CASE 01‐紫怨‐(2)
よく眠れないまま夜が明けてしまった。
奈那子は目覚まし時計を見た。七時半を少し過ぎたくらいだ。
学校に行くべきかどうか奈那子迷った。できれば休みたい。しかし、昨日の今日で学校を休んでは自分が疑われるかもしれないし、香穂がどうなったのかも気になるし、周りの人々の反応も気になった。
気になることが多過ぎていても立ってもいられなくなった奈那子は、意を決してベッドから飛び起きた。
食卓についた奈那子は箸を持ったまま手を止めてしまった。いつもはちゃんと食べている朝食だが、今日ばかりは喉を通らない。
「やっぱり、いらない」
箸を置いて立ち上がった奈那子は自分の部屋に戻ってしまった。そんな奈那子を心配そうな顔をしている母親が止めようとしたが、母の声は奈那子には届かなかった。
自分の部屋に戻った奈那子は制服に着替えようとしたが、身体が妙に重くて着替えが億劫に思えた。
香穂はもう発見されたのだろうかと奈那子は考える。もし、発見されているのならば、学校は臨時休校になって自宅に緊急連絡網が回って来るに違いない。ということは、まだ香穂は発見されていないのかもしれない。
学校に行けば全てわかるだろう。そう思いながら奈那子通学用のバッグを探した。
「……あっ」
奈那子の顔が蒼ざめていく。バッグを屋上に置いて来てしまったのだ。
致命的としか言いようがない。壊された屋上のフェンス、その現場に残されていたバッグ、国語科教員の目撃証言。有りとあらゆるものが犯人は奈那子だと言っているようなものだ。
学校に行くべきか再び迷う奈那子。このままどこか遠くへ逃げてしまうのがいいのではないかと考えるが、未成年の自分が警察から逃げ回るなど無理な話だと思い首を横に振った。
奈那子はあることを思い出そうとした。犯罪を犯しても罪に問われない年齢があったような気がする。自分はどうなのだろうか?
時計は八時を少し過ぎている。もう学校に行かなくては遅刻してしまう。
吹っ切れた感じで奈那子は家を飛び出した。全てがどうでもよくなってしまい、自分自身の判断では何もわからなくなってしまった。
学校に向かう途中、横道に入ろうと何度も考えたが、それが何の意味になるのかがわからず、流されるままに歩いてしまった。
誰かが奈那子声をかけた。しかし、奈那子は気づかずに歩き続ける。
「中嶋さん、おはよう」
やはり奈那子は気づかずに歩いている。
前方に信号を見えて来た。
ぐぐっと奈那子は後ろに引っ張られ、その前を車が通り過ぎて行った。
「信号赤だよ、大丈夫? 今日の中嶋さん少し変だよ」
ここでやっとはっとした奈那子は自分の腕を掴んでいる人物を見た。
同じクラスの秋葉愁斗。奈那子の腕を掴んでいたのは彼だった。
「僕があいさつしてたの気づいてた?」
「あ、ごめん……ぜんぜん気づかなかった」
家からここまでの記憶が奈那子には曖昧で、気がついた時には学校近くの信号にいた始末だ。
「何かあったの?」
「ううん、別に何も……」
何もないわけがない。奈那子の脳裏に焼きついた香穂が恐怖に顔を歪ませた時のあの表情。
好きな人に偶然出逢えたというのに、奈那子はちっとも嬉しくなかった。むしろ、会いたくなかった。
奈那子は秋葉と話すのが怖かった。自分が香穂を殺したのには彼も絡んでいる。彼のせいで香穂を殺してしまったと言っても過言ではない。
目の前で自分のことを心配するひとにだけには、何があろうと奈那子は自分が香穂を殺したことを知られたくなかった。
「中嶋さん、本当に大丈夫?」
「うん、平気だよ、そんな顔しないでよ」
無理やり奈那子は笑顔を作ったが、その顔を見る秋葉の表情は曇っている。
吸い込まれてしまいそうな黒瞳を持つ秋葉愁斗。その妖しい魅力を持つ瞳の奥に、自分の姿を見た奈那子はすぐに顔を伏せてしまった。
「どうしたの?」
不思議そうな顔をする秋葉だが、奈那子は何かに怯え、顔を伏せたままだ。
「何でもないの、何でもない……」
急に奈那子は走り出した。
「待って中嶋さん!」
手を伸ばす秋葉に構わず、奈那子は逃げるように走った。
奈那子が気づいた時には、彼女は教室の前に立っていた。
いつものクラス――だが、今日は入るのが怖かった。いつもは香穂が自分よりも早く来ている。
奈那子は教室の中に入ると辺りを見回した。そして、いるはずのない香穂の姿を捜してみる。
教室を見渡していた奈那子は信じられぬ光景を目の当たりにした。
殺してしまったはずの香穂が何食わぬ顔で友達と楽しそうに話しているのだ。
奈那子に気がついた香穂はにっこりと笑い無言であいさつをした。
あり得ない光景を見て、奈那子は一瞬息をすることさえ忘れてしまった。
目を見開き、息を呑み込んで何も言えなくなった奈那子のもとへ、香穂がバックを持って近づいて来る。あのバッグは屋上に忘れたはずの奈那子のバッグだ。
「奈那子ちゃん、おっはよ! 昨日さあ、バッグ屋上に忘れて行ったでしょ」
屈託のないまぶしい香穂の笑顔を網膜に焼き付けながら、奈那子は恐怖のあまり声も出せないまま気を失って倒れてしまった。