CASE 05‐潮騒の唄‐(完)
伸彦の家に戻ってくると、海男はいつものように静かに本を読んでいた。
海男は部屋に入ってきた愁斗を一瞥して、鼻を利かせ小声で呟く。
「潮騒の香りがする」
海の近くの村だ。そこら中で潮騒の香りがしても不思議ではない。しかし、海男は続けてこう言った。
「懐かしい香りだ」
「わかるか?」
「んだ、母ちゃんの香りだ」
愁斗は思う。自分は母の香りを覚えているだろうか。思い出されるのは血の香り。
母親の死が強烈なイメージとして、良い思い出を覆い隠してしまう。
炎の熱さと、血の香りと、母の残した最期の笑顔。
全ては過去。
母との思い出は、もう創ることはできない。
愁斗は母のイメージを消し、海男に次げることにした。
「今、君の母に会って、君を守るように頼まれた」
説明不足の会話だったが、それで海男は理解して深く頷いた。人間ではない種族の血が混じっている子だ。直感的に物事を理解してしまうのかもしれない。
愁斗は畳の上の静かに座り、海男は本を読み続けた。
静かに時間だけが過ぎた。
時計の針を見た。
もうすぐ正午になる。
漁師を辞めた伸彦は村の小さな役場に勤めているらしい。
まだ二人っきりの時間は続きそうだ。
本を読んでいる海男は静かな時間を苦としない。愁斗もまた静かな時間を苦としていなかった。
数時間前の真珠姫との戦いで、愁斗は召喚に失敗した。
異形のモノを自在に操ること――それが闇傀儡師の真髄。
まだまだ自分が至らないことを深く反省する。
召喚もできなければ、〈闇〉の支配も完璧ではなく、歯向かう〈闇〉に呑まれかけた。
この世の物体を切る切糸も生身のままでは使えない。これでは半人前以下だ。せめて新しい傀儡を手に入れなければならない。
傀儡は傀儡師の右腕として動き、傀儡を使用することで技の能力も高められる。生身のままでは切れぬモノも、傀儡を操れば切れる。
師である父がいれば……。
なにかの音に気づき、愁斗はふと我に返って辺りを見回した。
雨の音だ。
大きな雨粒がトタン板を叩いている。
唄が聴こえた。
海男が急に立ち上がり、愁斗はやはりと思った。
「君を行かせるわけにはいかない。少し痛いけれど我慢してもらうよ」
愁斗の手が妖糸を放った。
身体を簀巻きにして絡みついた糸で海男は身動きを封じられた。
絶対に外に行かせてはならない。唄を使ってきたということは、まだ海男の居場所が定かではない証拠だ。
愁斗は残る手からも妖糸を放ち、両手の糸で海男を拘束した。
指先に力を込める愁斗の表情に焦りが走る。
海男は人間ではない。
愁斗の指先に妖糸が切れたことが伝わる。
「これ以上は無理か」
次の妖糸を放ってもすぐに切られることはわかっている。自分の力量は心得ている。ならば、今は海男を生かせるしかない。
家の外に出る海男を愁斗はすぐに追った。
海岸沿いの道路をゆらりゆらりと歩く海男の先に、灰色の影が立っていた――魚人だ。
魚人が奇声を上げると、どこからか魚人たちが集まってきた。その数、3匹。真珠姫の姿はない。
唄が聴こえた。
道路を降りた砂浜のほうだ。
真珠姫がいた。
波打ち際から唄を響かせながら砂浜を歩いてくる。それに誘われ海男も砂浜に向かって歩き出す。
無駄な抵抗と知りながら、愁斗の妖糸が海男の身体に巻きついた。先ほどよりも多く巻きつけたが、切られるものは時間の問題。それにすぐそこまで魚人たちが迫っている。愁斗は海男だけに構ってはいられなかった。
愁斗の手から離れた妖糸は、その力を極端に失い強度も落ちる。そのため、海男を簀巻きにしても、その糸の先は愁斗が握っていなくてはならないのだ。
迫る魚人。そこからは3匹の魚人。前方には砂浜を歩いてくる真珠姫。
絶体絶命か!?
唄が聴こえた。
優しく温かい歌声。
海男の動きがピタリと止まった。
いったいなにが?
愁斗は魚人たちが来る道路とは逆方向を振り返った。
美しい裸体の美女がそこには立っていた。
自らの足で唄いながら歩み寄ってくるのは、間違いなく瑠璃の姿だった。
瑠璃は海男が眠るように眼を閉じて、道路に倒れるのを見取り、唄うことをやめた。
「変化の秘薬を手に入れるのに時間がかかりましたが、やっと陸に上がることができました。海男の傍に付いていてくださり、ありがとうございました」
深く頭を垂れる瑠璃には人間の脚がたしかに生えていたのだ。
ハンデがひとつ減り、愁斗の武器がひとつ増えた。
輝線が宙を翔る。
迫ってくる3匹の魚人の首が続けざまに宙に舞う。
首から天に向かって血を吹き出しながら魚人は息絶え倒れた。
愁斗は静かに嗤った。その指先から放たれた妖糸は、海男の躰が操り妖糸を放っていたのだ。
仲間の魚人がやられたのを見て、真珠姫が奇声をあげて襲い掛かってきた。
「小僧の分際で、誇り高い真珠族をまたも許せぬぞ!」
愁斗は妖糸をすぐさま放とうとしたが、それを妨害するように瑠璃が背を向けて立っていた。
「この争いは私たちのものです。真珠姫との戦いは私が……」
瑠璃の手には矛が構えられていた。対する真珠姫は3つ又の槍を持っている。
手出しは無用。
愁斗は戦いを見守ることにした。
雨脚はこの場所で地団駄を踏み、過ぎ去る様子を見せなかった。
浜辺に打ち付ける波は大きくうねり、激しい潮騒を響かせる。
瑠璃と真珠姫の戦いは互いに一歩も引かない状況だった。
渾身の力で振るった瑠璃の矛を3つ又の槍が受ける。歯を食いしばった真珠姫の顔が醜く歪む。
愁斗が見る限り、瑠璃の方が少し上手に見える。しかし、その差は微々たるもので、すぐに覆りそうなものだった。
どちらが勝つかはわからない。
瑠璃が負ければ、次に真珠姫と戦うのは愁斗だ。
果たして今の自分に真珠姫と戦うだけの力量はあるか。
瑠璃の血によって腕の傷を治されたとき、心身も浄化された。先ほどまで安静にしていたことも相俟って、今なら〈闇〉が使えそうだった。ならば〈闇〉で真珠姫と戦うか?
問題は〈闇〉を真珠姫の精神のどちらが強いかだ。
真珠姫が大きく振るった槍が躱され、隙を衝いて瑠璃の矛が真珠姫の胸を突き刺した。
「惜しいな瑠璃姫」
矛を抜きながら真珠姫が後ろに飛んだ。胸から流れ出る血はすぐに止まり、傷痕もなかったように塞がっていく。
「胸の肉がなければ心玉を突かれて死んでおった」
艶やかに笑う真珠姫の顔に死を手前で免れた恐怖はない。命が助かったから笑っているのではなく、死など最初から恐れていないという風だ。
〈闇〉では勝てないかもしれない。
脅威の自然治癒能力を二人の戦いは決着まで時間がかかりそうだった。
しかし、真珠姫は奥の手を出してきたのだ。
「醜うての、この手は使いたくなかったのじゃが……」
真珠姫を包む七色の鱗が毛のように逆立ち、肉体が波打つように膨れ上がり、しなやかな曲線を誇る肉体が、筋骨隆々とした肉体へと変貌を遂げた。
角ばったエラから湯気を出し、金色の眼で真珠姫はギロリと瑠璃を睨みつけた。その表情に変身前の艶やかな色香はない。
「おぞましくて身震いするか、のお瑠璃よ?」
「その姿は貴女の心を映しているのですね」
「キェーッ! 戯けがッ!!」
奇声を発した真珠姫はがむしゃらに槍を振るった。
辛うじて瑠璃は槍を矛で受けるが、力押しされて後退りをしてしまっている。
愁斗はついでも妖糸を震えるように指先を動かしていた。
果たして今の真珠姫に二人掛かりでも勝てるかどうかわからない。
それでも愁斗は手を出さなかった。
瑠璃の矛が真珠姫の胸を捉えた。だが、真珠姫の動きは瑠璃を凌駕していたのだ。
矛は真珠姫の肩に突き刺さり身動きを封じられた。
「ぎゃッ!」
短い悲鳴と共に瑠璃の腕が地に落ちた。
肘からが消失した腕から鮮血が吹き出し、瑠璃は出血を手で押さえながら後ろに引いた。驚異的な治癒力も、腕を瞬時に生やすことはできないらしい。
落ちた腕は干物のように干からびて縮んでしまった。
肩に矛を突き刺しながら真珠姫は下卑た笑いを浮かべた。
「痛烈な痛みであっただろう。次は貴様の矛で心玉を砕いてやるぞよ」
肩に突き刺さる矛の柄に真珠姫が手をかけた刹那、泥水が沸騰するような音が木霊した。
「傀儡師の召喚に恐怖するがいい!」
背筋を凍らす強大な気配。
宙に描かれた紋様を真珠姫は驚愕の眼で見た。
〈それ〉の叫びが闇色の裂け目を狂わせ、この世に闇色の羽虫を解き放った。
群を成す大量の羽虫が奇怪な羽音を立てながら、真珠姫の肩の傷目掛けて飛んだ。
悲鳴とも叫びともつかない声をあげて、真珠姫は闇色の蟲に包まれながら地面を転がりまわった。
鋼の瞳で愁斗は諭すように呟いた。
「その蟲は闇蟲の一種。異形のモノの血が好きでね、行き過ぎて肉まで喰らってしまう」
闇蟲に全身を包まれ、叫びをも闇の中に呑みこまれて聴こえない。
骨まで溶かされ喰われれば、治癒力などないに等しい。
闇蟲の群から手首が放り出されて地面に落ちた。
もう決して真珠姫は助からまい。
真珠姫を包んでいた闇蟲の群が波立ち、その矛先を腕から血を流す瑠璃に向けようとしていた。しかし、それを愁斗が許すはずがない。
「還れ!」
愁斗が命じると、闇色の裂け目から〈闇〉が飛び出し、叫び声をあげながら闇蟲の群を全て呑み込み、跡形も残さず裂け目へと還っていった。
召喚は全て終わり、完成した。
脅威は全て去った。にも関わらず愁斗は殺気を感じ振り返った。
地面に落ちていた真珠姫の手首が宙に浮き、道路に横たわっていた海男の心臓に突き刺さった。
「海男!」
瑠璃の悲痛な叫びが木霊する。
すぐさま瑠璃は海男の身体を片腕で抱きかかえ膝に乗せ、突き刺さった真珠姫の手首を抜き取った。
「海男、海男!」
心臓が握りつぶされている。これでは瑠璃の血で癒すことはできない。それでも瑠璃は腕から流れる血を海男の胸の傷に擦り付けた。
「海男!」
閉じていた海男の瞼が痙攣したように微かに動いた。
「生き返って!」
母の願いが通じたのか、海男の眼が静かに開かれた。
「……母ちゃ……」
海男の首から力が抜け、海男は静かな永久の眠りについた。
瑠璃は声すら出なかった。
ただ一筋の涙が頬を伝い、それは小さな宝石となって地面に落ちた。
一部始終を見ていた愁斗の表情は読むことができなかった。鋼の表情を崩さぬ、無情の表情とも見て取れた。
海男の身体を静かに横に寝かし、瑠璃は零れた宝石を拾い上げ愁斗に差し出した。
「これを伸彦様にどうぞ渡してください。海男が死んだ今、この子の身体の中で眠っていた龍封玉は力を失いました。私は海男と一緒に海に帰ります」
瑠璃色の宝石が広げたてのひらに乗せられ、愁斗はそれを力いっぱい握り締め、海へ帰る親子の後姿を見送った。
どのくらい愁斗はそこに立っていたのか時間は定かではないが、強く降り続いていた雨は静かに振る涙雨に変わっていた。
「おーい!」
野太い声が愁斗を呼んでいる。
振り向くと伸彦が愁斗に駆け寄ってきていた。
「胸騒ぎがして飛んで帰ってきたんだ」
「そうですか」
愁斗は握り締めていた宝石を伸彦に渡した。
「瑠璃さんがこれをあなたに。海男は瑠璃さんと一緒に海に帰りました」
「……そうか」
涙でできた宝石を受け取った伸彦はなにを思ったのか?
しばらく無言だった伸彦が愁斗に背を向けた。
「そうか、海男のやつ俺よりも母ちゃんと一緒に暮らせて幸せだろうよ」
むせび泣く声が荒波の音に呑まれて消えた。




