33
窓ガラスの外からは眩いほどの月明かりが降りそそぎ、夜間なのにまるで昼間みたいに部屋の一角を照らしていた。
僕は佐奈を見つめる。
ずっと探していた少女になんて言えばいいのかを考えながら。
「久しぶりだね、佐奈」
僕はゆっくりと起き上がり言った。
「悪いね、膝枕までしてもらって」
佐奈はフッと笑った。
「お兄様がここにいるということは、あの手紙は読んでくださったのですね。必ずきてくださるとは信じていましたけど」
「それはどうも。あとこれありがとね。おかげで風邪引かずにすんだよ」
僕はかけられていた毛布を見ながら言った。
「この別荘は夜になればかなり冷え込みますからね。昔よくお兄様が寝てる時にしてさしあげてました」
「そっか。やっぱり佐奈は気がきくね」
考えてみれば、佐奈はいつも僕のことを第一に思ってくれた。僕はそれを、いつしか当たり前に思ってしまってたんだ。
「お兄様、まだ私のこと許せませんわよね?」
佐奈は上目遣いに僕を見ながら言った。
「ううん。もうすんだことだよ」
僕は佐奈の頭に手を置いた。
「何も考えなくていい。僕はもう気にしていないから」
佐奈の瞳に映る僕が歪んだ。霞んだ眼で僕を見ている。
「あんなことをした私を……許すというのですか……?」
「言っただろ? もう気にしてないって」
「お兄様ぁ!」
佐奈は僕の胸に飛び込み、肩を震わせ泣いた。
細く小さく、少し力を入れると壊れそうなほど。
「お兄様、お兄様、お兄様、お兄様、お兄様……」
僕は泣きじゃくる佐奈の頭をそっと撫でた。
「私は、許されていいのでしょうか」
佐奈が僕の胸に顔を埋めたまま言った。
「お兄様にあんな酷いことをした私が救われて」
「いいんだよ」
いまだ慟哭している佐奈に向かって言う。
「僕はそれ以上のものを沢山佐奈にもらってるから」
今まで両親にすら愛されず育ってきた僕に、佐奈だけはずっとそばにいてくれた。僕のことを見て、愛し続けてくれた。それが例え間違った方向に向かったものだとしても、僕は生まれて初めてあんなに愛されたんだ。
「私の方こそ、お兄様にどれほどのものを……」
佐奈が嗚咽しながら体を寄せる。
「うん、お互い様だね。それに父さん母さんからもさ」
佐奈はほっとしたように呟いた。
「あは。お兄様の体、あったかいです……」
「僕もだよ」
やっと佐奈と心からつながれた気がする。
僕は兄で。
佐奈は妹で。
僕は被害者で。
佐奈は加害者で。
そして二人は恋人で。
次の日の朝。僕らは同じベッドの上で眼を覚ました。
家に帰らずにいることで、甲本警部が探し回っているかもしれない。二人でいることは危険なのかもしれない、が僕は佐奈と一緒にいることを選んだ。どうせ捕まってしまうなら、少しでも長く一緒にいたかった。
窓の外は昨日の曇り空が嘘のように、力強い太陽が輝いていた。
そろそろ春が終わり、季節は夏に近づこうとしている。
佐奈はベッドの上で、僕に向き直って言った。
「ねえお兄様。もう私たち、離れたりしませんわよね?」
僕は佐奈のか細い指に指を絡める。
「うん。いつだって一緒だ」
「たとえ死んでも……」
「佐奈?」
佐奈の言葉を理解できずにいると、佐奈は指を離し、ポケットから鋭く光るナイフを取り出した。
「愛していますお兄様。永遠に」
僕は叫び声をあげた。手を伸ばし佐奈を止めようとして。だがその手は届かなかった。
この何日間の記憶が蘇る。何回言っても当然のようにベッドに潜り込んできた佐奈。手作り弁当をあーんすると言って聞かなかった佐奈。自分の犯した罪を僕の胸で泣き続けた佐奈。
そして今佐奈は笑って――自らの胸にナイフを突き立てた――
今日までいがみ合ってきた僕らが、ようやく分かり合えたのに。
まだまだ話したりないことがいっぱいあるのに。
僕はこんなにも君を愛しているのに。
「なんで、なんで死んじゃうんだよお……」
鮮やかな真紅の血をとめどなく流した佐奈を抱え、僕は言った。
ここから救急車を呼ぶとしても、少なくても一時間はかかる。
その間に出血多量で死んでしまうだろう。
どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。
「死ぬことなんてないのにさ」
悔しさと焦りから、佐奈を抱く腕に力が入った。
「死に、ません。お兄様ひとり残しては」
佐奈が息も絶え絶えにこっちを向いてつぶやく。
「だったら、なんでこんなことを」
「うふふ」
佐奈は力なく笑った。
薄く閉じかけた瞳で、僕のことをじっと見つめている。
「お兄様は私を許すと言いましたが、私は私を許せません」
「そんなこと、忘れてしまえばいいんだ」
こんな解決方法を僕は認めない。しかし、手の中で意識が朦朧としている佐奈を見ると、何も言えない気持ちになる。
でも、それでも。
「死ぬなよ」
堰を切ったように涙がほほを伝い、止まらない。
「死ぬなよ。生きて、僕のそばにいてくれよ」
視界が霞んで、佐奈の顔がぐにゃりと歪んだ。
ガクンと頭が床に落ち、そのままピクリとも動かなくなる。
「佐奈? 佐奈、佐奈、佐奈!」
まさか。そんな――――
僕は体中を朱に染めた佐奈を強く抱きしめた。
「本当に馬鹿だよ。お前は。意地っ張りで言い出したら聞かなくて融通が利かないし僕のことばかりで。少しは自分のことも考えろよ」
そう言って佐奈の癖のない綺麗な黒髪を撫でた。
僕の腕に抱かれたその顔は、天使のように穏やかな表情をしていた。