終わり――エピローグ――
病院のロビーの前で、僕は名前を呼ばれ振り向いた。
薄い口髭とくたびれたグレーのスーツを着た初老の男性、甲本警部が人のいい笑みを浮かべてきた。
「やあ冬弥くん。お見舞いかね?」
僕らは患者やせわしなく動き回るナースを避け、隅のソファーに座った。
「どうもその節は。ありがとうございました」
心から感謝を込めて、僕は頭を下げた。
「しかし、あの傷でよく助かったものだね」
長年刑事を続けてきた経験からか、甲本警部が眼を細めて言う。
「大事な臓器とかは避けてたんでしょうね。あと警部の対応が早かったから」
「もう少しでも遅かったら、本当に大変なことになってたかもしれんね」
「そうですね。もう峠は越えたようですけど」
あの時、甲本警部によって佐奈は助け出され、緊急病院へと搬送された。非常に危ない容態だったが、奇跡的に一命は取り留めたのだった。警部は初めて会った時からずっと僕を尾行していたらしい。僕が別荘に入った時も、張り込みをしていたそうだ。
「これからどうなるんです? 佐奈は」
甲本警部は一瞬眉を潜めたが、すぐに笑って、
「そんなに大事にならないようにできそうだ。家族間で解決しているようだし、保護観察処分でしばらくの自由は制限されるだろうがね」
「そうですか……よかった」
強張っていた緊張が一気にほぐれた気がした。
そしてもうひとつ、聞きたいことがある。
「あの、甲本警部」
「なんだい?」
「僕は、どうやら父の本当の子供ではないそうなんです」
警部は一瞬驚いた表情を見せた。そしてすぐ心配そうに、
「ほう、それは大変だね。では今のお父さんは義理の父親ということになるのかな?」
「ええ。ですが、本当のお父さんはどこにいるんでしょうね」
僕はそう言って甲本警部を見た。線の細い柔和な面持ち。この人は僕に似ている。
きっと――――きっと僕の父さんがまだ生きていたら、こんな顔をしているのだろう。甲本警部は他の捜査でも忙しいはずなのに、ずっと僕のことを見張り続けていた。それは刑事の職務というよりも、心配する我が子をほっとけなかったように思える。
全ては憶測に過ぎないし、僕も真実を聞く気はないが。
知らないほうが良かったこともある。この数日で僕が学んだことだった。
「それじゃあ僕は行きます。色々とお世話になりました」
「そう、かね。何か困ったことがあったら、いつでも言うんだよ」
「ありがとうございます。ほんとうに」
僕が一礼するのを見送ると、警部は出口のほうへと歩いていった。
父か。僕もいつかは父親になるんだ。そうしたらどんなに仕事が忙しくても、ちゃんとかまってあげられる父親になろう。それが何年後になるのかは分からないが、少なくともその決意だけは忘れないようにしたい。
エレベーターを上がり、三階の病室の前に立つ。
軽くノックをしてから中に入る。
窓は開いていて、桜の花弁が淡雪のように舞っているのが見えた。
その端のベッドに佐奈は寝ていた。
僕が入ってくるのを見ると、元気よく飛び跳ねて、
「お兄様! 来てくださったんですね!」
本当に怪我人なのかと疑いたくなるほどに快活な声を発した。
「そんなの当たり前じゃないか」
僕がそう言うと、佐奈は心外だというふうに頬を膨らませた。
「お兄様がいない時間は苦痛で苦痛で仕方ありませんわ。もう毎日お見舞いに来てくださいね」
「それは。今年受験もあるんだから。今まで遅れた分取り戻さないと」
「むうー……」
佐奈がぷいっと横を向いてしまった。どうやら怒らせてしまったかな?
「真たちも、近々お見舞いに来るって言ってたよ」
「…………そうですか」
「なにそのテンションの急降下は!」
相変わらず僕一筋の子だ。
その愛情を他の人にも分けてあげたらどうだ、と半分思う。
もう半分は――――やっぱり僕だけを好きでいてくれて嬉しいから。
「お茶でも入れるから大人しく寝てて」
「ああ、ありがとうございます。お兄様にお世話を見て頂けるなんて、幸せの極みですわね」
「大げさだね。それより、その……傷は?」
「ああ」
そう言って佐奈は病衣をためらいもなくめくり上げ、胸元を見せた。
胸部が外側から内側まで痛々しく縫い目がつけられてある。これでも綺麗に縫合できたらしいが、結局佐奈の美しい体に醜い傷跡が残ってしまった。
「傷……残っちゃったね」
「ええ。でも私は、この傷を誇りに思っています」
傷跡に優しく触れながら、佐奈は言った。
一生消えることはないであろう傷。僕のと一緒だ。それが佐奈にとっては嬉しいのだろうか。だが、体の傷は癒えなくても、心の傷は回復できるはずだ。
そう、佐奈といれば。
お茶と佐奈の好きな和菓子を用意し、僕らはしばらく一息ついた。
そこで急に佐奈が、
「そういえば、さきほど刑事さんがみえましたわ」
「甲本警部?」
おそらく調書でもとっていたのだろう。
さっき会ったよと伝えると、佐奈はまあ、と頷いた。
「あの方なんだかお兄様に似ていますわね。私にも色々よくしてくだいましたし。今度会ったらあらためてお礼を言いたいですわね」
似ている、か。佐奈が言うならそうなのだろう。
「うん、わかったよ。そういえば父さんの容態も大分よくなったそうだね」
「そうらしいですわね。でも次またお兄様と私の間を裂こうとなさったら、容赦しませんけど!」
「あはは。そんなことは多分ないよ」
握りこぶしを上げる佐奈に苦笑する。
父さんや母さんがあの時言ったあの言葉。あれは嘘ではないはずだ。それに、たとえ反対されたとしても関係ない。大事なのは僕たちがどうしたいか、だから。
そう。たとえどんな世界であっても、佐奈さえいればそれが僕の生きていく場所だから。
「なあ佐奈。退院したら行きたいところってある?」
快復したらお祝いにどこか連れてってあげようと思って言った。
佐奈は少し考える素振りを見せて、そして一言。
「お兄様がそばにいてくれれば、それで十分ですわ!」
と、輝くような笑顔を浮かべた。ずっと心の内に潜めていたものが開放されたような、屈託のない笑顔だった。
幸せに笑う愛する人の表情とはこういうものだと、僕は今日初めて知ることが出来た。