黒衣の術者
「五辻!」
「どうした高村?」
「一体何が起きたんだ! ……」
誰かが駆け寄ってくる。
何か喋っている。
だがその全てが眼も耳を素通りしていく。
俺はこれ以上ないほど眼を見開いて深紅の顔を凝視していた。
紙のように白い肌、血の気を失った唇。
まだ九月だというのに手足は氷のように冷たくて──制服の襟元からざわりと黒い影のようなものが忍び出たのを、俺ははっきりと捕えた。息を呑む。
(封呪が、弱まっている……!)
「……ろ……」
かすかに耳に届いた声音に、俺ははっと瞬いた。
黒曜の瞳が細く開いてこちらを見ていた。
腕に込めた力がいや増す。
「深紅!」
「……に……」
「え?」
真っ青な唇が震えながらつむぐ言葉を、俺は一言たりとも聞き逃すものかと耳そばだてた。
「何だって? 深紅」
「……外、に……出て……!」
「外?」
「ここ、は……」
──ここは、危ないの。
切れ切れに、ほとんど聞き取れないほどの声で、けれど彼女は確かにそう言った。
「お願い、遙も、一緒よ……!!」
その瞳に浮かぶ性急な懇願の色に、俺が戸惑いながらも頷こうとしたその時。
ふいに、世界が鳴動した。
「っ、何だ!?」
体育館が騒然とする。大地を縦に貫くような、かなりの揺れだ。
生徒たちが悲鳴を上げ、教師達が落ち着きなさいと叫んでいる。
振動は絶え間なく体育館を揺らし、二階の手すりやバスケットゴールがみしみしと音をたてて軋んだ。それすらにも怯えた生徒が泣き出す声が聴こえる。
深紅が俺の腕を再度強く掴んだのがわかった。
眼を遣った先で彼女はふたたび同じ言葉を繰り返す。
「蒼路、お願いよ、外へ……!」
「……わかった」
事態は飲み込めないが、どうやら深紅の体調とこの地震には関連があるらしい。
俺は短く頷くと口内で眼隠しの術を唱えた。
山牙の背に乗って移動する時など、人の目から逃れたい時に唱える術だ。
簡単な術だが唱えると短いあいだ周囲が俺たちに気づかなくなる。
『──御身は我が心の中にも在り』
唱えざま立ち上がると、揺れる地面を蹴って走り出す。
体育館の外に飛び出すと、遙の気配が遅れてついてきた事に気がつき、振り向かずに声を上げた。
「いいのか? 内申下がるぜ、生徒会長!」
「バカ言うなよ。これ位で傷がつくなら、何のために生徒会長なんてやってきたかわからない」
「……腹黒」
腕のなかで深紅が遙の台詞に対しての感想を漏らす。
俺は思わずちいさく笑った。まさしく、その通りだ。
揺れはまだ続いている。重心を絶えず移動させながら走っていると、程なく彼は追いついた。
深紅の顔を覗き込んで碧の瞳が瞬いた。
「姫、大丈夫? 驚いたよ、急に倒れて」
まあ速攻駆け寄った蒼路にはもっと驚いたけど。
付け足された余計な一言に俺は悪態をついた。うるせぇな。
深紅がたいぎそうにため息を吐く。
「大丈夫よ。……原因は、わかっているの」
「それはこの鳴動の原因と同じなのかな?」
「ええ」
きっぱり断言して、彼女は苦しいのか、俺の胸に頭をもたせかけた。青ざめた唇から吐息が漏れる。
俺は遙と眼差しを交わす。
どちらともなく頷き合って、深紅に問うた。
「──何処へ?」
すると彼女の指先は、迷わずに空を指し示した。
「屋上へ……!」
***
「山牙!!」
呼び声ひとつで眼前の空間から黒い塊が飛び出してくる。
突風を纏いながら現れたのは大地の香りを纏う狼。
その背に飛び乗って俺たちは空を駆け上がった。
山牙の足は俺の知る獣の中で最速だ。
グランドから飛び上がった次の瞬間には、俺たちはもう校舎上空へと舞い上がっていた。
「──蒼路、あそこだ!」
山牙の背に伏せながら遙が校舎の一点を指差す。
それは時計塔の上だった。
人一人が立つのがやっとの狭い空間に悠然と立ち尽くし、胸の前で何かの印を組んでいる、黒子に羽織を纏った術者。
「今朝、僕らを襲撃した術者だ!!」
「……何だと?」
遙の一言に、俺は驚きの眼差しをその術者に向けた。
艶のない布に覆われた顔からかろうじて瞳だけが覗いている──愉悦に歪んだ双眸。
それが、ふいに俺たちを捕えた。
黒ずくめの腕がすい、とこちら目掛けて持ち上げられる。
「いけない……!」
腕の中で深紅が叫んだと同時に、灰色の呪力が視界を迸った。
同時に爆風が襲い来る。
とっさに眼を閉じる寸前、信じられないほど強力なそのエネルギーが龍の形を取っているのを見た。
長大にうねる輪郭から霞が漂っている。水系の術者だ。
「避けきれるか……!?」
緊迫した声音に眼を開ければ、遙が胸の前で十字を切って何かの術の詠唱を始めるところだった。
俺には聞き取れない外国の言葉が耳を掠める。
と、山牙が前傾姿勢を取って急降下し、ぎりぎりのところで灰色の龍を交わした。
だがすぐに龍は再びそのあぎとを開き、猛然と俺たち一同を追いかける。山牙に勝るとも劣らない高速である。
風が髪を乱し、呪力が肌を焼く。
ぷちりと嫌な音を立てて頬に痛みが走った。切れたのだ。
『うぬれ、しつこく追い回しよってからに……!!』
山牙が低く苛立った声を発し、その緋色の眼を忌々しげに光らせて、龍ではなく術者の方へと向けたとき。
遙の術が完成した。
『我らに神の息吹を──……!』
碧の光が輝く。
不思議な外国語の文様を描きながらそれは俺たちの周囲を取り巻くように伸び上がり、半球を描いた。
音を立てて空気が硬質化し、眼前にぐわりと牙をむいて迫ってきていた灰色の龍をはじき返した。怒りの咆哮が轟くが、それが俺たちの肌を揺らすことはない。
──結界が創造されたのだ。
「っしゃ、いいぞ遙っ!」
強気になった俺は叫ぶと同時に山牙の背を叩いた。
「突っ込め山牙!」
『その心算だ!』
彼は即行応酬した。
腹の下で漆黒の巨体が反らされ、反動をつけたかと思うと一目散に術者めがけて降下する。
「だっ……」
腕の中で何か言いかけた深紅を片手一本と足のみで支えなおすと、俺は自らも刀印を組んだ。
俺だってぼやっと夏休みを過ごしてたわけじゃねぇ。
急降下する山牙の勢いに乗せて燃え盛る焔を召喚した。
結界は外側からの攻撃は弾き返すが、内側からのそれは通す。
『──焔縛!』
「……駄目っ」
焔の触手は正確に俺の意思に従い、術者の体を絡め取る。
動きを封じられた術者を噛み千切ろうと、山牙が大口を開けた──
「──やめて!!」
その時。
悲鳴にも似た声を上げ、深紅が、何故か彼女が呪力を爆発させた。
──俺の腕の中で。
「……っあ……!!!」
苛烈な呪力に全身の肌を刺し貫かれ、もんどり打った俺を横目に、深紅は山牙の口からすんでのところで術者を救った。
黒ずくめの体が呪力に押されるようにして時計塔から飛び降りて、そのまま身を翻す。
一瞬遅れて山牙が屋上の上に降り立った。
俺は堪らず深紅を離すと、そのままもだえるようにしてコンクリートに転がり落ちた。
遙の憤った悲鳴が耳をつんざく。
「蒼路ッ!! ──姫、あなたは一体何をなさったのだ!!」
びりびりと肌に響くほどのその声音がすぐ頭の上から聞こえて、俺は彼に助け起こされた。
大丈夫か、と問われ、なんとか頷いてみせる。
だがまだ全身が痺れていたし、視界が白く霞んでいた。呪力が直に眼に当たったせいだろう。
「……御免なさい……」
少し離れた場所から押し殺したような深紅の声が届いた。
俺は緩慢と首を廻らせて彼女の姿を仰ぎ見る。
山牙の背の上で深紅は唇を噛み、項垂れていた。
「……けれど、駄目なの……!」
「何がですか! 貴女は御身を護ろうと戦った蒼路を傷つけてあの術者を救った! いかなる理由があろうとも、それは許されることじゃない!」
遙はきびしく詰問した。彼は義理堅く論理的だ。
不可解な深紅の行動が許せないのだろう、めずらしく本気で怒っていた。
「姫、あなたはあの術者をご存知ですね? その上で蒼路よりもあの者を庇ったというのですね!」
「……っ……わた、しはっ……」
「言い訳は無用!」
弱々しく声を詰まらせる深紅を、遙はぴしゃりとさえぎった。
さすがに深紅が可哀想になり、俺は友の手を軽く叩きながら言った。
「おい、遙……もういいって」
「ぜんぜん良くないね」
遙は取り付くしまもない。
もはや激怒に近い怒りが彼の全身から放たれているのを感じた。
「僕は今失望しているんだ。姫君に。蒼路は命懸けて御身を護ると、そのためにだけ生きるのだと迷いなく言い切ったのに、当の姫君ご本人がその想いを足蹴にするような真似をする。では蒼路、君は何のために傷を負うんだ。君が自己を省みず、危なっかしく飛び回りながらも僕達に見せてくれる、その笑顔は報われていると言えるのか?」
「……遙ぁ……」
俺は弱ってしまった。
遙は非常に弁が立つ。ほんとうに頭が良いのだ。
彼の言いたいことはわかるし、その気持ちは嬉しいが、俺の天秤はやはり最後には深紅に傾く。
見れば白く濁る視界のなか、彼女はますます深く項垂れて、その細い肩のラインが、白い腕が、怯えたようにふるえていた。
その姿を見ると俺はもう、胸になんとも言えない感情があふれてきてどうしようもない。
「大体、姫は気づくべきなんだ、蒼路が──」
遙は尚も熱弁を奮おうとした。
だがその碧の瞳が激しい怒りにきらりと光り、深紅を剣呑に睨みつけた時、視線の先で山牙が空へ駆け上がっていた。
鋭い咆哮が鼓膜を震わす。
『──避けろ、二人とも!!』
その声に従い背後に飛び退った俺と遙の目前に、ふたたび先刻の灰色の龍が飛来していた。制服の裾を呪力の塊であるその体が溶かし、焦がす。
はっと見開いた眼の中に、何時の間にか給水塔の上に腰を下ろしていた黒ずくめの術者が映り込んだ。
濁る視界でもその異様な姿は即座に捕えることができる。
視線が交わった。
漆黒の双眸。湖のように涼やかで静かで──だがその奥底に、何かとてつもなく危ういものを内包した瞳。
それが、まっすぐに俺を見ていた。
「──」
強烈な既視感に襲われると同時に、さっきから上手く利かなかった視界が一面の灰色に混濁した。
耳元を、龍の唸りが駆け抜ける。
「──蒼路!!」
高低差のある絶叫が初秋の空に響き渡った。