたかのように固まっている。想像していた反応と違ったため、シェルリアはパチパチと何度か瞬きをしながら、セドリックと見つめあった。
しばしの沈黙が二人の間に流れる。そのなんとも言えない空気を先に破ったのは、セドリックの脱力感を拭えない声だった。
「状況を飲み込む早さに驚くべきか、君の言葉に感動すべきか……いや、うん。リアさんは、本当に不思議な人ですね」
「……えっと、それは褒めてくださってるのでしょうか?」
シェルリアは若干馬鹿にされている気がして、素直に受け入れられなかった。はっきり言って、二度も『不思議な人』と言われているが、『不思議』は十中八九、人を褒める言葉ではないだろう。
しかし、セドリックは背もたれにもたれかかっていた身体を起こし、シェルリアとの距離を縮めると、テーブルに頬杖をつき、今まで見せてきた中で一番柔らかく、甘い笑顔を浮かべた。そして、囁くようにそっと言葉を紡ぐ。
「もちろん、とても素敵だってことですよ」
「ふわぁっ!?」
あまりの破壊力にシェルリアが変な悲鳴を口から漏らし、否応なしに速くなっていく鼓動と懸命に戦っているとはつゆ知らず、セドリックは上機嫌でカップを口元に運ぶ。
「なんだか、リアさんとは上手くやっていけそうだ」
どうしてセドリックがそう思ったのかは知らないが、出会った最初の頃よりはセドリックに対する嫌悪感が薄れていると思い至り、なんともいえない気持ちになるシェルリアであった。