CASE 01‐紫怨‐(3)
保健室で目を覚ました奈那子は、目の前にいる人物の顔を見て大きな悲鳴をあげてしまった。
「きゃーっ!」
保健室の先生が何事かと仕切りになっているカーテンを開けて入って来た。
「どうしたの!?」
原因は目の前にいる人物のせいだ。そう、香穂がいた。
香穂は目を丸くしながら不思議そうな顔をして奈那子の顔を覗き込んでいる。保健室の先生も心配そうな顔をして奈那子を見ている。
「中嶋さん何かあったの?」
『何か』なら目の前にいる。だが、奈那子はそのことには触れなかった。
「奈那子ちゃん平気?」
すぐ近くにいる香穂とは決して視線を合わせないで、奈那子はどうにか口を開いて声を絞り出した。
「大丈夫です、叫んだりしてすみませんでした」
「何かあったら私のことを呼びなさいよ」
保健室の先生はそう言うとカーテンを閉めて行ってしまった。
近くに保健室の先生がいるとはいえ、二人っきりにされたのと変わらない状況だ。
香穂が目の前にいる。死んだはずの友人がいる。それも自分が殺した友人がいる。奈那子は何も言えずにうつむきながら一点を見つめていた。
なぜ、死んだ人間が生き返ったのか?
もしかしたら死んでいなかったかもしれない。
夢なのかもしれない――どちらが?
これが夢なのか、あの出来事が夢だったのか?
混乱する奈那子はあのバッグを思い出した。自分のバッグはどう説明すればいいのだろうか?
香穂は『バッグ屋上に忘れて行ったでしょ』と確かに言っていた。
恐ろしさ何が何だか奈那子はわからなくなってしまった。だが、そのことについてすぐ近くにいる香穂には恐ろしくて何も聞くことができない。
香穂は『何事』もなかったように奈那子に話しかけて来た。
「今昼休みなんだけどね、ちょうどわたしが見に来た時に奈那子ちゃんが目を覚まして、いきなり叫ばれちゃったからビックリしたよぉ」
そんな長い時間、自分は気絶していたのかと奈那子は思ったが、香穂に返事を返すことはしなかった。香穂と口を聞くのが死ぬほど恐い。
「どうしたの奈那子ちゃん、身体が震えてるよ?」
震える奈那子に香穂が手を伸ばした瞬間、奈那子はその手を振り払って叫んだ。
「触らないで!」
「……ご、ごめん」
哀しそうな顔をする香穂であったが、そんな顔など見ようともせず、奈那子は冷たく言い放った。
「ひとりにして、もう少しここで休む」
「ごめんね奈那子ちゃん、気が利かなくて。また来るね」
泣きそうな声を出した香穂はそのまま行ってしまった。奈那子はもう来て欲しくないと思った。一生自分の前に現れて欲しくないというのが奈那子の正直な気持ちだ。
死んだ人間が何食わぬ顔をして自分の前に現れるなんて、奈那子には到底信じられないことだった。
奈那子の頭はだんだんと冷静さを取り戻して来た。香穂が屋上から落ちたのは絶対現実だったし、今も絶対に現実だ。では、なぜ香穂が生きているのか?
屋上から落ちた香穂は実は死んでいなかった。奈那子は実際に死体を確認したわけではない。だが、何かが地面に落ちた音は聴いた。
死んだ人間が生き返ったとしか考えられない。だが、そんなことが現実にあり得るのだろうか?
とにかく今言えることは、香穂が生きているということ。結局それだけしか奈那子にはわからなかった。
いつの間にか奈那子の心から香穂に対する恐怖心が消えていた。香穂は生きていて、いつもどおりの香穂だった。何も恐れることはない。
奈那子が考え事しているうちに時間がだいぶ過ぎてしまったらしく、いつの間にか放課後になっていた。
保健室の先生もどこに行ってしまった足音が聴こえたので、今は奈那子ひとりっきりで保健室にいる。
保健室のドアが開く音がした。足音は迷わず奈那子のベッドに近づいて来て、カーテンが開けられた。
奈那子は香穂が尋ねて来たのかと思ったが違った。尋ねて来たには秋葉愁斗だった。
「中嶋さん具合はどう?」
「う、うん、だいぶよくなった」
「いきなり教室で倒れたって聞いて心配だったんだ。それと、今朝のこともあるし」
今朝のこととは奈那子が秋葉を置き去りにして、いきなり走り出してしまったことを言っている。
「ごめんね秋葉くん……今朝のあたしはちょっとどうかしてたんだ、でも平気、もう元気になったから」
今の奈那子は無理せず笑うことができた。
秋葉はほっとした顔をして微笑んだ。
「大丈夫そうだね、その笑顔を見て安心した」
「うん」
好きな人に心配してもらって奈那子は本当に嬉しかった。このまま二人っきりの時間がいつもでも続けばいいのにと奈那子は思った。
秋葉は自分の髪の毛の後ろを触りながら少し口ごもった感じで言った。
「実はさ、篠原さんに言われて中嶋さんの様子を見に来たんだよね」
篠原香穂の名前が出て、奈那子の表情が少し曇った。どうして香穂が?
「篠原さんが『奈那子ちゃんは秋葉くんが顔を見せてあげるのが一番』だって言うから、それで来たんだ」
「あの、秋葉くん?」
「なに?」
秋葉にどうしても聞きたいことが奈那子にはあった。昨日、香穂に聞いた内容と同じことだ。
「あのね、秋葉くんが香穂と付き合ってるって聞いたんだけど、本当?」
「それ本当? あはは、そんな噂が流れてるんだ。どうりで今日のみんなの態度が違うと思ったよ。嘘だよそれ、僕は誰とも付き合ってないよ」
「本当に?」
「ああ、本当に。今は恋人募集中って感じかな?」
笑いながらも秋葉は困った表情をしていた。全く根も葉もない噂に少し困惑しているのだ。
奈那子は秋葉の言葉を全て信じた。彼の言うことなら何だって信じられる。それに彼が嘘をついているようには全く見えなかった。
「秋葉くん?」
顔を赤らめた奈那子は上目遣いで秋葉のことを見つめた。
「あのね、さっき……恋人募集中って言ってたでしょ? あたしじゃダメかなぁ?」
秋葉は肯定とも否定とも受け取れる微笑を浮かべて静かに言った。
「中嶋さんが僕のことが好きなのは知っていたし、篠原さんはことあるごとに僕と中嶋さんをくっ付けようとがんばってた。こないだの日曜日に篠原さんと偶然会った時もさ、君のことをずっと褒めてて、僕に君と付き合うように延々と言われたよ」
「そう……なんだ……」
酷い後悔が奈那子を襲った。まさか香穂がそんなに熱心に自分と秋葉のことをくっ付けようとしていたなんて夢にも思わなかった。
奈那子は勝手な思い込みで香穂を怨んでしまったことに気がついて悔やんだ。
大切で自分のこと想っていてくれた友人を殺してしまったことを奈那子は悔やんだ。自分は確かに香穂を殺した。どうして殺してしまったのだろうか。
だが、香穂は生きていた。理由はわからないが生きていた。
「僕は中嶋さんのことを――」
保健室のドアが開く音が聴こえ、香穂が保健室に飛び込んで来た。
「奈那子ちゃん、元気になった?」
香穂と秋葉の目が合った。そして、香穂は場の空気を読んで酷く慌てた。
「ご、ごめんお邪魔だったかなぁ、すぐ出て行くね」
「いや、僕が出て行く。じゃあね中島さん、また明日」
秋葉は返事をしないままに行ってしまった。だが、奈那子は秋葉がYESと言ってくれないことに気づいていた。あの表情を見ればわかる。
返事を聞く前に香穂が入って来てくれたことに奈那子は感謝した。そして、香穂が生きていたことにも感謝した。
「奈那子ちゃんごめ〜ん、せっかく二人っきりだったのに」
「いいのよ別に。帰ろうか?」
「うん!」
ベッドから起きた奈那子に香穂が奈那子のバッグを手渡した。
バッグを普通に受け取る奈那子。今度は気にもならなかった。もう、あの出来事は全部忘れてしまおうと奈那子は心で誓った。