CASE 05‐潮騒の唄‐(2)
家に帰ってきた伸彦たちは海男をすぐ横の寝室に寝かせ、愁斗も海男の服を借りて濡れた服を着替えた。
――それからだいぶ時間が過ぎた。
その間、愁斗は伸彦になにも聞こうとしなかった。不可解な事件に巻き込まれたというのに、伸彦になにも尋ねようとしないのだ。
伸彦も聞かれても答える気がなかった――答えられる勇気がなかった。しかし、愁斗がなにも尋ねないために、伸彦は尋ねてしまったのだ。
「どうしてなにも聞かない?」
「あなたに話す気がないのならば、僕は聞きません。関わるなというのなら、もう関わりません。忘れろというのなら忘れます」
「いや話す。おまえにだったら話していいような気がするんだ」
「なぜ?」
聞き返す表情はいつものそれとは違い、年相応の顔つきをしていた。
その顔を見た伸彦の方から力が急速に抜けた。
「よかった。おまえは俺達に近いんだな」
伸彦の言葉を聞いた愁斗は急に小難しい顔をして押し黙ってしまった。
慌てた伸彦が取り直そうとする。
「悪かった、そんな気で言ったんじゃないんだ」
「やはりあなたにはわかりますか、僕や海男君が少し人間とは違う存在だということが?」
今度は伸彦が押し黙る番だった。
やはり愁斗は海男が普通の人間とは違うことに気づいているのだ普通の人間と違う――そんなことは海男を知る村人たちも知ってる。けれど村人達は変わり者程度にしか海男を見ていない。愁斗は海男の奥に潜んでいるモノを感じ取っているのだ。
10年ほど前まで、伸彦は海の男として漁船の船長をしていた。村では勇敢で逞しい海の男と言われ、誰からも尊敬される存在だった。そんな伸彦の息子が海男だ。
細身で病弱な顔色をした海男が伸彦の息子だと、誰もが信じていなかった。きっと母親が別の男と寝て作った子供だという悪い噂まであった。そんな悪女だから、子供と伸彦を置いて逃げてしまったんだと、そんな噂が広がったこともあった。
噂話は全部、伸彦の耳に届いている。直接に聞かなくても、小さな漁村では嫌でも耳に入ってしまう。
「とにかく俺の話を聞いてくれ」
伸彦は愁斗に重い口を開いた。愁斗はなにも反応しなかったが、伸彦はそれを承諾したと受け取り話をはじめた。
「10年以上前、俺は漁師をやっていた。そうだな、今日みたいな嵐の日だったんだ――」
その日の天候は小雨。普段ならば海などには絶対に出ない。浅瀬は波が低くても、小雨とはいえ沖に出ると波は高く、海は荒れている。それに風も強く、漁師の勘が嵐を予感していた。
それにも関わらず、伸彦はその日、海に出てしまったのだ。今思えばなにかに操られていたようにも思える。
身寄りのない伸彦を止めるものは居らず、仲間の漁師達も伸彦が海に出たことをあとになって気づいた。
沖はやはり荒れていた。
曇天色をした海。
波が普段よりも高く、船が大きく揺られた。
唄が聴こえた。
このときやっと伸彦は自分のしている過ちに気づいたのだ。
急いで船を引き返そうとしたがもう遅かった。
雷鳴が轟き、天から大粒の雨が降ってきた。
波が荒れ狂い、大きく揺れる船の上で、伸彦は必死になって帆柱に抱きついた。
聴いてはいけない唄。
海に棲む美しい魔物の伝説。
魔物の唄は嵐を呼び、船を沈める
どんなに泳ぎの上手い者でも、嵐の海に飛び込めば命の保障などない。荒波に揉まれ海の藻屑と化す。遺体すら発見されずに海の底で眠ることになるだろう。
嵐の中だというのに澄んだ女性の歌声が耳に届く。いや、耳で聞いているのではない。脳が直接――精神に直接響いている。
船が大きく傾き、波の上で立ち上がった。そこに大波が襲い被さり、船を丸呑みしてしまったのだ。小さな漁船などひとたまりもない。
荒れる海の中へ放り込まれた伸彦は必死にもがいた。もがけばもがくほど、海深く身体が沈んでいく。それでもなにもしないわけにもいられず、海面を目指そうとしたが、片足が思うように動かない。
見ると脚からは血が流れ、刺すような痛みに気づいた。甲板から投げ出されたとき、なにかで脚を切ってしまったようだ。
痛みなど気にしている場合ではなく、伸彦は必死に生きようとした。しかし、駄目だった。どんどん海面が遠ざかっていくのがわかった。
そして、伸彦は生きることをあきらめた。
全身の力を抜き、意識が深い海の中に沈んでいく。
唄が聴こえた。
女性の美しい歌声。そこにはなんの恐怖もない。慈しみに溢れた唄だった。
天に召されるにはちょうどいいと伸彦は思い、そのまま意識が途切れた。
それからのことはよくわからないが、伸彦が目を覚ますとベッドの上に寝かされていたのだ。
どこだかはすぐにわかった。村の小さな診察所だ。
しかし、どうやって自分は助かった?
浜からは距離があったはずだ。万が一、打ち上げられたとしても屍体となってだろう。それなのに自分は生きている。
脚を見ると大きな古傷が目に入った。動かしてみようとしたが、思うように動いてくれない。あのときの怪我に間違いないが、痛みはもうないようだ。
「俺はどうしたんだ……」
永い眠りにでもついていたのだろうか。
生死を彷徨いながら、あの事故から長い時間が経過してしまった。そう伸彦は考えたのだ。
仕切りになっていた白いカーテンをめくり、白衣を来た老人が顔を見せた。
「よかった一生目を覚まさんかと思ったぞ」
それは見覚えのある顔だった。診察所の医師だ。もとより老人であったが、記憶と老けた印象はない。
「3日も眠り続けておったからな」
「なんだって?」
伸彦は思わず聞き返してしまった。思っていたよりも短い。たった3日で脚の傷が塞がったというのか?
言い知れない恐怖が伸彦を襲った。自分になにがあったのかわからない。海で自分になにがあった?
やはりあの唄と関係があるのだろう。そうとしか考えられない。
海で唄を聴いたことを伸彦は誰にも言うまいと誓った。海でなにがあったのかと訊かれても、ただ嵐に巻きこまれたとだけ話をした。
それからというもの、伸彦は海に出なくなった。誰もそれを悪く言うものはいなかった。海に死にかけたとなれば、あの勇敢な伸彦と言えど海が怖くなったのだろうと、同情すらする者もいた。
しかし、伸彦は海が怖くなったのではない。あの唄が怖いのだ。決して恐ろしい歌声ではなかったが、あの唄には恐ろしい魔力があると伸彦は確信していた。
しばらくはなにもなかった。
平穏な日々が続き、海での出来事を忘れようと伸彦も努めていた。そんなとき、この小さな漁村に流れ者がやって来たのだ。流れ者は女性だった。
女性は誰の目にも美しく垢抜けていた。しかし、都会からやって来たようにも見えない。自然が作り出したような美しさを兼ね備えていたのだ。
こんな女性がひとりでこんな辺鄙な場所にどうしてと、誰もが思いはしたが、こんな場所に来るには深い事情があるのだろうと、深く詮索する者は誰もいなかった。
民宿すらないこの場所で、女性の泊まる場所などなく、村人達も女性と少し距離を置いていた。よそ者と関わりになることを避けていたのだ。
そんな中、ただひとりだけ女性に優しく接する者がいた。それが伸彦だったのだ。
男ひとりの家だと言ったが、女性は疑うことなく喜んで伸彦の家に止めてもらうことになり、いつの間にか、長く逗留することになっていた。
女性の名は瑠璃とだけ名乗り、それ以外のことは話そうとせず、伸彦も過去にはこだわらなかった。
いつしか村人達も瑠璃に心を開くようになり、まるで昔からの顔なじみのように接してくれた。その要因は伸彦と瑠璃が愛を育んだことも大きいかもしれない。
瑠璃は伸彦との間に男の子をもうけた。それが海男だ。
どんな母親よりも瑠璃はしっかりしていると伸彦は思っていた。家事をそつなくこなし、性格も良く、おだらかな人柄をしていた。
しかし、伸彦にはひとつだけ気になることあったのだ。
瑠璃はたまに鼻歌を口ずさむことがあり、その唄を口ずさむと必ずといっていいほど雨が降るのだ。ただ、そのときはその唄のこと気にも止めずにいた。忘れていたのだ。
あるときは、出かけてきますと瑠璃が言い残した後に、嵐が来たこともあった。伸彦は心配したが、嵐が治まった頃に瑠璃は何事もなかったように帰ってきた。
そんなことが続き、忘れていた記憶を伸彦が取り戻すのは時間の問題だった。
瑠璃の鼻歌が、嵐の海で聴いたあの唄だと気づいたときにはぞっとした。それでも伸彦は瑠璃になにも言わずにいたのは、それほどまでに瑠璃に惚れ込んでいたからだ。
それでも伸彦の瑠璃を見る目は自然と変わり、態度には出なくとも瑠璃を恐れていたことは間違いない。それは瑠璃にも伝わってしまっていたに違いないと、今になって伸彦は思う。
ちょうど海男が5つになったころ、事件は起きたのだ。
すでにそのころには、大きくなった海男を見て、周りが変な反応をするようになっていた。伸彦と海男を見比べて、本当に血が繋がっているのかと疑う者が現れたのだ。
噂が大きくなりはじめ、瑠璃がある日、突然に姿を消したのだ。
伸彦には出かけて来ますとだけ言い残し――。
その日も小さな漁村を嵐が襲った。
波は激しく荒れ狂い、港に停泊していた船を何隻も呑み込み、碇を沈めてあった船までも沖へ流されしまった。
そんな嵐の中、伸彦は唄を聴いたのだ。
女性の美しい歌声だった。それは悲しい歌声だった。泣いていような歌声だった。
「それからはなにもない」
と、伸彦は話を締めた。
長い話を終え、伸彦はどっと肩を降ろした。
外の嵐は徐々に静まりを見せている。
風は弱まり、雨音も微かに聴こえるまでになっていた。
愁斗はなにも口を挟まず伸彦の話を聴いていたが、疑問はある。
では、今になってなぜ?
伸彦は深く息を吐いた。
「なにもなかったんだ、最近まではな」
「なにがあったんですか?」
「海男が唄うようになったんだ」
嵐を呼ぶ潮騒の唄。