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日記

 カーテンの隙間から漏れ入る太陽の光と鳥のさえずりが、ゆっくりと意識を引き上げる。僅かに感じる喉の痛みに、長く重い睫毛を気怠げに持ち上げたセドリックは、ベッドの上で上半身を起こした。

 パサリと掛け布団が落ちれば、隠れていた色白の肌が露わになる。騎士と見間違えんばかりに鍛えられた胸筋が、深い深呼吸と共に上下した。


 ベッドサイドに置かれている水差しに手を伸ばしたセドリックは、グラスに水を注ぎ一気に流し込む。ただ水を飲んでいるだけなのに妙に色っぽい。

 カラカラだった身体が潤うと共に、夢と現実の境目で揺れていた頭がはっきりとしてきた。


 ベッドから降り、そばに置いてあったガウンを素肌に羽織って、カーテンを勢いよく開ける。差し込んできた眩しい光に金色の瞳を細めたセドリックは、身支度を整えるために部屋に隣接する洗面所へと足を向けた。


 セドリックは王都にあるランベル伯爵の屋敷に住んでいて、基本的にはそこから馬車で王宮へ通っている。

 だが、王宮には特別王宮薬師であるセドリック専用の研究部屋があり、薬の調合や新薬の研究に没頭するあまり泊り込むこともしばしば。同じ特別王宮薬師の父親は、妻がいるからと律儀に家へ帰っているようだが、独り身であるセドリックは無理して帰ってきたりはしなかった。


 そんなわけで、使用人のいない研究部屋で過ごすことが多いセドリックは、屋敷に帰ってきた時も身の回りの世話を自分でやってしまう。

 顔を洗い、さっと櫛で髪をとかし、身なりを整え、侍女が用意しておいてくれた衣服に袖を通す。たったそれだけで誰もが見惚れる容姿になるのだから、使用人泣かせである。


 セドリックはそのまま食堂に向かわず、一度、自分に充てがわれたもう一つの部屋へと足を向けた。

 机とソファ、テーブルを囲むよう壁一面に置かれた本棚には、薬の調合リストや研究データなどが所狭しと並ぶ。机の上には調合器具が置かれているが、この部屋に薬品などはない。薬品は父も使うので、共有スペースに保管されているのだ。


 セドリックは取り分け綺麗好きというわけではないが、整理整頓は得意なので、部屋が汚れているということは滅多にない。



「……これは、酷いな」



 ただし、現在の部屋の様子は目も当てられない有様だった。

 テーブルの上には、開かれたままの書物が乱雑に置かれ、ソファにもたくさんの書物が絶妙なバランスで積み重なっている。これらは全て、セドリックがつけた日記であった。



「さすがに片付けるか」



 普段は優しげな笑みを常に浮かべているセドリックの顔が、嫌そうに歪む。

 約十年間、毎日書き続けている日記だ。その量は計り知れない。


 本当ならば、このまま放置したい気もするが、誰がいつ部屋を覗くかもわからない。閉じている日記を読むような無粋な者はいないだろうが、開いていれば別だろう。

 他者に己の日記を読んでもらうような趣味はセドリックになかった。


 なるべく順番が狂わないように確認しながら日記をまとめていく。隠すように本棚の上に並べていた日記を引っ張り出したのは、数日前のこと。

 王宮図書館の裏にある薬草の畑でリアという女性に出会った日である。


 紫苑を探しにきたという彼女は、何処にでもいそうな赤みがかった茶髪の、一見大人しそうな女性だった。

 可愛いというよりは美人顔で、王宮で働いているわりに派手さはなく、自分を見ても平然としていたので、セドリックは親切心で案内をかってでた。セドリック自身、己の容姿や立場が人々の興味を引きやすいというのは理解しているため、騒ぎ立てる様子もない彼女に安堵した。いや、セドリックにとっても大切な花である紫苑の素晴らしさを、誰かと共有できることに浮かれていたのかもしれない。


 彼女、リアが、セドリックをよく思っていないことに全く気付かなかったのだから。



 特別王宮薬師は、名前にもある通り特別な存在だ。

 それは、他の薬師が作れないようなよく効く薬を作れるからじゃない。微弱ながら魔力を持っているから、なのである。


 国の中枢にいる者や先祖の魔力などについて研究している者くらいしか知らないことだ。そのせいで昔からチェルシーの研究に協力させられているのだが。

 人類が初めて建国した国であるアルリオ王国。この国の薬学が他国よりも発展したのは、先祖が魔力を持っていたからだ、というのは、王宮特別薬師の常識である。


 よく効く薬というのも、薬の調合自体は、新薬でない限り、一般の薬師のものとなんら変わらない。ただ、調合の際、魔力を練りこむことによって薬の効果を最大限に上げるのだ。

 一般の薬師と違うことを挙げるとすれば、新しい病気の薬を作る際、魔力を使って病原体を素早く発見し、何十年とかかるだろう薬を短時間で作り出せることだろう。


 ランベル家から特別王宮薬師が多く輩出されるのも、先祖返りが多く生まれる家系であるからにすぎない。たまに他家で現れることがあるが、大抵、ランベル家から嫁いだ者がいるのだ。

 結果的に、ランベル家の価値は魔力持ちの人間が消えたことで跳ね上がった。伯爵家とされてはいるが、これ以上権力を持たせないための配慮と言える。


 もちろんランベル伯爵家をよく思っていない者も多くいるだろう。大きな権力を持たせていないとはいえ、特別扱いをされていることに違いはないのだ。

 表では愛想を振りまき、ちやほやしてくるくせに、影では悪口や不満などを吐き捨てている人間を、セドリックは何人も見てきた。


 幼い頃は表の顔しかわからず、全てを好意的に受け入れていたが、色々なものが見えてくる歳になると嫌でも知ってしまう。

 いや、知ることができたのは、家族、特に父がとても厳しかったからかもしれない。甘やかされてばかりだったらと考えると、ゾッとしてしまう。


 セドリックは、もともと権力などに興味はなかった。あるのは、薬についてのみ。それは今も変わらない。

 だから、すり寄ってくる人間をどうこうしようとは思わない。面倒だと思うことはあるが、笑顔で当たり障りのない態度を取っていれば、薬の生成に影響が出ることもないし、表面上は人間関係が上手くいく。


 もちろん数は少ないけれど、友人はいる。気を使わなくて済む人間ばかりだ。彼らは嫌な時、言葉と態度でしっかりと示してくれる。

 そう、友人だけなのだ。面と向かってセドリックに嫌悪感をぶつけてくるのは。




 だから、最初は彼女(リア)が何を言っているのか理解できなかった。初対面の人に嫌悪感をぶつけられて驚いたくらいだ。

 だが、セドリックが動揺していたのは一瞬で、彼女の言葉を聞いているうちに、謂れのない事で文句を言われていると腹が立ってきた。本当に失礼な人だと思った。


 けれど、違った。彼女は言ったのだ『覚えていない』と。

 王宮は広く、人の出入りが激しい。一度や二度会ったくらいでは忘れてしまうくらい多くの人が働いている。


 しかし、彼女の怒りは、廊下ですれ違ったような相手に向けるものではなかった。明らかに、リアとセドリックの間で何かがあったのだ。

 でも、セドリックは全く思い出せなかった。



「何があったのか日記から探したところで、やっぱり見つけられるはずはないんだ。なんたって、記憶が消えて無くなってるんだから……」



 セドリックは疲労感を滲ませ、重いため息を一つこぼす。

 何日も日記と睨めっこをしているせいで、目が重い。



「こんなに遡って探しても、リアという女性が出てくるのは最近のしかないし……俺、彼女に何したんだ?」



 答えを知っているのはリアとチェルシーだけだ。



「チェルシーめ。俺の事情を知ってるくせに教えてくれないなんて」



 思わずセドリックの口から幼馴染ともいえる王女への恨み節が漏れ出る。セドリックに対する世間のイメージとはかけ離れた口振りを注意する者はここにいない。

 ドカリと勢いよくソファに腰を下ろしたセドリックは、長く息を吐き出しながら背もたれにもたれかかった。



「……今日は出勤したくないな」



 なんたって今日は、リアと『忘れ屋』として初めて一緒に仕事をする日なのだから。

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