29
急いで家まで駆けつけたとき、僕はある視線を感じた。
それは当たっていたようで、玄関前で背の高い男が僕に話しかけてきた。
「神来冬弥君だね?」
「えっ……あっはい」
僕は慌てて頷いた。
グレーのスーツを着たサラリーマン風の男だった。正確な年齢はわからないが、うっすらと口髭を生やしてるところを見ると、そこそこの年齢に思えた。
「失礼、こういう者だ」
怪訝そうにしてるのが顔に出てたのか、男は懐から手帳を取り出し僕に見せた。
「警視庁の甲本という。少し話がしたいのだがね」
嫌な予感がした。上手く言えないが、とてつもなく嫌な予感が。
「なんでしょうか……」
「その前に、刑事と話すのは初めてかね?」
甲本刑事はほっそりした顔に皺を寄せて笑った。身長は百八十センチ近くありそうなのに、むしろ儚げな印象さえ受ける。こんなことで凶悪犯罪者を相手に仕事ができるのか、と思うほどに優しそうな人だった。
甲本――階級は警部らしい――は言った。
「通報があってね。アメリカ行きの空港の中で、君の妹さんが持っているナイフでお父さんを刺した。この時期だから観光客でごった返しでね。少し時間はかかったが、今お父さんは緊急病院で手術を受けている」
「え……」
僕は不機嫌そうに話す父と、呆然とした顔の佐奈を思い出した。
「君のお父さんは大企業の幹部らしいね。妹さんとの仲は良好だったのかな?」
「はい……、そうだったと、思います……」
僕は嘘をついた。
佐奈がそんなことをするとしたら、理由は一つしかないからだ。
「ふむ、ということは突発的な犯行になるわけだ。君は妹さんとは親しかったのかね」
甲本警部は、いたわるような声で僕に言った。
「ええ、特に問題は……、あの、佐奈は今どこに……」
「わからない。ひょっとしたら、君が居場所を知ってるんじゃないかと思ってね」
警部は淡々と言った。
「まだ十四歳だ。それほど遠くに行けるとは思わんが」
刑事ドラマのように、犯人の居場所には大体目星がついている、といったことはないらしい。僕がそう考えていると、警部は軽く咳払いをして、
「いやすまなかった。こんな話は少し刺激が強すぎたね。とりあえず、君と妹さんが最後に別れたときのことを教えてもらえんかね」
「昨日、父が佐奈を連れてアメリカに行くと言い出したんです」
僕は思いつく限りのことをボロが出ないように言った。昨日の夜別れてから会っていないと。僕と佐奈の関係、などは話さなかった。調べればわかることだろうが、少しでも佐奈の不利になるようなことは言いたくなかった。
「では妹さんが犯行に及んだ理由はわからない、と」
「そうですね……」
警部は眼を細め何かを考えいるようだった。僕は今緊張した顔をしているのだろうか。だとしたらまずい。もっと自然にしてないと。
「――本当に、そう思うかね?」
警部の問いは、僕の心に突き刺さった。
「え、ええ。家庭環境としては多少特殊だと思いますが、こんなことが起こるほどではなかったと」
「そうか……君は、妹さんのことが好きだったかね?」
「それは……家族ですし、ずっと二人暮らししてましたから」
「しかし、君は一人で家に残ることになったようだね?」
警部がわずかだが不審に思ったような声で聞いた。
「僕は、英語も話せませんし」
もっと上手い言い訳は浮かばなかったものか。どうやら僕に犯罪者の素養はなかったらしい。
「なるほど……わかった。しかし」
彼はぐっと身を乗り出した。僕はびくっと反応してしまう。
「何かあったらすぐに教えてくれ。番号を教えておこう」
警部はメモにすばやく文字を書くと、破ってそれを僕に渡した。
「わかりました」
僕がそういうと、警部の眼に若干光るものがあった。
「それにしても、大きくなったものだな」
「え?」
「いや、なんでもない。詳しいことは後で追って伝える。今日のところはぐっすり休みたまえ」
「は、はい」
僕がそう言ったとき、警部の顔は普通に戻っていた。
「ではまた話を聞かせてもらうかもしれんが、そのときは頼むよ」
「はい」
「いいかね。くれぐれも自分の体はいたわるようにね」
最後まで僕のことを気遣いながら警部は去っていった。もっと色々なことを聞かれるのかと思ったが、それもなかった。しかしありがたい。事実僕はあまりに大きなショックを受けていたのだった。
疲れた体で家の中に入り、まずは佐奈の部屋に目指す。
何か手がかりがあるかもしれないからだ。
僕は早足で二階に上がり、佐奈の部屋のドアを開けた。一面に貼られていた僕のポスターや写真などは、もうない。見えないように僕が撤去させたのだった。
しかし、佐奈はなぜ父を刺したのだろうか。ナイフを用意していたところを見ると、殺意があってのことに思える。
殺すつもりだったのだろうか。佐奈が、父を。
どうしてそんなことまでして逃げ出したのだろうか。
「僕は……佐奈の何を知っていたんだ」
僕のことしか考えていなかったように思うが、なぜそうなったのか、その根源はわからなかった。でも小さいころにも危うく殺されかけたことから考えると、根深いものがあるのかもしれない。
ため息をつき、何気なく引き出しを適当に開けてみた。几帳面にまとめられたノートの中に、手紙が交じってるのが見えた。表面を見てみると、“お兄様へ”とだけ書かれている。
僕はなるべく落ち着くよう意識して手紙を開封した。
そこには、綺麗な字でこう書かれていた。
お兄様へ。
二人だけで話したいことがあります。
思い出の場所で待っています。