17
「佐奈……いつからここに。それに、この部屋は一体……」
「監獄ですわ。私の」
「監……獄?」
「ええ」
まるで今日の天気予報の話でもするかのように佐奈が言う。
制服を着たままのところを見ると、屋上で別れてからそのままどこかでブラブラしていたのだろうか。
そんなことを考えていると佐奈が僕を見て言った。
「お兄様に惹かれて以来、私の心はずっと囚われていました。おかしくなっていたんです。分かっています。兄妹だから結婚できないなんてことは。でもどうしても諦め切れなかった。だから、こっそりお兄様を隠し撮りさせて頂きました」
静かに話す佐奈の瞳は暗く沈みこんでいた。
僕の知らないところでそんなことをしていたなんて……。
普通なら怒りに身を燃やしているところかもしれない。
でも今の僕にあるのは苛立ちよりも悲しみだった。
たぶん目の前にいる少女がもう少しで儚く壊れてしまうように見えたから。
「一度でもやってしまうと、もう戻れなくなってしまうものですわね」
佐奈が自嘲気味に唇を緩めた。
「妹なのに、おかしいですわよね? でもそれに気づいていても、どうしようもなかったのですわ」
途切れ途切れに佐奈が言葉を発する。
「だから、こんなことを?」
言葉をぎこちなく紡ぐ。
「ええ」
輝きの消えた目で佐奈が答える。
「じゃあ、この写真は」
傷だらけにされた写真を佐奈に見せる。
「何で自分の顔だけ傷をつけたりしたんだ?」
佐奈は一瞬瞳を滲ませたが、すぐに小さなため息をついた。
「戒めですわ」
「え?」
「本当は私、あの時死ぬべきでした」
俯く佐奈の頬を一筋の涙が伝う。
あの時――? 胸の古傷が何故かズキズキと傷む。
盗撮されたこと以外は何もされていないはずだ。では小さな時か。
だが、思い出を紐解いてみても、佐奈が戒めを受ける理由なんてない。
「そんな、こと……」
僕は、佐奈に向かって、手を伸ばそうと――
「やめてください!!」佐奈が僕の手をはじき、後ろへ飛びのいた。
濡れて焦点の合わなくなった眼で、ぼんやりだがしっかりと僕を見つめている。
「そんなことされる資格なんて私にはないんです。自分の欲望のために、お兄様を傷つけた。お兄様は覚えていないかもしれません。でも私は一生許されてはいけないんです!」
叫びながら佐奈が胸ポケットの内側に手を入れた。
「おい、何を……」
佐奈は僕の言葉に答えず、小さくつぶやく。
「ごめんなさい……お兄様。これしか、思いつかなくて……」
そう言って懐から小さなナイフを素早く取り出し、首元に当てた。
ぐっと押し込むと共に一筋の血が流れる。
「さよなら、お兄様……」
「やめろ!」
咄嗟に近づこうとする。だが止められそうにない。
仮にすぐそばにいても力では叶いそうにない。
「お兄様の妹でいれて良かったですわ。お父様より、お母様より。いつも私のそばにいれてくれました。お兄様がいたから、今まで生きてこれたんです」
「じゃあ、何でこんなことを!」
力の限り叫ぶ、必死に喚く。喉が潰れたってかまわなかった。
「これ以上お兄様に迷惑をかけたくないからですわ。今まで私はお兄様のためだけに生きてきました。でも、もうお兄様に選んでもらえない。それなら……」
佐奈は微笑んでいた。でも、僕には泣いているように見えた。
強いけど本当は弱虫だったころを知っているから。
僕はまっすぐ佐奈を見つめて言った。
「なあ、こんなことで死ぬことはない。そりゃ、ちょっとは戸惑ったけど、本当に怒ってるわけじゃないから! それより僕は佐奈を失うことの方が悲しい。だから生きてくれ。頼む!」
素直な心境だった。だが佐奈は顔色一つ変えずに言った。
「……優しくしないでください。今の私にはその言葉は残酷すぎるんです。また甘えてしまいますから。でも、最後にそう言ってくれてありがとうございます」
ナイフをあと数ミリのところまでつきつける。
真っ赤に流れた血液がカーペットの上に吸い寄せられるように消えていく。
それを見た瞬間、僕の中で何かがはじけた。
「ふざけるなー!!」
「……!?」
悪戯を咎められた子供のように佐奈が僕を見る。
僕は胸の奥から言葉を振り絞った。
「自分の思いが届かないから死ぬ? 寝ぼけんなよ!! 大事な人が死んだって何も救われないだろう!! 僕のことが好きなら奪ってみせろよ! どんなに時間がかかったって、壊れるくらい傷ついたって、愛してしまったなら無理やりにでもさらってしまえばいいじゃないか!!」
瞳の奥から涙が流れている。胸がどうしようもなく熱く沸騰している。
「お兄様……」
佐奈がそっと喉からナイフを離す。
「で、でも、お兄様……私は人として決して許されないことをしてきました。お兄様を苦しめてきたんです。子供の時、そして今も。それから……それから……!!」
「もう、いいよ」
まくし立てる佐奈の言葉を言葉でふさぐ。
「え……?」
佐奈は何を言われたのか分からない子供のような眼で僕を見ている。
僕は優しく言い聞かせるように言葉をかけた。
「いいんだ……そんなこと考えなくて。別に傷つけられたなんて思ってないけど、僕のために我慢なんてしなくていい。けれどもし償いたいというなら」
そこで僕は言葉を切った。これ以上話せば前までの関係に二度と戻れなくなる。
でも……。
「僕も、一緒に背負うよ。佐奈が飽きるまでそばにいる。戒めとかじゃなく、兄として、そして自分のためにそうして欲しいんだ。至らないこともあるかもしれない。だったら考えよう。二人で生きていくためにお互いのことを」
「お兄様……!」
佐奈の手からナイフがこぼれ落ちた。
涙が次から次へと溢れ、床に点を作る。
「好きだよ。佐奈。だからおいで」
「私も……!!」
そう言って佐奈が僕の胸に飛び込む。
熱い体温と微かに鼻腔をくすぐる優しい匂いを感じ、僕は腕を交差させ、きつく抱きしめた。
佐奈は僕の腕の中で泣き続けていた。
子供のように、声にならない嗚咽を漏らしながら。
銀色の月影のみが、星と星の隙間からふたりをそっと見守り続けていた。
うめていける気がする……。過去も未来も。佐奈となら。
素直にそう思うことができた。
淡い夜のとばりの中で。ふたり分の涙を重ね合わせながら。