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新学期

 

 それから五日ばかり経って、新学期が始まる朝を迎えた。

 

「気持ち悪ぃ……」

 

 清清しい筈の初秋の朝、俺は自宅のリビングにて、ソファに寝転がっていた。

 寝不足で頭がくらくらするしガンガン痛む。動くとさらに痛むからメシも食えずに横たわっているのであった。

 何があったかというと、修行のあいだ全く手をつけられなかった宿題を三日徹夜で仕上げたのだ。

 が、さすがに三日は無謀であった。遙がいなければとてもやり遂げられなかったであろう。

 区切りがつくまで休憩は許さない、とにっこり笑って俺に勉強させたあいつの笑顔を思い出すと今でも全身に悪寒が走る。

 双子の妹であるアンナさんが成仏して以来、すっかり本来の優しく穏やかな彼に戻った遙ではあるが、いまでも時々ああいう暴挙に出るのは、これもまた遙の性情なのであろう。

 一月共に山篭りをして思い知った。

 眉目秀麗、頭脳明晰、皆にやさしい生徒会長。

 だが遙はけっっして! それだけのくくりに当てはめられる男ではない。

 

「ちきしょーめ……」

『蒼路、大丈夫か?』

 

 眼を瞑って呻いていると、ふとそんな低い声が耳元で響いた。

 眼を開けるとソファに前肢をかけて後ろ足立ちになり、俺の顔を覗き込んでいる狼の姿があった。

 

「おう、山牙さんが。……おはよ」

 

 俺は手を伸ばして彼の頭をわしわしと撫でた。

 それだけで山牙は本当に嬉しそうにはたはたと長い尻尾を振る。

 ざらりと温かい舌で俺の頬を舐めて、彼は言った。

 

『そろそろ起きねば時間に間に合わぬのではないか、と優子殿にあい殿が言っておるぞ』

「うー、わかってる。わかっちゃいるが、どうにも頭が痛いんだ」

 

 俺は呻った。

 優子殿、とは俺の母を示し、藍殿、とは俺の妹の藍を差している。

 ふたりとも星を持たないただの人だ。もっとも、藍は強い霊感を備えているようだが。

 山牙はいわゆる異形の獣であり、常人ただびとには本来その姿は見えないが、彼自身がそう希望すれば見えるようにもできる。

 この家に連れてきた当初は普通に見えない状態を保っていた山牙だったが、彼の話を聞いた母さんと藍が会いたい会いたいとわめいたので姿を見せることになり、その後すっかり仲良くなってしまって、現在に至る。

 頭痛に苦しむ俺に寄り添う山牙を見て、キッチンで朝食を作っていた母さんがあきれたような声を上げた。

 

「蒼路ー、まだ寝てるの? 山牙ちゃんが心配してるじゃないの、さっさと起きなさい!」

「……はい」

 

 母の大きな声すら頭に障る。俺は額を押さえてただ頷いた。

 すると彼女の声音に心配そうな色が混じる。

 

「そんなに頭痛ひどいの? だったら痛み止め飲みなさい」

「いや、大丈」

 

 夫、と言い刺した俺を完全に無視して母さんはその声を掛ける相手を山牙に変えた。

 

「山牙ちゃん、悪いけど蒼路にお薬持って行ってあげてくれるかしら?」

『うむ。お安い御用だ優子殿』

 

 母の声に機嫌よく応えて、山牙は彼女のそばにぽてぽてと歩いていった。

 その横顔を目線だけでかろうじて追いながら、えええぇえ、と俺はおののく。

 ちょっと待て、山牙は確かに俺の友人であり、表向きは召還獣という配下であり、そういう頼みごとの一つもあるいはしてもいいのかもしれんが……。

 だが彼は元々この君見丘きみみおかを守る鎮守神であったやんごとなき存在だ。しかもそのあと人を食して妖怪と成ってしまったという付加要素も持つ。

 それなのに。

 

『ほれ、蒼路。薬を持ってきたぞ、はよう飲んで支度せい』

 

 ……それなのに今、頭の上に頭痛薬の入った箱と、水の注がれたコップを載せて俺の前に立っている彼はどうしたことだ。

 これじゃまるで世話焼きな飼い犬である。

 や、飼い犬は喋れないし、こんな緋色の目はしていないけど。

 山牙を我が家に連れてきて約二月、まさかこんな変化が訪れようとは予想だにもしていなかった。

 頭を抱え込んでさらに呻きたくなった俺だったが、この調子だと本当に遅刻してしまいそうなのでやめた。

 無言で山牙の差し出してきた薬とコップを手にし、口にする。

 飲み終わった辺りでちょうどリビングの向こうから妹の藍が駆けくるのが見えた。

 

「あっ、おにいちゃん! 頭痛いの、なおった?」

 

 俺とは歳の離れた妹、藍は六歳である。

 ショートヘアに水色のTシャツがよく似合っていてまことに可愛らしい。

 駆け寄ってきた藍を両手で受け止めて、俺は頭痛を無視しながら彼女を肩に担ぎ上げた。

 

「なおった。ありがとなー、藍、心配してくれてたのか?」

「うん! だってね、藍、おにいちゃんだいすきだもん!」

 

 ストレートな言葉に胸がじんと温かくなる。

 子供は嘘をつかない。だから藍は本気の本気で言っているのだ。

 ああ、俺は幸せ者だ。

 

「ありがとなー、俺も藍のこと大好きだよ」

 

 俺は笑って藍の頬に自分の頬を摺り寄せた。

 きゃはっと嬉しそうに声をたてて妹も笑い、俺の頭に両手で抱きついてきた。

 視界が覆われて俺は慌てる。

 

「おわっ! 藍、離せはなせ、目が見えん!」

「いやー。藍、このままでいるー」

「学校どーすんだよ」

「お兄ちゃんといっしょ!」

「なんだそりゃ、お母さんと一緒のまちがいだろう!」

 

 あははは、と声を上げて笑いあう幸せな俺たち兄妹であったが、おあいにく、ここで母さんが怒った。

 雷のような声が俺たちの間に割って入る。

 

「──蒼路、藍! いい加減にしなさい、本当に遅刻するわよっ!?」

 

 俺と藍とそれからなぜか山牙は、たちまち蜘蛛の子のように飛散した。

 

 ***

 

「じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい。今日は帰りはまっすぐ?」

 

 出かけに母さんがそう聞いてきた。

 俺は靴を履きながら首を傾げる。

 

「うーん、たぶん。ババアに呼び出されなければ」

「喜代様とお呼びしなさい、バカ息子」

「ええ、やだよ。何かくすぐったいじゃん」

「それはお前の問題であって非礼の理由にはなりません。星将せいしょうさんだって喜代様には礼を尽くしていたのですよ」

 

 母は静かに言って、俺の制服の背中を叩いた。

 俺はといえば親父の名前を出されて肩をすくめてしまう。ずりぃ。

 

「……ま、気をつけます」

 

 短く呟くと立ち上がった。

 と、そこに、少し遅れて藍が廊下を疾走してきた。

 ランドセルの蓋が閉まっておらず、動きに合わせてぱかぱかと揺れている。

 彼女の背後からはまろぶようにして山牙がついてきた。

 母さんが苦笑して玄関に飛び出そうとした藍の肩を押さえる。

 

「あーい。ランドセル、閉まってないわよ?」

「だってね、だって、お兄ちゃんが行っちゃうと思ったんだもん!」

 

 頬を上気させて言う、藍は本当にいじましい。

 母も同じことを思ったらしく、今度はやさしく微笑んで藍の頭を撫で、ランドセルを閉めた。

 

「藍はほんとうにお兄ちゃんっ子ねぇ」

「うん! 藍ねぇ、お兄ちゃんのおよめさんになるんだもん!」

「……マジか」

 

 傍観していた俺は思わず眼を丸くしていた。

 嬉しいが、それは無理だぞ。藍。

 と、母さんが言った。

 

「うふふ、それは無理よ、藍」

「えー、どうして?」

 

 心底残念そうな声を出す藍の足元をすりぬけて、山牙が玄関に下りてきた。彼はちかごろ藍のお供をすることが多い。

 人並みはずれて霊感の強い藍はやれ幽霊を見た、妖怪を見た、と行っては泣いてしまい、ひとりで行動するのが苦手なので、見かねた山牙が護衛を勤めるようになったのだった。

 俺が腰をかがめて山牙の背中を撫でていると、母さんが言った。

 とんでもない一言を。

 

「蒼路にはねぇ、好きな女の子がいるから」

 

 ──耳を疑った。

 

 ***

 

「っきしょー、どいつもこいつも……!!」

 

 顔が赤いのは日焼けのせいだ。あるいはこのカンカン照りの太陽のせい!

 自分で自分に言い聞かせながらバスを降りる。

 正門のほど近くに位置するバス停からは、登校する生徒達の姿がよく見えた。

 クラスメートの姿もあれば見たことのある先輩の姿もある。

 みんなそれぞれ日焼けしたり髪を切ったりしていかにも休み明けの風体だ。

 ふああ、とあくびしながら俺も歩き出して、程なく正門のあたりにできている人だかりにぶつかった。

 

「あんだよ」

 

 邪魔だなあ、と呟いてゆき過ぎようとする。

 ほぼ女子の集団だった。

 黄色い声に非難の声が混じったような、奇妙な歓声を上げて、その輪の中央に居るらしい誰かを取り囲んでいる。

 

「──あ、蒼路!!」

「……へっ?」

 

 俺にはカンケーない、と完全に無視を決め込んでいた俺は、突如としてその輪の中心から名前を呼ばれてびっくり仰天、立ち止まった。

 おそるおそる首を曲げれば、ひっ、やっぱり女子の集団がきつい眼で俺を見ていて、それからその人垣を割るようにして現れた男子の制服が見えた。

 それを纏った人の姿を認めて俺は唖然とする。

 

「……遙」

 

 名前を発音した瞬間、女子たちの目線がさらにきついものになった。ええ! 何でだよ!?

 と、そんな俺には構わずに、遙がようよう彼女達の中から脱出してきた。また彼の後ろから現れた人影に気づいて俺は二度仰天する。

 

「深紅!?」

「蒼路、彼女を頼む」

 

 遙は言いざま生真面目な顔で俺を見つめた。

 碧の眼にただならぬ光が踊っている。

 俺は傍に立った深紅と彼とを見比べて、とりあえず、何事かあったらしいと悟る。

 俺とは違ってまだババアの屋敷に滞在しているふたりは、姫である深紅の警護もかねて共に登校することになっていたはずだ。

 

「……何かあったのか?」

 

 声を低くして尋ねると、先輩も声を潜めた。

 

「屋敷を出た瞬間、襲撃を受けた」

「しゅ」

 

 思わず声を荒げそうになった俺の口元を、先輩の手が覆った。

 

「しっ。大丈夫だ、怪我は無い。くわしくは後で話そう──今は、僕がちょっと立て込んでいる」

「……。そのようだな」

 

 持てる自制心を最大限に発揮して、周囲を冷静に見渡すと、俺はようやくそれだけを言った。

 落ち着くために一つ深呼吸をして、それからよし、と呟く。

 ついと遙の目を見やって俺は言った。

 

「わかった。また後で」

「ありがとう。では、姫。失礼仕しつれいつかまつります」

「……ああ」

 

 軽く会釈してから遙は風のように去っていった。

 同時に彼を取り巻いていたギャラリーも去る。

 突如として落ち着きを取り戻した正門前、俺は深紅をちらと見やった。

 端麗な横顔が張り詰めている。

 さっき遙に応えた声も低かったし、どう考えてもご機嫌ナナメだ。

 

「深紅。……俺たちも行くぞ」

 

 言葉をかけると黒曜石の瞳が俺に向けられた。

 思わず居住まいを正すも、その瞳に浮かぶ感情が予期していたほど苛烈ではないことに気づき、俺はおやと思う。

 確かに機嫌は損ねているようだが、だが彼女にしては珍しく激怒しているわけでもないようだ。

 ……襲撃を受けたというのに?

 怪訝に思って見つめていると、彼女はふいに瞳を逸らした。

 軽く俯いた拍子、つややかな髪が揺れ動き、額の痣が露になる。

 胸が痛んだ。

 

「……蒼路」

「うん?」

 

 名を呼ばれて即座に応じる。

 と、彼女は何故か、少し寂しそうに微笑んだ。

 その表情に胸を突かれて俺も彼女の名を確かめるように紡いだ。

 

「深紅?」

 

 呼ぶと彼女は瞳をきつく細めて俺を見た。

 が、すぐに顔を背けると、さっさと先に立って歩き出す。

 俺は慌ててその背を追った。

 

「おい、深紅? どうした、待てよ!」

「……なんでもない。ひとりで大丈夫よ。わたしは強いし」

 

 そういう問題ではない。

 駆け寄って肩を並べたその体は、ほんとうに小さくて華奢な、普通の女の子のものなのだから。

 

「それは知ってるが、心配だから言っている。少しは頼れ!」

「……甘やかさないで」

「あ? 何言ってんだ、これは俺の我儘だ」

「じゃあ我儘言わないで」

「聞けねぇな。我儘はわがままだから我儘なんだ」

「……早口言葉みたいね」

 

 昇降口めがけて進みながらそんな風に言葉を交わした。

 最後には深紅がくすっと笑ってくれたので少しだけ安堵した、が。

 俺は内心で首を傾げる。

 ──やっぱり最近、コイツ変だ。

 

 ***

 

 しかし、襲撃とは穏やかな言葉ではない。

 暇な始業式のあいだじゅう俺は考えていた。

 絶えず二年生の列に意識を割きながら、誰がそんなことを持てる頭脳を総動員する。

 大したことは無い脳みそだが、なんにも考えないよりはマシであろう。

 

(……狙われるとしたら、やっぱり深紅か)

 

 俺は思った。

 胸くそ悪い話だがそうとしか思えない。

 遙は将来有望だと思うが今のところ新参者の星導師というだけの男で、しかも十七歳の子供で、誰かに狙われる要因は限りなく低い。

 まあ彼が一学期中に君見丘で暴れたことを考慮に入れれば、もしかしてどこかで彼に憎しみを抱いた人間がいたかもしれないが、それだって深紅という存在と比較すれば考えるに値しないことに思えた。

 ──深紅。五辻の次期当主に定められた娘、俺たち星導師の姫君。

 あああ、本当この件に関しては、俺は許されるなら考えたくないんだが。

 腹を括るより致し方あるまい。

 御身に災厄ふりかかれば、身を挺してお護りするのが臣下の役目だ。

 

(敵は誰だ? 陰陽会いんようかいか、他の異能者か、あるいは五辻に恨みを抱くほかの誰かか)

 

 陰陽会とは日本の異能者を取りまとめる組織の名前だ。

 俺たち星導師もその名簿に名前を登録されている。

 俺と深紅と遙は七月の始めに陰陽会と小競り合いをやらかしたのだが……あれは一応終結していて……うーん、でも結構向こうをおちょくった態度を取ったから、憎まれてもしょうがないような気はする。

 

(でも、元々陰陽会と星導師、ひいてはその長である五辻は仲が悪いし)

 

 今更、という気も大いにするのだ。

 俺は眉を寄せて考え込む。

 と、周囲の生徒達がいきなりお辞儀をしたので慌てて倣った。

 どうやらどっかの誰かの挨拶が終わるか始まるかしたらしかった。

 あああ面倒くせぇな、早く終わんねぇかな、と考えながら再び顔を上げる。

 壇上に誰かが出てくるのが見えた。

 だがそれが誰なのかを認識するよりも早く、俺の意識は二年生の列に起きた異変を捕えていた。

 直立不動であるはずの生徒達の列に乱れが生じている。

 紺と白という制服の色彩の合間から、床に突かれた細く白い手が見えた瞬間──俺は飛び出していた。

 そのまま、糸が切れたように前のめりに崩れ落ちそうになった手の持ち主を、床にぶつかる寸前で抱え上げる。

 にわかに騒がしくなった。

 

「……深紅!!」

 

 


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