CASE 03‐紅蜘蛛‐(中)
そこは家と言うよりは小屋だった。雨露をしのぎ、寝泊まりに足りるだけの粗末な家床は今にも抜けそうで、障子は破れたまま放置されていた。
金持ちの亜季菜の生活水準では考えられないほどの襤褸家で、彼女は靴のまま家に上がろうとしまったくらいだ。
適当に座っておくれと老婆に言われ、二人が座った畳はささくれ立ち、服に細かいごみが付き、少し脚がチクチクする。
落ち着かないようすの亜季菜は辺りを見渡しながら、襖の奥から人が咳き込むような音がするのに気が付いた。
「病人がいるのかしら?」
「わしの孫娘じゃよ。昔から身体が弱くてね、いつも床に伏しておる」
襖がゆっくりと開き、蒼白い顔をした着物を来た娘が顔を出した。
「お客様かしら?」
長く美しい黒髪を腰まで垂らし、端整な顔立ちをした娘の声は少しか細い。しかし、その体つきは若さに相応しく、着物から除く白い脚はもち肌で、少しはだけた襟首から除く胸も大きな膨らみを備えていた。
娘は愁斗たちの前まで来ると、正座をして深く頭を下げた。
「私はこの家の娘で、お紗代と申します」
相手のあまりに畏まった態度に、亜季菜は背筋を伸ばしてしまった。
「あたしは亜季菜、こっちは弟の愁斗よ」
亜季菜から愁斗に視線を移したお紗代の頬に、ほんのりと赤みが差した。
にこやかに微笑むお紗代は、亜季菜ではなく愁斗に話しかけた。
「しばらくここに滞在するのですか?」
「いいえ、できれば早くここから一〇里離れてるという村に行きたいのですが。姉もそれを望んでいます」
「そうですか……。ですが、今から村に向かったのでは、夜の山道を通ることになってしまいます。今日はどうぞこの家でゆっくり休まれて、明日の早朝にお出かけください」
「そうさせていただきます」
愁斗は軽く頭を下げて亜季菜に視線を送った。やはり亜季菜は嫌な顔をしている。彼女はこの家に泊まるのも嫌だし、山道を約四〇キロも歩くのも嫌だった。
とは言っても、この集落にある家はどれも同じで、亜季菜を満足させる家はないだろう。それに、交通手段があるとは思えないこの場所では、歩かなければ山を越えられないのも明白だった。
「最悪だわ」
小さく呟いた亜季菜はすっと立ち上がった。
「少し外を歩いてくるわ」
「僕も行きます」
外に出ようとする亜季菜の腕を掴み、愁斗の同行することにした。
家を出ると、先ほどより辺りが暗くなっていた。空は依然として灰色で、朝なのか昼なのか夕方なのか、まったく区別がつかない。お紗代の話からすると、夜が近いらしいが、灰色の空からはそれを察することはできない。
「あたしあの家に泊まるなんてまっぴらごめんよ」
吐き捨てるように言う亜季菜に対して、愁斗は淡々としていた。
「じゃあ、村まで歩きますか? もうすぐ夜が訪れるらしいですが」
愁斗が空を見上げると、灰色が少し暗くなっているようだった。やはり夜が来るのかもしれない。
「歩くのは嫌よ。でもここにいるのも嫌」
「わがままですね。でも、いつかはここを出なくてはいけない。とは言っても山道に出たら最期かもしれません」
「どういう意味よ?」
「一〇里先に村などないかもしれないという意味です」
「あの人たちが嘘をついてるってこと?」
愁斗が次の言葉を発するまでに少し時間があった。
「――ここは僕たちの住むべき世界ではないかもしれません。僕たちは異世界に迷い込んだのかもしれない」
「そんな……」
――莫迦な、と言おうとして亜季菜は口を噤んだ。
現実と呼ばれる世界を生きている者としては、異世界という存在はにわかに受け入れがたい。いや、本来は受け入れてはいけないのかもしれない。魔導に通じる愁斗と関わりを持ってしまってはいるが、亜季菜はまだ人間なのだ。
亜季菜はたまに思う。目の前にいる青年は人間ではない存在なのかもしれない。
「亜季菜さん」
「なに?」
呼びかけによって愁斗をぼんやりみていた亜季菜の意識が戻された。
「亜季菜さんのジャケットに蜘蛛がついてますよ」
「ヤダ、取ってよ。愁斗ほら早く払ってちょうだい」
身体を振り乱して慌てる亜季菜の前に立った愁斗は、ジャケットについている蜘蛛を片手でさっと払った。
糸を引きながらジャケットから落ちる蜘蛛は、ふわりふわりと地面に降りた。そこへ赤いヒールが叩きつけられた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ!!」
それは亜季菜が蜘蛛を踏み潰したのと同時だった。
耳を塞ぎたくなるような苦悶に満ちた叫び声。
「お紗代さんの家ですね」
走り出した愁斗を追おうと亜季菜は、蜘蛛を潰したヒールを地面にすり合わせ走り出そうとした。しかし、その脚は止まってしまった。
民家から顔を出す人影。ひとつ、ふたつ、みっつ――村中の人々が民家から顔を出したそして、みな亜季菜を見ているのだ。無表情な瞳で。
怖くなった亜季菜は全速力で愁斗の後を追った。
まず愁斗が家に駆け込み足を止めた。
すぐ後ろを追ってきた亜季菜も、家に入ったとたん顔を真っ青にして足を止めてしまった。
「なによ、これ……?」
どうやって死んだら、人はこんな恐ろしい表情をできるのだろうか?
四肢を曲げ、仰向けになっている老婆は白目を剥き、口からは泡を吐き、苦悶に満ちた形相をしていた。
事切れている老婆の傍らで、お紗代は膝を付いて肩を揺らしていた。その頬から雫が流れ落ち、お紗代は振り向いた。
「亡くなりました」
なぜ?
とは訊けなかった。
ゆらりと立ち上がったお紗代は老婆の両脇に自分の腕を差し込み、老婆の上半身を持ち上げた
「手伝っていただけますか? お婆様を家の外に捨てます」
お紗代の言葉に亜季菜は訝しげな表情をした。
亡くなった人間を家の外に捨てるなどという常識は、亜季菜の常識には当てはまらなかった。捨てるということは、死者を雨風に晒して朽ち果てさせるということなのだろうか。それは亜季菜にとって死者に対する冒涜にも思えた。
立ち尽くす亜季菜を尻目に、愁斗は淡々とお紗代を手伝い、老婆の足を持ち上げていた。
「亜季菜さんは胴を持ち上げてください。死人は生者より重いですから」
生きている人間は寝ていたとしても身体に力が入っている。しかし、死人は身体にまったく力が入っていない分、生きているときよりも重く感じられるのだ。
胴を持ち上げた亜季菜は老婆の身体がまだ生暖かいのを感じた。心地よい温かさとは決していえない。できればすぐに手を離したかった。
家の外はすでに人だかりであった。
襤褸をまとった人々が輪を作るように集まってきている。農作業の途中だったのか、鎌などの刃物を持った者もいる。この集落に住む者たち全員が駆けつけて来たようだ。
老婆を地面に降ろすと、人の輪が小さくなり、人々が老婆に群がった。
お紗代は悲しみくれることもなく、足早に家の中に戻って行く。愁斗もその後を追った。亜季菜は一瞬後ろを振り向こうとしたのをやめて、すぐに愁斗の背中を追って家の中に入った。あの場に長居をしてはいけないような気がしたのだ。
夜は更け、灰色の空は闇色へと変わった。
結局、この襤褸屋で一晩を過ごさなくてはいけなくなってしまった。
どうも落ち着かない。寝ようと目を閉じても、すぐに目を開けて寝返りを打つ動作をしてしまう。
横で眠る青年は恐怖など微塵も感じさせない安らかな表情をしている。
「愁斗、起きてる?」
――返事はなかった。
すぐ傍で寝ているにも関わらず、亜季菜は孤独感を感じた。まるで闇の中で独りぼっちになってしまったみたいだ。
ガサガサと部屋の隅から物音が聞こえた。亜季菜は耳を済ませながら、部屋の隅を凝視する。物音のした場所は天井の隅だった。そこでなにかが動いている。
針のような八本脚を持った奇怪な生物と目が合ってしまった。しかも、こちらの眼が二つに対して、あちらは五つもある眼で見ている。それは巨大な蜘蛛であった。体長一メートルはあろう、大蜘蛛が天井の隅に蹲っていたのである。
「愁斗起きて!」
金切り声をあげた亜季菜を目掛けて、蜘蛛が糸を吐いた。
幾本もの粘糸が闇の中に広がった。
「なにこれ!?」
蜘蛛の吐き出した粘糸は亜季菜の四肢に絡みついた。手が動かない。足も動かない。身体の自由が奪われてしまったのだ。
天井の隅にいた蜘蛛が亜季菜に目掛けて跳躍した。
もう駄目だと思った瞬間、亜季菜の目の前で煌きが放たれた。
長細い脚が一本、音を立てて床に落ちた。
「すみません亜季菜さん」
蜘蛛の脚を切断したのは愁斗の放った妖糸であった。
脚を切断された蜘蛛は、愁斗が亜季菜の安否を気遣っている間に、闇の中に消えてしまった。
「逃がしましたね」
淡々と呟きながら、愁斗は亜季菜の身体に纏わり付いた粘糸を引きちぎる。蜘蛛の吐いた粘糸によって亜季菜の身体は自由を奪われていた。もし、愁斗が気付かなければ、亜季菜は逃げることもできず、蜘蛛の腹の中に納まっていただろう。
慌てたような足音が聞こえ、亜季菜の声を聞きつけたお紗代が姿を見せた。
「どうかなさいましたか?」
お紗代は口に手を当てて、息を呑み込んだ。
粘糸に捕らえられている亜季菜の姿と、床に落ちている長細い脚。この場で奇怪なことが起きたのは一目瞭然だった。
床に落ちている脚を見たお紗代は、それがなんであるかすぐに悟った。
「蜘蛛が現れたのですね」
愁斗と亜季菜の視線がお紗代一身に注がれた。お紗代がなにかを知っていると、すぐに察することができたのだ。
少々手こずりながらも、亜季菜の身体に絡みついた糸を取り払った愁斗は、立ち尽くしているお紗代を促した。
「蜘蛛についての話、詳しくお聞かせ願いたい」
「この地には古くから土蜘蛛が棲んでおります。普段は人里に姿を見えることはないのですが、食料の少なくなるこの時期になりますと、時折、子供の土蜘蛛が姿を現すことがあるのです」
土蜘蛛とは日本古来からの怪物の一種である。
愁斗は脱ぎ捨ててあった自分の上着を亜季菜に手渡した。
「僕の上着を着てください。そのベトベトの上着のままじゃ嫌でしょう?」
「ありがとう」
短く礼を言って亜季菜は上着を受け取った。
亜季菜の来ていたジャケットは蜘蛛の吐いた糸が絡み付いて落ちない状態だった。タイトスカートにも粘糸はついていたが、これは替えがないのであきらめるしかない。手足に付いた糸も後で洗い流さなければならない。
着替えようとしている亜季菜にお紗代が声をかけた。
「私の着物をお貸ししましょうか?」
「いいえ、けっこうよ」
少し強い口調で断った。お紗代の着ている着物は、お世辞にもいいものとは言えない。みすぼらしいと言えるその着物を着ることは、亜季菜のプライドが許さなかったのだ。
お紗代はなにも言わず奥の部屋に姿を消した。その一瞬、亜季菜は振り返ったお紗代が自分を睨んだような気がした。しかし、なぜ睨まれたのかが見当も付かない。
嵌め殺しの窓から微かに光が差し込んでいた。
「もうすぐ夜が明けるみたいですね」
愁斗の横顔は光を浴びて輝いていた。
どこか妖香の漂う青年の顔に見惚れている自分に気づき、亜季菜は大きく頭を振った。たまにこういう気持ちにさせられるときがある。お子様には興味のない亜季菜でさえ、魔法にかけられてしまうのだ。
「夜が明けたら、さっさと出かけましょう。もう、ここに長居するのはイヤよ」
「そうですね、お紗代さんに道を訊いて出かけましょう」