31
「父さん……」
耳を疑った。
父の声は寂しそうで、いつもの威厳はどこにもなかったからだ。
「どうした? そんな顔して」
僕はハッとして尋ねた。
「いや……なんでもない。それより、空港で佐奈と何があったの?」
「お前たちの仲を引き裂こうとした。だから罰が当たったのさ」
ベッドに横たわりながら、微かに父は笑った。
「こうなることは十年も前にわかっていた。佐奈がお前を刺したあの時からな」
「……」
途切れ途切れになりながら、父は辛そうに話していた。
こんなに弱っている父は、初めて見る。
「僕と佐奈の関係、もう気づいてたんだ。そうだよね?」
「ああ、なんとか佐奈だけでも説得しようとしたら、この様さ。でもな」
そこで父は眼を閉じた。
そのまま目覚めないんじゃないかと思い、僕は声をかけた。
「大丈夫? あまり無理しない方が――」
「お前は俺の実の子じゃない」
父は眼を開け、僕を見ながら言った。
全神経が止まってしまったかのように動けなくなる。
「……え?」
「本当の子供じゃないんだよ、お前は」
確認するように父が繰り返した。
「俺はいずれ手にするだろうグループの後継者として、経営を引き継ぐ子供が必要だったんだ。親父は当時から社長からかなりの信頼を得ていたからな。いや、実質俺と親父がグループを大きくしたと言ってもいい。後は年老いた社長が亡くなれば、会社は俺のものになる。ある時親父からの命令で、子を産ませるように言われた。そして亜希子と結婚し、いずれ手にするだろう事業を磐石にしようとしていた。しかし俺は子供が出来ない体質だった。その時俺はどう思ったと思う? はは。愕然としたよ。そんな時、彼女が学生時代に付き合っていた男。当時の亜希子にはそんな男が何人もいた。そのうちの一人に亜希子と会わせた。そして亜希子がお前を身ごもった所で、もう会わせない様にしたんだ」
そこまで言って、父は咳き込んだ。
僕は聞いた。聞かずにはいられなかった。
「僕は、父さんにとってなんだったの?」
父はしゃべらなかった。
「僕は、会社を大きくする道具だったの?」
そして父は……首を縦に振った。
「お前は、俺の子ではなかった。それでも俺の子なんだと自分に言い聞かせることにしたよ。しかし、二度と子供が生まれないと思われた俺たちに、子供が生まれてしまったんだ。それが佐奈だった」
父は微かに笑って僕を見た。唇の端から血が垂れている。
「佐奈が、お前を殺そうとしたのも……」
ぜいぜい呼吸をしながらも、無理に言葉を紡いでいる。
「わかっていた。むしろ知りながら、それを後押しした。お前が邪魔になったんだ。それで単なる事故として、片付けようと」
父さんの眼は、もう僕を見据えているのかも分からなかった。
「じゃあなぜ、僕は今生きているの?」
「さてな。仕事の為に生きてきたつもりだったが、人として。いや親として、出来ない境界線があった。こんなクズみたいな親にでもな」
「僕は…………」
気づかぬうちに。
自分でも気づかないうちに。僕の眼から涙が溢れていた。
「僕は、何の為に生まれてきたんだ」
「会社を繁栄させるためさ。少なくとも俺にとってはな。だが佐奈は本気でお前を愛した。出世の道を歩む者にとって、スキャンダルは何より恐れなくてはならない。佐奈はあくまでも俺に食い下がった。だから言ったのさ。冬弥はお前とは腹違いの子供だと。血なんて繋がっていないんだとな」
滲んでいるが、父の肩が震えているのが分かった。
「実を言うと、お前もアメリカに連れていくつもりだったんだ。その方が佐奈ともども管理しやすいからな。しかし、お前だけは自由にさせてやりたかった」
ひゅうひゅうと、父は呼吸を繰り返した。
「すまなかった」
父が初めて僕に謝った。
「報復したければ、好きにすればいい。だが、佐奈のことは」
「……?」
「佐奈のことは、君に任せる。もう何も気にすることはない。自分が思うようにしたまえ。それが、俺に出来るせめてもの償いだ」
僕の眼に映る父の横顔は、とても寂しく、哀れにすら思えた。
僕は憎んでいるのだろうか。目の前にる男を。それとも――
「もう、いいよ」
気がつくと、僕はそう言っていた。
「冬弥……?」
父は眼を見開いて聞き返した。
「父さんは父さんの考えに従った。佐奈もだ。ずっと手にできないものを追い続けて、ね。そして僕の人生を滅茶苦茶にしたとか、今まで騙してきたとか、そんなことを言うのは簡単さ。でも」
父は僕の言葉を何もいわずに待っていた。
「でも、そんなこと言ったって何も変わらない。本当の父さんじゃなくても、佐奈と血がつながってなくても、僕は僕でいたい。鈍感で意固地でどうしようもないお人よしで。でもそれが僕だから。父さんは十分苦しんだ。だから、もういいんだ」
父は黙って僕の言葉を聴いていた。そして、
「すまなかった……」
一粒の涙を流した。
「謝らなくたっていいよ。その代わり教えて。佐奈は今どこにいるの?」
僕は内ポケットから佐奈の手紙を取り出した。
「思い出の場所って何? 多分僕が記憶をなくしてた頃のことだと思うんだけど」
あれから色々考えたが、僕と佐奈を結ぶ特定の場所に心当たりはなかった。だから、小さい頃一緒に過ごした時期のことだと考えたのだった。
「おそらく、昔よく行ってた別荘だろう。列車で少し時間はかかるが、佐奈がいるとしたらそこしか考えられない」
父は荒い息を吐きながら、別荘への大まかな場所を教えてくれた。
「頼んだぞ。佐奈を見つけたら、もう邪魔はしない。祝福すると伝えてくれ」
そして見た父さんの顔は、今までにない穏やかなものだった。
「父さん――」
「行っておやりなさい。冬弥」
その時後ろからドアが開けられ、母さんが出てきた。
「かあ、さん……?」
母がいつの間にか病室に入ってきていた。
「父さんが罪を償うというなら、母さんも罪を償うわ。といっても、私にはあなたを見送ることしか出来ない。お父さにんは私がついてるから、早く行きなさない」
「母さん……!」
おそらく僕らの話を全て聞いていたのだろう。母の顔は、今までになく穏やかになっていた。
「佐奈が戻って、父さんの具合もよくなったら、とびきり美味しいお料理でお祝いするから」
涙で滲む眼を細めて、母は僕を見ながら言った。
「だから二人とも――無事に帰ってきて」
僕は頷いて父の方を見た。父は笑っていた。
「頼んだぞ」
「ああ、行ってくるよ。父さん、母さん」