25
「あがりなさい」
そう言われリビングに上がると、母さんもいた。
父さんは光沢のあるグレーのスーツ、母さんはシックなブラウスを着ている。
「二人とも、座りなさい」
言われたとおりに、向かいのソファに並んで腰を下ろした。
目の前には僕をじっと見つめてる父がいる。
「どうだ、ちゃんとやっているか?」
ソファに座るなり父はそう話しかけた。
昔と変わらない、弱者を嘲るような声で。
「なんとかね。佐奈にも大分苦労をかけてるけど」
「そうなのか、佐奈?」
僕には答えず、柔らかい物腰で聞いた。
病的なまでに能力主義。出来の悪い僕など眼中にもない。
父はそういう人間だった。
「いいえ、お父様。そんなことはありません」
佐奈は冷めた口調で答えた。
「お兄様は私など及びもつかない素晴らしい方です。かえって私の方がご迷惑をおかけしてしまい、申し訳なく思っております」
「……そんなことまでは、聞いておらん」
父は面白くなさそうに眉をひそめた。
「まあ、いい。本題に入ろう。佐奈をアメリカに留学させることにした」
「え?」
一瞬何を言われたのか分からず聞き返した。
「パパはね、ホテル事業やレストラン経営もしてる、大企業の幹部に任命されたの。将来は会社を背負って立つ身になるわね。だから、佐奈ちゃんにも今から経営術を学んでほしいの。ね? あなたは無理せず自分に合った道を歩きなさい」
母はまくし立てるように言った。
「佐奈には、向こうで然るべき相手と結婚させるわ。それが、佐奈にとってもいいと思うの」
「そんな……」
愕然とした、ではおさまらないかもしれない。
やがて訪れることが、こんなに早くやってくるなんて。
チラッと佐奈を見ると、ぎゅっと唇を噛んだまま俯いている。
「そういうことだ。今日中に行く。佐奈にはグループの関係として有能なものと結婚させる。言っておくがこれは決まったことだ。毎月の仕送りはちゃんとする。それで十分だろう。あとは自分のことは自分でやりなさい。それさえ最低限出来れば後は何も言わん」
父は淡々と告げた。海外留学? 結婚?
離れ離れになるのか? 僕と佐奈が。
そんなの僕は……。
「嫌です」
「何?」
佐奈は静かに顔を上げて言った。父はすかさず聞き返す。
「さっきも言ったな。決まったことだと。まさか、『自分の将来は自分で決める』などと言い出す気か? 親に扶養されるだけの子供が。子供は親の言うことを素直に聞いていればいいんだ」
「いくらお父様でもこれだけは譲れません! お兄様と離れるなんて……」
「佐奈、聞き分けのないこと言わないの。パパの言うことを聞きなさい」
「お母様は黙ってて! お父様の言いなりになることしか出来ないくせに!」
「なっ……」
口をパクパクし、顔を歪める母は、いつもの綺麗な母ではなかった。
少女に言い負かされ、腹を立てる中年女だ。
「何ですか!? 親に向かってその口の利き方は!」
「誰でも関係ありません! 私からお兄様を奪おうとする人は敵です!!」
佐奈は、今まで見たことないくらいに反抗していた。
それもそうだ、いきなり海外企業に留学させられ、そのグループのトップとの結婚を迫られているのだから。
そんなこと、耐えられるわけがない。僕だって。
「――静かにしなさい、二人とも」
父の低い声が部屋に響き、母も佐奈も黙り込んだ。
「不満があるなら向こうに行ってからにしなさい。佐奈、お前たちは兄妹なんだぞ? それとも、昔のように殺そうとしてでも我侭を押し通すのか?」
「――!」
佐奈は真っ青になりながら固まった。
「どういうこと……父さん?」
僕は聞き返した。たぶん分かっている。いや、覚えているはずなのに。
父は言い放った。
「聞いた通りだ。お前の肩から胸にかけての切り傷。キャンプ中に小熊に襲われたなんて嘘だ。お前はあのとき、たまたま近所の子と遊んでいて、佐奈を家に置き去りにした。家に帰ってきたと思ったら大喧嘩を始めて、その後悲鳴が起こった」
――ズキン
胸の傷跡が痛み出した。
やめて、そこから先は言わないでくれ。
でも僕は聞いてしまった。絶望することが分かっているのに。
「まさか……それって……」
「聞くまでもないだろう? お前のだ。我々が駆けつけるころにはもう血まみれで倒れていて、近くで佐奈が包丁を持ってぼーっとしていた。声をかけても反応さえしなくてな。発見が早かったからいいようなものも、あの出血で一命をとりとめたのは奇跡だそうだ」
「佐奈が、僕を」
嘘だ、と思いたかったが、佐奈は眼に涙を浮かべて肩を震わせている。
「嘘だよね、佐奈……? 違うと言ってよ」
僕は力無く聞いた。これでうそです、と言われたらどんなによかったか。
「お兄様、ごめんなさい……」
だが返ってきたのは正反対のものだった。
「お兄様が他の子にとられてしまうのが、どうしても我慢できなかった。お兄様はあのとき、私を妹だから愛せないと仰いました。その言葉を聞いた途端、我を忘れてしまって……」
「これが真相だ。救急車で運ばれた後手術が行われ、眼が覚めた時にはお前は何も覚えていなかった。だが、お前の胸に傷をつけたのは佐奈だ。お前はそれでも一緒にいたいか?」
父はそれだけ言うとタバコに火をつけ勢いよく煙を吐き出した。
紫煙が眼に入り、涙が染みてくる。
「そうだった、のか」
僕は笑いたくなっていた。
大切な人に裏切られる気持ちってこんなものなのか。
「消えろよ」
次の瞬間、自分でも信じられないくらい冷たい声を出していた。
「アメリカでもどこでも行けよ、佐奈。僕はお前のいないとこならどこでもいい」
「お兄様!」
「さわるな!!!!」
パーンという音がして、気がつくと手が熱くなっていた。
「お、お兄様……?」
腫れ上がった頬を押さえながら、佐奈がぽつりとつぶやいた。
「もう、兄でもなんでもない」
そんなことは知ったことではなかった。
「僕は、お前に殺されるのはごめんだ。それでいいでしょ? 父さん」
「うむ。佐奈――行くぞ。お前の分のチケットはもうある」
父は魂が抜けたように呆然としている佐奈の腕を掴みリビングを出た。
「冬弥。安心しなさい。佐奈には佐奈の幸せがあるよに、きっとあなたにもあなたに合った相手が見つかるから」
母は、今の僕にとって辛すぎることを言う。
「今まであなたちには自由にやらせてきたけど、これから大人になっていくんだから、いつまでもはしゃいでいられないでしょ。でもこれでお母さんも安心したわ。じゃあ、元気でね」
肩に手を置いてそれだけ言った後、扉の向こうに消えていった。
それからのことは、よく覚えていない。
気づいたら佐奈はアメリカに発った後だった。
今頃は巨大な飛行機が滑走路を飛びたつ頃だろう。
これでよかったんだろうか。けれどもう終わったんだ。
今はこの傷の痛みが、いつか風化することを祈るばかりだ。