【三題噺】お題:天使、眼鏡、チョコレート
私の学校には、"天使" がいる。
七不思議並みの噂話に過ぎないけど、去年に卒業した私のお姉ちゃんは、言っていた。
「私ね、会った事ある。三人の天使に。一人は素晴らしい天使だった。二人目は、まぁ……頑張ってたと思う。もう一人は、すっごい未熟者。」
いつも冗談ばかり言うお姉ちゃんだけれど、その時の微笑み方は、それが真実であると物語っていた。
私も会いたい、今もいるの、と言ったら、お姉ちゃんは笑った。
「いるだろうね。あの子が拗ねてなかったら。」
話を聞いた翌日の放課後、部活の時間。私はお姉ちゃんから聞いた、天使のいるはずの場所へ向かった。
鍵が掛かっていて開かない屋上への、西側に位置する登り階段。
そこに、天使はいる。
確かにどの先輩に尋ねても、東側は人の出入りがあるが、西側は誰も立ち寄らないと、皆口を揃えて言っていた。
窓から差し込む琥珀色の光を受けて、天使はそこへ座っていた。何をするわけでもなく、ただ、そこに。
光に照らされ埃が舞うのが見える。
それでも、美しい。
私は これまで見たどんな夜景よりも、どんなイルミネーションよりも、どんな絵画よりも、美しい光景を、目の当たりにしていた。
天使は、窓の外を眺めたまま、動かない。
「……どなたですか。」
高鳴る鼓動に声が上擦る。
黒い髪がふっと揺れ、天使は私の目を見つめた。
私も、遠くがぼやける視界の中で、必死に "彼" を見つめた。
物語でよくある、吸い込まれる瞳 と言うよりかは、どこか立ち入ってはいけないような、反発的な力を有した瞳だった。
無表情に結ばれた唇が、小さく動き、零れる音が空気と、鼓膜を震わす。
「……天使。」
この学校の男物の制服、胸には 三年生である事を証明する青色のネクタイ。
黒いフレームの眼鏡をかけた、1つ上の先輩は、神の宣告を下した。
「…昨年卒業した、波蔵 琴音をご存知ですか。」
「知ってる。……髪の長い、校則違反のペンダントを身に付けた、いつも笑っている、女。」
姉を知っている。いつもペンダントを大切にしていた事も知っている。
間違いない、この人だった。
私が黙って突っ立っていると、しばらくして彼は、はなから私がいなかったかのように、再び窓の外に視線を戻す。
「……天使様ですのに、翼はないんですか?」
「天使が誰も彼も、あんなかさばって面倒な代物、いつだってぶら下げてると思ってたのか。」
やっとの事で口を開いた私に、随分と乱暴な物言いの天使だった。
「あの、直近でですけど、拗ねてた事って、あります…?」
「なんで。」
「あ、姉が……あの子は拗ねてなければここにいると…言ってたもんですから。」
天使は再び、人を寄せ付けない瞳を向けて来る。
「余計なお世話だと言っておけ。」
「……はあ。」
「用が無いなら早く帰れ。邪魔。」
心にぐさっとくる一言を受け、唐突に脳裏によぎった疑問。
口に出すべきか否か 逡巡したが、やはり本人のためにも言っておくべきだと思い、私は先輩相手に心を鬼にした。
「天使様って友達いませんよね?」
天使は首をがくんっとさせた。
「はっ!?ちょっ、て、天使様とか言ってるくせに何言って」
「いや、私が天使様って呼ぶのと、あなたが友達いなくてぼっちだっていうのは別なんで。」
「ぼっちっていうんじゃねぇよ悲しいから。っていうか、そんな事言うために残ってんだったら本当に帰れ!」
「親切心で言ってますのに……」
「そんなのいらねぇから…早く帰れよ。」
「私、天使様の友達になります。」
何の脈絡もなかったのだが、何故か私は、そうするべきだという謎の使命感にかられ、思い付いた後、実際そうしたいと強く思った。
天使は開きかけた口を噤み、目を見開き、私を見、瞬きを三回ゆっくりとし、息を詰まらせた。
拒否反応でも起こしているのかと思ったが、きょろきょろと挙動不審に双眸を泳がせるのを見て、ただどうすればいいか分からないだけだな、と悟った。
「……毎日、ここ来ますから。」
助太刀のように付け足すと、素直ではない天使は、
「…来たって、つまんないぞ。」
「つまるつまらないで友達決めないんで。」
「勝手にしろ。」
天使は、素っ気ないふりをしながらも、結局 登校した日にはいつも、西側の屋上行き階段に座っていた。
ぼうっと外を眺める彼に気付かれないように、そっと階段を登り、陰からその姿を見つめるのが好きになった。
天使に降りかかる夕日は、透き通った蜂蜜を垂らしたように美しくて、後ろ姿は、とてもじゃないが いつも人を貶してくる人間には見えなかった。
「屋上って、冬場は凄く寒いんですね。外から隙間風が入るからかな。」
ある日、すっかり定位置となった天使の隣で、私がそう言えば、
「なら、もう来なければいいだろ。」
意地悪に私が、
「そうしたら天使様、寂しいでしょう。」
天使は無言を貫き通した。
可愛い人だなと思った。寒いけど、暖かい。
「天使様、来週何の日か、知ってます?」
「悪いが天使は下等生物の下賤なイベントなど興味ないからな。知らない。」
「下賤なイベントって言ってる時点で知ってますよね。バレンタイン、どうせ天使様、誰からも貰ったことないでしょ。」
「ある。」
「嘘っ?」
「……人違いだったが。」
「……あぁ、はぁ。」
嘘のつけない、正直な人だった。
「仕方ないから、私が何かあげますよ。」
「…何かって何だ。普通、チョコとかじゃないのか?」
「あー、天使様、もしかして引っ越して来たりした?ここら辺の学校じゃ、チョコ嫌いな人も最近多いから、相手の好きな物とかをあげるんだよ。」
得意げに語ると、天使は少し複雑そうな面持ちをした。
「……物は駄目だ。残るから。」
「…残ると、何がダメなんですか?」
「未練が残る。」
「何に?」
「…残って見ないと、それは分からない。」
それ以上は答えたくなさそうだったので、気の利く私は、咄嗟に空気を変える質問をした。
「じゃあ、食べ物にしましょう。天使様は、チョコレート、お好きですか?」
「嫌いではない。」
「……実は大好きなんでしょう?」
「……何でわかった。」
「素直じゃない時、天使様は指をいじり出すから。ここ一ヶ月でわかりました。」
無言で両手ほどき膝の上に乗せる天使は、天使と言うより、小学生だった。
だがしかし、純粋さで言えば、確かに天使であった。
「あはっ、天使様の秘密、一個ゲットしちゃいましたね。」
天使は少しムッとして私を睨んで、
「お前の秘密も知ってるぞ。」
「……え、なんですか?」
天使は少し視線を彷徨わせた。
「…いや、いい。今度にする。」
「あ、ないんでしょう?」
「うるさいな。」
そう吐き捨ててまた、そっぽを向く。
「力入れますから、楽しみにしてて下さいね。」
「……あ、そ。」
翌週になって、親や友達にあげるのよりも、少し豪華なチョコレートを、綺麗な包装紙に包んで、私はいつもの場所へ向かった。
この頃になると私は、いつもの習慣で、意識せずとも、音を立てずに階段を上れるようになっていた。
そのせいか、私が陰から覗いていることに、階段の上方にいた "二人" は、気付かなかった。
「あの……友達に、いつも、ここにいるって聞いて。前に体育祭で先輩のこと見て、ああ、この人がいっつも友達の話してくれる人かぁって、思って…」
天使ということは伏せているが、私の天使の話をいつも笑って聞いてくれる、友人の声だった。
「よかったら、チョコ、貰ってくれますか…?あの、お好きだと聞いたので…」
天使の声は、聞こえない。
きっと初めての状況に動揺して、静寂しているのだろう。外見ではすましているように見えるだろうが、内心では冷や汗だらだらのはずだ。いつもそうなのだから。
…いつも、そうだった。
「…本気で、先輩のこと、好きです。」
「……ごめん。……君のこと、知らないし……本気で考えてくれる人と、適当に付き合うとかは、したくないから。」
私は上った時の逆再生のように階段を下りて、唇を噛み締めた友人がその場から走り去るのを、少し遠くから見届けた。
言い知れぬ感情が軽く胸を締め付けて、気持ち悪さに、その日は黙って帰宅した。
「……昨日は、勝手に帰っちゃって、すいませんでした。」
隣には座らず、真正面に立ち、軽く頭をさげる。
天使は、初めて会った頃の様に、私に微塵も興味がないといった風体で、外を眺めていた。
「……チョコレート、一日越しですけど、どうぞ。」
視線だけをこちらに流し、天使は適当に包みを受け取った。それだけの事が、妙に心に刺さった。
何も言わずに突っ立っていると、か細い声が、微かに聞こえた。
「………毎日来ると、言ったのに。」
今度は、軽く締め付けられる程度では収まらなかった。途轍もなく痛い。涙が出そうなくらいに。
震える唇を、昨日の友人と同じ様に噛み締め、やっとの事で声に出す。
「……行くに行けない状況だったので。」
天使は察した。
「…あの子、お前の友人か。」
「……はい。」
「…話を、してたのか。あの子に。」
「……はい。」
しゅっとリボンがほどける音。
かさかさと包みに手が入れられる音。
天使の形の型抜きで作ったチョコレートを、天使が指に掴んでいる。髪にかかる蜂蜜は、相変わらず美しい。
「…昨日のチョコレートは、美味かった。」
塩辛い水を溜め込んだダムが、崩壊する。
「……そうですか。」
声が、震えて、情けなくて、もっと震える。悪循環だ。
「…このチョコは、もっと美味い。友人には悪いが。」
一瞬前と違う、胸の締め付けが、私の心臓を襲う。
嗚咽を堪え、必死で平常心を保った。
「……お口に合ったなら、よかったです。」
「…ああ。……ありがとう。来月は期待していてくれ。」
まるで幻想小説のワンシーンのように、天使が初めて微笑んだ光景を、私は脳裏に焼き付けた。
けれど、どんなに美しくても、天使の言ってくれた事が素晴らしくても、私は笑顔になれなかった。
だって来月は、ホワイトデーであり、卒業式であったから。
天使との最後の逢瀬の日。
蜂蜜は一層 透明度と濃さを増して、真っ黒な髪も金に溶けていて、天使はいよいよ天使に見えた。
その日、天使は階段の一番上で立っていて、けれど初めの日のようにじっと、外を眺めていた。
「なんで、外を眺めてるんですか。」
隣に立って、私は尋ねた。
天使は、微笑むまではいかないけれど、最も大切そうに、目を細めていた。
「ここから見える歩道を、夕暮れ時に必ず、琴音が通るんだ。」
つられて私も目を細めた。ちょうど帰路についていたお姉ちゃんが、こちらに向けて手を振ったから。
「…琴音もずっと、ここでこうして、前に天使だったやつを眺めていた。」
そうか。だから "天使である彼" は、入学してからまだ三年しか経っていないのに、"天使" の噂は何年も前から語り継がれているのか。
「…去年。琴音もこうして、最後の日に最後の話をした。チョコのお返しも、ここでした。」
天使は私の目を見つめた。
私も天使の目を見つめた。もう反発的な気はしない。吸い込まれそうなわけでもない。瞳の、その向こうの純粋を、蜂蜜のベールを隔てて見つめた。
この上なく心地良い静寂だった。
「目、閉じて。心配するな、典型的な事はしないから。」
別にしてもいいのに、と思ったが、決心した天使の心を揺さぶりたくはない。
私は黙って、目を閉じた。
眉間の下、鼻の上あたりに、何かが乗せられる感覚。
「いいよ。」
瞼をそっと開く。
数十秒前とは全く違う世界が、そこには広がっていた。ぼやけていた景色の全てに、くっきりとした線が引かれ、輪郭が描かれている。
黒い眼鏡をかけた奥の、繊細な瞳に、眼鏡をかけた少女が写っているのまで、よく見える。
「秘密知ってるって、言ったろ。かなり目 悪いのに、眼鏡かけると暗いやつに見えるから、嫌だったんだってな。」
件の友人から聞いた、と、天使は付け加えた。
天使は本当に、私の秘密を知っていたのだ。
唖然として、眼鏡を何度も付けたり外したりして、私はやっと、言葉を発した。
「でも、こんな、ぴったしなの、どうやって……」
「琴音に頼んで、少し前に眼鏡屋で視力を測った時のデータで作ってもらった。」
天使は不器用に微笑んで、自分より頭一つ分低い位置にある私の頭を乱暴に撫でる。
そして二度目の神の宣告を、下した。
「じゃあな、葵。」
階段を下る "前まで天使だった彼" を、じっと、見送る。
ダムは崩壊しない。
だが、ほろほろと、少しづつ、確実に、中身をこぼし続けた。
家に帰ると、お姉ちゃんは私の眼鏡をかけた姿を見て、心底から微笑んだ。
「どうだった?すっごい未熟な天使は。」
「もう一人前の、立派な天使様だったよ。」
お姉ちゃんは、今もまだ首にかかっているペンダントに手をやった。
「私の "天使" が、私が "天使" になる前にくれたのが、これ。」
私は眼鏡に授かった恩恵を存分に使用して、改めてよくペンダントを観察した。
どうやらロケットペンダントのようだ。中に何が入っているか、聞くのは野暮というものなので、私は別の質問をする。
「お姉ちゃんは、今 鏡の中にいる天使を、どう思う?」
「んー……ま、頑張ってると思うよ。可愛い後輩と、可愛い妹のために、眼鏡作りに行ったりね。」
あんたはどう、と、お姉ちゃんは言った。
「誰かの "天使" に、なれそう?」
眼鏡に手をやる。
まだ "彼" の熱が残っている気がした。
だから、自信を持って言える。
「もちろん。」
そして新学期、放課後、私は西側の屋上へ続く階段に座る。
夕暮れ時の、春の日差しが暖かい。
そして、階段を上がる音を、わざと気にせずに、外を眺め続ける。
歩道を歩く、くっきりとした区切りの線を持つ "彼" と、眼鏡越しに視線を合わせ、手を振った。
天使達はみんな、天使に恋をして、誰かの天使になって、その相手に恋をして、相手を天使に変えて去る。
とても素敵で、幸せで、健全で、純粋なことだと思う。
階段を上がる音に、聞こえないふりをし、しばらく私は無視することを決め込んだ。
全身に蜂蜜を浴びて、今正に現れそうな、その相手を待つ。
誰かの "天使" に、なる為に。