水龍の檻
「──喰らえ。更紗」
楽しそうな声が、龍を操る。
ごぽりと水音が立った。
冷たく重い感触が全身を包み込み、たちまち灰色の流れが俺の体の外側も内側も満たしてしまう。息が出来ない。
檻だ、と思った。これは水龍の檻。
灰色の体に赤黒い双眸を持つ龍が、俺の全身を絡め取っている。
がは、と息を漏らしてやみくもに伸ばした手を、すさまじい水流がめりめりと引き裂いた。
肌が悲鳴を上げる。
かと思えば、今度はその裂傷から体内に流れ込んでくる嫌な感覚に心臓が凍りついた。
まるで生きているかのようにぬめる水が──肉を断ち、筋肉に触れ、内側から直接俺の生気を絡め取ってゆく。
龍が嬉しそうに赤い眼を輝かせる。
灰色の冷たい手で、俺の内臓に、脳髄に触れてくる。
がくがくと全身を走った震えに俺は意思とは関係なく絶叫していた。
「──……ッ!!」
水にふさがれた気管から声にならない声がほとばしった。
だがその時ふいに、一筋の光の如く灰色の世界を蹴散らした声があった。
「──降魔……」
ばきん、と何か硬いものが割れるような音が響いた。
同時に水の流れが変わる。
俺を内側から喰らおうと荒ぶっていた龍が、危険を察知したように顔を上げて身を翻した。
「──調伏──!!」
ぱあん、と高い音を立てて世界が一変する。
まぶたの外側でまぶしい光があふれて満ちた。水の拘束が解ける。
途端、どさりと重い衝撃と共に、俺は地面に落下していた。
「っ」
痛みに身を震わせながら俺は先ず、強烈に咳き込んだ。
重く冷たいあの嫌な水を、一滴たりとも体内に残しておきたくは無い。
地面に伏せながらげほげほと爆発したように咳き込んでいるとやがて駆け寄ってくる足音とともに声が聴こえた。
「蒼路っ」
『蒼路!!』
「……ハルっ……山、牙……?」
俺はそこで異常に気がついた。
彼らの声がする方に眼を向けても、視界に何も映らないのだ。
深紅の呪力の上、龍の攻撃を受けたせいだろうか。
目がおかしくなっている。
目の前に存在するはずの全てが遠く霞み、おぼろな輪郭を伴う何かの物体、ぐらいにしか認識できない。
「蒼路、無事か?」
ふいにぐっと肩を掴まれて、引っ張られるようにして身を起こされた。星の気配に、甘く佳き声──間違いなく遙だ。
なのに、見えない。
「はる、か……そこにいるのか?」
呟いた。とたんに遙が息を呑む気配が伝わってきた。
と、頬にざらりと温かな感触を感じ、俺は山牙がそばにいることを知る。
手を伸ばし、かろうじて視界に映り込む黒い物体に触れる。
はたして、それはやはり彼のなめらかな体だった。
「……山牙も。……悪ぃ、なんか、眼が変なんだ……」
「──見えないのか?」
遙が低く緊張した声を出す。俺は頷いた。
すると山牙が頬に鼻面を押し付けてくる。
すぴすぴと鼻を鳴らしながら彼は悲しげな声を出した。
『我のことも見えぬのか? 蒼路』
「……うん、ごめん──」
答えかけたところで、地面から突き上げるような衝撃が、俺たちを襲った。
「!?」
どおん、と深い衝撃に、体が一瞬宙に浮いた。
同時に耳を打ったのは、怒りに燃える女の子の声。
「──やめて!!」
「深……」
俺ははっと瞬いた。
そうだ、彼女はいま何をしている?
さっき、水の檻から俺を救ってくれたのは、間違いなくこの彼女の声だった!
「深紅!」
叫んだ俺の声に重なるようにして、彼女の更なる声が響いた。
「手を出すことは、許さない!!」
それは多分、俺たちに対しての発言ではなく、彼女が今対峙している相手に向かって投げられた言葉だった。
証拠に深紅はふたたび大技を繰り出したのだ。
俺たち相手にではなく、恐らくその瞳の先にいる──黒衣の術者に対して。
『天照大神の賜わく……──』
「──!!」
よりにもよって古式の祝詞がその唇から発せられるの聞いて、全身を恐怖が駆け抜けた。
だめだ。
封呪が不安定な状態でそんな術を唱えては、お前は──!
「深紅! やめろ、死ぬぞ!」
冷え切った体から振り絞るように大声を出して、俺はそのままふらりと立ち上がった。
とたんに遙と山牙が怒りの声を上げる。
声だけでなく、彼らの腕は実際に俺の動きを拘束した。
「……離せよ遙っ!!」
「バカ言うな、蒼路! 死ぬのは姫じゃない、君だ!」
「──だからどうした!」
声を挙げて怒る遙に、俺もまた、烈火のごとく怒りの感情を露にした。
手を掴む手を振り払う。
見えぬ眼を見開いて、遙と思われる朧な輪郭を睨みつけた。
「だからどうした、俺はあいつのためにならいつだって死ぬ! あいつが生きてなきゃ俺は生きている意味なんかねぇんだよ!」
「……蒼っ……」
「退け!!」
今一度、そう大喝して、俺は遙を突き飛ばした。
そのまま深紅の星の気配めざして転がるように駆ける。
眼が見えなくても、心に見えるものはある。
心に届く、声はある。
『──我が魂を傷ましることなかれ、是ゆえに』
「深紅っ、やめろ!」
俺が叫びながら抜刀した瞬間、足元をすり抜けた風があった。
懐かしい土の香りが鼻を突く。俺ははっと眼を見開いた。
「山っ……」
『斜め左、上空だ! まだあの龍はおるぞ!』
「──無上霊宝──」
『……させぬぞ、姫っ!』
轟くように山牙は吼えて、そのまま再び風を纏った。
同時に俺の耳を突いたのは深紅のちいさな悲鳴。
術を完成させる寸前で、山牙がどうにか引き止めてくれたらしかった。
深紅が彼に対して思いっきり罵声を浴びせかけるのを聞きながら、俺は刀を構えた。
斜め左、上空。
山牙が言っていた通りの方角から凍てつくほどの呪力が降って来る。
「……斬れるか……?」
息を深く吸い込んで眼を閉じた瞬間、ぱきぃんっという音とともに空気がその質を違えた。
同時に耳を打った声は。
「──斬って見せろ」
遙が、半ば諦めたようにすぐそばで呟いた。援護してやるから、と。
どうやら再び結界を張ってくれたらしい。
俺はふっと口角の端を持ち上げて微笑んだ。ありがたい。
ごうっと音を立てて空を割き、龍は今や俺の全身を威圧するほど至近距離に迫っていた。
しゅうしゅうと漏れ聴こえるのはおそらく龍の怒りの声だ。さきほど深紅に傷つかれたことが腹立たしくてならないのだろう。
暗闇の中で紅く光るその眼光を、俺は確かに捕えた。
がばりと龍があぎとを開く。
ぽっかりと開いた口腔の奥に存在するのは、あの水の檻。
何をも逃さぬ冷たい牢獄。
──否、何をも、じゃない
猛る龍が俺を呑みこむ。
だがその顎が閉じられるぎりぎりのところで──俺は渾身の焔とともに刀を真横に振り払った。
火柱が上がり、内側から切り裂かれた灰色の龍は、苦悶に身をよじりながら怒りの咆哮を上げる。
その姿は見えないが、天を突くほどに大きな体をのた打ち回らせていることは容易に想像できた。
「……へっ……そのまま、蒸発しやがれ……!」
刀を星の鞘に戻し、俺はがっくりと膝をつく。
全身に力が入らない。
ともすれば前のめりに倒れ込みそうになるのを、背後から伸びてきた遙の手に捕まえられて、そのまま数歩離れた場所へと引きずられていく。
と、龍が一際大きな声で絶叫した。
大気に波紋を広げるその悲鳴はしかしやがて小さくなり、絶大な呪力も急速に途絶えた。
ぴしぴしと何かが細かくひび割れていくような音が響き、最後には砕け散ったらしい、何も聴こえなくなった。
「──……やったぞ、蒼路」
肩を支えてくれていた遙が短くそう言った。
それだけで十分だった。
ちいさく笑った俺の元に、やがて駆け寄ってきたふたつの温もり。
『蒼路っ』
「蒼路!」
大地の香りと、甘い梅香。
ふたつの香りが声の主を表していた。
「……深、」
「蒼路!!」
名を呼ぼうとしたところ、首に抱きつかれていた。
ぎょっと眼を見開くも、肌に触れたそのあたたかな体温と、ほのかな梅香があまりにも心地よく、俺は眼を閉じてしまった。
「……無事か。よかった」
ぽんぽんとその背を叩きながら呟くと、彼女はなぜか声を詰まらせた。
「っ、あ、当たり前じゃない……っ! それはむしろ、こちらの台詞よ!」
「聴こえねぇなあ」
ふ、と笑って、俺はひとつ大きく息を吸った。
深紅が無事だったとわかった途端、懸命に保っていた思惟があっというまに夢の瀬へと誘われる。
山牙が必死に鼻を鳴らすのも、遙が慌てたように俺を呼ぶのも、ぜんぶが急速に闇の中へと溶けていく。
「しっかりしろ、蒼路!」
『蒼路!』
「……蒼路!!」
「──ふむ。なかなか、見所のある男に成長したようだな」
──蒼路、と。
意識が闇に沈む寸前、楽しげな声が俺を呼んだことを覚えている。
***
「……大丈夫じゃ。一時的に呪力で眼と体をやられただけじゃろう」
ババアの声が、すぐ近くで聴こえた。
それに対して答える少年の声も。
俺はうすく眼を見開いた。やっぱり何も見えない。
「本当に!? では直ぐに見えるようになりますか?」
「直ぐにというわけには……うむ、わからんな。蒼路は並外れた体力を有しておるゆえ、直ぐに直るかもしれん。だが水龍を操るほどの術者にやられたのであれば、回復には少々時間がかかるのが当たり前じゃ」
「──そうだ、喜代様。そのことでお話があるのですが」
「なんじゃ?」
「実は、蒼路の眼は術者だけにやられたわけではなく……」
ここで声が遠ざかっていった。
俺は瞬く。猛烈に眠くて、それに何故か異様に寒かった。
まだ九月の初めだというのに、全身が凍えるように冷たい。
かたかた震えながらせめても手足を丸めようとすると、体の上にうすい布団がかけられていることに気がついた。
「……さ、む……」
本当に寒い。歯の根が合わないほどだ。
自分で自分を抱くようにしても寒いので、仕方なくそのまま横になっていると、ふいに背後に顕現した気配があった。
振り返るよりも先に、それは俺の凍える全身を包み込むようにして布団に座った。
なめらかな漆黒の毛並みを持つ、巨大な狼。
「山、牙」
たちまち全身を包んだ温もりに、俺はほっと息を吐いた。
名を呼ぶと、尻尾が振られたらしい、ぱたぱたと音を立てるそれが俺の頬を撫でた。
くすぐったくて俺は思わず眼を閉じる。
『まだ眼は見えぬか?』
低い声に問われて頷いた。
「……見えない。それに、異様に寒い」
『……あの奇妙な龍のせいであろうな。そなたは著しく体力を吸い取られていると喜代が言っておった』
「あれ、何だったんだろう……お前達のような異形じゃあないよな?」
『うむ。実体が無かった』
「恐ろしく強かったが、まったく本気じゃなかったな」
俺は言って、考え込んだ。
そう。あいつらは全然本気を出していなかった。
何が目的で在ろうと、あれだけの龍を操る術者ならば、俺たちに傷をつけることなど造作もない筈だ。
俺は馬鹿だがそれなりに場数は踏んできている。敵と自分の力関係を読むことぐらいはできるのだ。
首を傾けて考えていると、ふいに思い出したのはあの術者と思しき者の声。
──喰らえ、更紗
そう、彼は言ったのではなかったか。
あの龍に対して。
とすれば龍は名前を持ち、主の命に従う、やはり異形の一種なのか。
いや、というかそもそも。
「あの術者は誰だ……?」
首を傾げた俺に答えるように山牙が言った。
『姫の知る者のようであったな』
「そうなんだよな。……でもどっかで、見たことがあるような気がする」
『黒衣に覆面の状態で見たことがあるというのはおかしくないか、蒼路』
「まあそうなんだけど。雰囲気っていうか、あの眼が。どうしても知っている人のように思えてならない」
呟いた声がやけに大きく辺りに響いた。
この、外界から遮断されたような独特の静寂。俺ははたと気が付いた。
「……もしかして俺、またババアの屋敷にいるのか?」
『そうだぞ? 今更気がついたのか』
明朗な山牙の答えに俺は顔をしかめていた。幼い妹の泣き顔が脳裏を過ぎる。
ただでさえ修行のせいで家に帰れてないのに、これじゃまた泣かれちまう。
「あああ、何かまた面倒な事態になりそうな気がするぞ」
ばりばりと頭を掻きながら俺は呻いた。
数ヶ月前、ある者の護衛をせよとの任務を請け負った俺。
だが蓋を開けてみれば護衛なんてとんでもない、それはとある双子の兄妹が巻き起こす大騒動に発展したのだ。
ちなみに双子の兄は名を伊勢遙といいい、いま現在俺のきょうだい弟子になっている。
今思い出してもスーパー面倒くさい依頼であった。
まあ、その分この山牙を初めとして、たくさんの得がたい存在と出会えたから文句は言えないのだけれども。
「あ、っていうか山牙」
『何ぞ』
「──深紅はどうしてる?」
問うと、なぜか山牙が一瞬沈黙した。
俺は怪訝に瞬きをする。
「山牙?」
『……そなた、怒ってはおらぬのか?』
「え? 何に対して」
『だから、姫君に対してだ』
山牙がやや声を硬くする。
心底思っても見なかったその発言に、俺はさらに瞬きを繰り返した。
うーんと少し考え込んで、俺があいつに対して怒るような事態が何か発生しただろうかと思いをめぐらす。
そしてようよう思い当たって、ぽんと両手を打ち鳴らしていた。
「──ああ。あいつが俺を攻撃したから? だから怒ってんのか、お前」
『怒るのは我ではない! そなたであろう、蒼路!』
「俺は怒ってねえよ」
噛み付くような山牙の声に、俺はけろりと答えていた。
だって本当に怒ってないから。
すると山牙は息を呑んだ。
俺をあたたかく包んでくれている体がひくっと震えたのが感じられた。
『……怒ってない?』
「うん。怒ってない」
『眼を焼かれたのにか?』
「眼が見えないのはあいつより黒衣の術者の責が大きい。それに俺はあの術者が深紅にとってどんな人間か知らない。知らないのに彼女を責めるのは不公平だろう」
『されど……!』
俺の淡々とした述懐に、まだ大いに不満そうに何か言おうとした山牙の、その語尾を引き継いだ人物がいた。
「──されど、姫が君を傷つけたは事実」
「……遙?」
間違えようの無い彼の声。
俺は思わず声がしたほうに首をめぐらせていた。
星師はお互いを気配で読めるのに、ぜんぜん気がつかなかった。完全に不覚だ。
己の失態を内心で恥じている俺をよそに遙は言った。
「──焦点があってないな。まだ見えてないんだろう? 人の身を案じるよりも自分の身を案じてはどうなんだい」
「案じてどうにかなるならするけどそうじゃねぇだろ」
「……君ってやつは。こういう時だけ弁が立つ」
俺の減らず口に対して遙は舌打ちで答え(!)、それでも傍にやってきてくれた。
星の気配が近づいて、驚かさないようにと配慮してくれたのか、彼は先ず俺の腕にちょっと触れた。そして喋り始める。
「いま、喜代様に大体のあらましを説明してきた。今朝の襲撃に始まって、あの謎の術者のこと、灰色の龍のこと。何より姫が倒れたことも」
「遙、深紅は──」
回りくどい説明に気を逸らせて俺は言った。
すると彼が失笑する気配がした。
「だからいま、それを説明しようとしてるのに」
「回りくどいのは大っ嫌いなんだよっ」
「わかった、わかった。……もちろん無事だよ」
遙の声に、なんともいえない感情が滲むのがわかった。
やさしい声、だが、すこし寂しそうな声。
呆れているようにも思えて、その実心配してくれているような。
──俺は遙の様子がおかしいことに気がついた。
とりあえず深紅の無事に心の底から安堵して、それから彼の名前を呼ぶ。
「……遙?」
「うん」
彼は即座に答えた。見たところ、嫌、聞いたところはいつも通りの人当たりの良い彼だ。
しかし違う。決定的に違う。
何がって、それは──。
「……お前、泣いてるのか……?」
──そう、その声に滲む悲しみの存在だった。