CASE 06‐渦潮の唄‐(5)
愁斗の操る紫苑はすぐに鎌倉へは向かわず、茅ヶ崎を経由することにした。
龍神が現れた場所を確認するためだ。
事件の当事者は鎌倉にいるかもしれないが、龍神自体はまだ近くの海域に潜んでいるかもしれない、そう考えたのだ。
やはり予想通り、海岸の近くには報道陣が集まっていた。けれど、倒壊した建物や大津波のあった地域には立ち入りの規制が敷かれていた。この一帯を取り締まっているのは警察と自衛隊だ。
空を見上げれば自衛隊の大型ヘリが旋回している。
辺りは物々しい雰囲気で喧騒していた。
集まっている人だかりの中には、津波で行方不明になった人や、家財などを心配する人々が、自衛隊や警官ともめている姿もあった。
他にもただの野次馬や、怪物を見ようと集まって来た者もいる。
紫苑も周りに溶け込んだ格好をしている。目深に帽子を被りマフラーで口元を隠しているが、冬場ではそれほど気にならない格好だろう。けれど、人間離れした妖艶さは隠しきれなかった。
紫苑の目がある男で止まった。
ロングコートを着て葉巻を吹かしている若い男が、楽しそうに辺りの人々を観察していた。
紫苑が見ていることに気付いたのか、相手の男は軽く微笑んで姿を消そうとした。
直感が働いた紫苑はすぐさま男を追う。
人ごみに紛れてしまった男。
しかし、周りの人々とは違う気を放っている者がひとり混ざっている。
紫苑は人ごみを掻き分けて広い場所に出た。
遠くを颯爽と歩くロングコートの背中。
男は紫苑が見る視線の先で細い路地を曲がった。
紫苑は見失わないように追って、男の曲がった路地を曲がった。
すると男はビルの壁に寄りかかって葉巻を吹かせていた。
「僕になにか用かな?」
男は優しい顔で紫苑に尋ねた。
しかし、紫苑はその優しい顔の奥に潜む悪魔を見抜いていた。
「何者だ?」
「初対面で何者だとは、レディにしては不躾だねえ。貴女こそ何者なのか気になるね」
「……紫苑。貴様の発する気が常人でないと語っている。あの場所でなにをしていた?」
「人間ウォッチングさ。世紀の大事件が起き、人々がどんな反応をしているのか、生で見たくなってね、足を運んだわけだよ」
まだ正体の掴めない男に紫苑は鎌をかけることにした。
「D∴C∴」
その単語に男はより柔和な顔になった。
「ああ、君もそっちの世界の人間か。もっと君のことを知りたくなったよ。そうだね、これからデートでもどうかな?」
男はポケットから車のキーを出して、指先で摘んで揺らして見せた。
「断る」
「つれないヒトだ」
相手がD∴C∴である可能性が高い今、油断はできない。
仮にD∴C∴だとした場合、なぜこの場所にいるのか?
彪彦の話を信じるならば、今回の事件に関してD∴C∴の構成員が動いているらしい。
他の可能性を考えるなるば、追われる者。
龍封玉を盗んだD∴C∴の一派である可能性だ。
男はなにかを思い出して目を丸くした。
「そうだ、まだ自己紹介もしていなかった。自己紹介もしないでデートに誘うなんて失礼なことをしたね。僕の名前はシュバイツ、ファーストネームだよ。親しみを込めて名前を呼んでもらうためにファミリーネームは教えないよ」
シュバイツ――それはまさに後者。龍封玉を盗んだ一派の仲間だった。紫苑はその名を彪彦から聞いていた。
紫苑から漲る魔気を感じてシュバイツは一歩引いた。
「ヤダね、モテる男は命がいくらあっても足りない」
「龍封玉の在り処を教えてもらおう」
「なんだ、僕が誰だか完全にわかってるみたいだね。恋した女性が敵で命を狙われるなんて、まあ脚本としてはB級だけど現実に起こると面白い」
「たわ言はそこまでだ、龍封玉を渡せ」
「顔を隠しているけれど、きっと君は凄い美人だと確信してる。そんなレディにはプレゼントをあげたいところだけど、残念だけど龍封玉はゾーラって人が持ってるんだ」
「ならばそいつの場所まで案内してもらおう」
「それをすると僕が怒られる。代わりに僕のピアノ演奏で勘弁してくれないかな、これでもピアノには自信があるんだ」
「教えないなら吐かせるまでだ、ピアノを弾けない手にしてやる」
構えた紫苑の前でシュバイツが消えた。
「残念だけど、僕の拳は頑丈にできていてね」
声は紫苑の後ろからした。
振り向くと、道路に出て電柱にもたれるシュバイツの姿あった。
余裕なのかシュバイツは葉巻に火を点けていた。
「ピアノを弾くんだけど、僕は拳で戦うんだ。ピアノ奏者は指を大事にしなきゃいけないのは常識なんだけど、僕の拳は丈夫だからまあいいかなって。ボクシングもピアノも同じ手を使う仲間だろ?」
同じ手を使うにしても、シュバイツの言葉は常識はずれだ。
シュバイツが道路に出たことによって戦いづらくなった。
少し離れた通りには人々の集まりがある。
すぐそこを走る道路には車の往来もあった。
煙を吐いたシュバイツは戦う意志がないようにリラックスしていた。
「ここで戦うのは君にとっても不都合じゃないかな。特殊な能力を持った者が人前で戦える時代はまだ来ていないからね」
シュバイツはそう言ってから顎で車を示した。路上に止まっている車は高級車のジャガーだ。
「デートでもしようじゃないか、そして2人っきりになれる場所に行こう」
その提案に紫苑は乗らなかった。
常人の眼では限りなく不可視に近い妖糸が紫苑の手から放たれ、ジャガーのタイヤをパンクさせた。
車高が低くなる愛車をシュバイツは見ながら、おでこに軽く手を添えて首を横に振った。
「君ね、少しじゃじゃ馬だよ。せっかく場所を替えようって言ってるのに、どこでヤり合うに気なの?」
「一瞬で貴様を仕留め、姿を晦ませばいいことだ」
「なかなか大胆だね、君。好きだよそういう子。でもね、この場所は警官が多くて、自衛隊までいることをお忘れなく」
「そして、わたくしのような者がいることもお忘れなく」
第三の声がした。
シュバイツは驚いて紫苑から視線を外して、愛車のボンネットに腰掛ける男を確認した。続けざまに空を見上げて電線に停まる鴉を見つめた。
「影山彪彦さん……か」
シュバイツは嫌そうに呟いた。
彪彦はサングラスを直しながら、こんな話をした。
「そうですね、例えば鴉に襲われた不幸な人と言うのはどうですか?」
ひと目があっても人を殺す方法。
電線の上から鴉が鋭い眼でシュバイツを狙っている。
シュバイツはため息をついて両手をあげた。
「降参するよ。2人と1羽を巻くのは大変そうだし、影山さんがいるということは、他の奴等もうろちょろしてる可能性もあるからね」
他の奴等とはシュバイツらを探しているD∴C∴の構成員だ。
彪彦は通りの向こうに停めてある自分の車を指さした。
「ではわたくしの車にお乗りください。仲間の居場所まで案内してもらいます」
「男とデートだなんてツイてないね」
シュバイツは逃げることを本当にやめて歩きでした。
彪彦はシュバイツの横を歩きながら紫苑に声をかける。
「あなたも来ますか?」
「行かせてもらう」
3人は車に乗り込み、シュバイツを運転手にして車は走り出した。
とあるマンションまで車を走らせ、駐車場に車を停めてマンションの中に入った。
シュバイツの横に彪彦がぴったりと付き、少し離れた後ろを紫苑が歩く。
エレベーターを降りた瞬間から、なにやらざわめき立った声が聴こえていた。
廊下の向こう側に人だかりができている。
警官の制服が人ごみの中に見えた。
シュバイツは足を止めて彪彦に顔を向けた。
「たぶん人だかりができてる辺りの部屋かな。騒ぎを起こしたようだから、もう別の場所に移動したと思うね」
丸いサングラスの奥の瞳で彪彦はなにか言いたそうだ。それに気付いてシュバイツは言葉を付け加えた。
「僕はなにも知らなかったよ。だからここまで来たんだ」
「次の潜伏先に心当たりは?」
「ないね」
警官がいるこの場所に長いは無用だ。部屋の中を調べたいところだが、それは諦めて場所を移動するしかない。
駐車場まで戻って車に乗り込む。
車内で紫苑はシュバイツに尋ねた。
「例えばケータイとかに仲間からの連絡はないのか?」
「さあ、君たちに見張られててケータイも弄れなかったからね。しつこくバイブしてたけど無視してた」
彪彦は淡々と、
「そういうことは報告しなさい」
「年末は取締りが厳しいからね、運転中にケータイを使って取り締まられたら嫌だから。ほら、やっぱり公の場では警察のお世話にならないように気をつけないと、そんなところで別の犯罪が露呈したら嫌でしょう?」
紫苑が呟く。
「私の知り合いは運転中でも構わずケータイで通話するが、一回も取り締まられたことがない」
亜季菜のことだった。
シュバイツは口の近くで指を立てて『ノンノンノン』と横に振った。
「それはね、運がいいだけ。やっぱり念には念を入れるべきだよ。僕は自慢じゃないけどゴールド免許なんだ」
「そんな話はいいですから、早くケータイを確認しなさい」
と、彪彦に促されてシュバイツはポケットからケータイを出した。
「ああやっぱり、キラくん連絡が入ってるね。着信履歴だけじゃなくて、メールも来てるみたいだ」
メールを開いて、その画面をシュバイツは彪彦に見せた。
文面を読んだ彪彦は深く頷く。
「横浜方面に向かいましたか……シュバイツさん、なにかわたくしに隠していることはありませんか?」
「同じ組織の仲間だからね、なるべくいざこざはしたくない。嘘はつきたくないけど、教えたくもないね」
「嘘は普段から付くでしょう。そういうところが嘘つきだと言われるのですよ」
「嘘をついてるつもりはないんだけどね、口が先にしゃべってしまう。そういう病気だと思って勘弁してくれないかな?」
「おしゃべりはいいから、早く隠していること言いなさい」
彪彦に追求されてシュバイツは小さく唸った。
「ペラペラしゃべるとゾーラに怒られるんだよ。彼は力のある魔導士だけど、ユーモアに欠けるところがあるからね。ほら、いつだったか覚えているかい?」
「時間稼ぎはよしなさい。しゃべらないのならとりあえず車を走らせなさい。横浜に向かいましょう」
「それは階位の高い彪彦さんから、階位の低い僕への絶対命令ですか?」
「そういう気持ちがあるなら、隠していることも吐いたらどうですか?」
「まあまあ、横浜までは時間があるから、ゆっくり話してあげるよ」
エンジンを掛けてアクセルを踏む。
再びシュバイツの運転で車は走り出した。
鎌倉市から北上して横浜市に向かう。
シュバイツは運転をしながらラジオを掛けニュースを聴いた。ニュースの内容は茅ヶ崎の怪物騒ぎで持ちきりだ。
「茅ヶ崎に出る予定じゃなかったんだ」
と、何気なくシュバイツは言った。
助手席の彪彦が尋ねる。
「どういうことですか?」
「なかなか龍神サマが言うことを聞かなくてね、目的地とぜんぜん違う方向に行ったんだよ」
「当初の目的地はどこですか?」
「今向かってる方面だよ」
「やっぱり心当たりがあるのではありませんか。嘘を付きましたね?」
「嘘とかじゃなくて、ちょっと思いつかなかっただけさ……ああ着信だ、僕のポケットに手を突っ込んで取ってもらえますか?」
仕方なく彪彦はシュバイツのポケットからケータイを取ろうと、頭を低く瞬間に強烈な肘打ちを脳天に喰らわされた。
急ブレーキを踏んでシュバイツは車の外に飛び出した。
すぐに紫苑も追おうとしたが、後ろから衝突した車が車内が揺らして、後部座席から運転席に飛ばされてしまった。
紫苑はダッシュボードに頭を打ち付けて、倒れている彪彦に上に乗ってしまった。
その間にもシュバイツは行き交う車の間を縫って姿を消す。
上空を飛んでいた鴉がシュバイツを追う。
車内が再び揺れた。
後ろに衝突した車に、他の車が衝突したのだ。
見事な玉突き事故を起こして、辺りは騒然とした空気に包まれた。
彪彦は愁斗の潰されながら淡々としていた。
「早く退いてください」
「すまない」
紫苑は上体を起こして、足の付いていた後部座席に戻った。
続けて彪彦も起き上がって運転席に移動した。そして、車を走らせようとしたが、キーが抜かれていてエンジンすら掛けられなかった。
「ゴールド免許が聞いて呆れますね」
ぼやく彪彦を残して紫苑はすでに外に出ていた。
渋滞になってしまった車の間を抜けてシュバイツの行方を追う。
その後ろから彪彦が追いかけてきた。
「シュバイツさんは車を奪って逃げました。わたくしたちも新しい足を捜しましょう」
「まずはひとまずこの場から逃げよう」
「そうですね、シュバイツさんはわたくしの『本体』が追っていますから大丈夫です」
2人はこの場を一刻も離れようとした。
走って逃げる途中で紫苑が彪彦に話しかける。
「今、知り合いから連絡があった」
紫苑がどこかと連絡を取っている様子はなかった。
「ああ、愁斗さんの方にですね」
「龍封玉の本来の持ち主が敵に捕まったらしい」
「詳しくは存じ上げませんが、海に棲んでいる方だとか。龍封玉が盗まれたあとに、今さら捕まりましたか」
「龍封玉を探すために陸に上がってたんだ」
「なるほど、その辺りの情報はまったく知りませんでしたね。ですが、こういう情報なら知っていますよ」
彪彦はポケットからケータイを出した。それはシュバイツのケータイだった。
「車のキーは抜かれましたが、ケータイをわたくしから奪うのは忘れていたようですね」
丸いサングラスの下で彪彦の口がニヤリと笑った。