花の笑顔
「仲良しとは思ったこと無いけど」
「そりゃ、当人だからね。これは僕の客観的な意見」
「仲良しに見えるって?」
「うん。特に、姫の、君に対する態度は明らかに他者に対するそれと一線を画してる」
「ええー? ……そうかぁ?」
風呂は屋敷の西の対にある。
屋敷の規模に比例してけっこうな大きさの風呂で、大の大人が二、三人程度ならば問題なく一緒に入れる。しかも檜で造られてるので香りが良い。
ババアの屋敷のなかで俺が一番好きなスポットだった。
「あー、生き返るなぁ。やっぱ風呂っていいわ」
「この一月、ずっと野外生活だったからね」
「……思い出したくねぇな。よく生きてると思うよ、俺たち」
「でも蒼路は毎年こんなことやらされてるんだろ? ほんと尊敬するよ。山篭りの前は屋敷に缶詰で術の特訓だったし。……その後すぐ、呪力が回復しない内に山に放り込まれたし」
「や、普段はここまでじゃねぇぞ。たぶん遙が新しく弟子になったから、ババアも張り切ってんじゃねぇのかな」
「ありがたくて涙が出るね」
「まったくだ」
「あーあ、でもようやく休みが明けたと思えば今度は文化祭だし。……あ、っていうか夏休みの宿題があるか」
「ああ!! ぜんっぜんやってねぇ!!」
「……後で一気に仕上げようね」
他愛も無い会話を交わす声が浴場に響き渡る。
程よく熱い湯は三十日間のサバイバル生活の間に積り積もった汚れを心地よく洗い流してくれた。
両手で風呂の水をすくいあげて顔を洗うとものすごく染みた。
いって、と再度呟くと、隣で遙がくすくす笑った。
「そりゃ染みるよ。後でまたようく冷やさないと」
「あー。やだな、夏休み明けはインド人だぜ。遙は焼けなさそうだよなぁ」
「そうだね。赤くなって終わり。……っていうかさ、蒼路」
「んー? 何?」
遙の穏やかな問いかけに、俺は風呂桶のふちに両手をかけ、天井を見上げながら答える。
彼は言った。
「さっきの続きなんだけど。ほんとーに、自覚ないの?」
「自覚って……え? 深紅のはなし?」
「そう。姫は明らかに君に対しては態度がやわらかい」
俺は首を傾げた。そうだろうか。
本気でわからない。
それは違う、と思うよりも、深紅が俺以外の人間と話しているのをほとんど見たことがないからわからない、というのが正解だろう。
「……比較対象がいないからわっかんねえな」
俺は言った。
遙が首を傾げる。
濡れた前髪を搔きあげて額を出している彼は、普段と違って甘い顔立ちに歳相応の男らしさが漂っている、気がする。
「だって、姫にだって友達はいるだろう?」
「見たことない。深紅が転校してきたのは一学期も終わりの頃だったし、大体俺とあいつじゃ学年が違うだろ」
「あー、そうか……。でも君と姫って幼馴染なんだろ? 昔なじみとかは他にいないの?」
「いないな」
俺は断言した。
すると遙の眉が雄弁につりあがったので補足を加えた。
「俺とあいつが幼少を過ごしたのは星師の里、つまり五辻の里だった。そこで暮らす人間は皆、五辻のことを恐怖にも似た感情で敬っててな……屋敷の影も土足で踏めないぐらいの。だから深紅に友達なんているわけない。わかるだろ」
「……恐れ多すぎて姫君とお友達になんてなれないってこと?」
「そゆこと」
俺が軽く請け負って眼を閉じると、遙はしばし黙考したのち、また口を開いていた。
「でもさ」と耳に快い声音が湯殿にひびく。
しつこいな、と思いながら俺はうすく眼を開けて彼を見た。
「何だよ」
「例外が、いるだろ。今僕の目の前に」
びしっと指差されて俺は軽く仰け反った。そう来たか。
「……まぁ、俺は、バカだし……あんま序列とか差異とか考えないから。それに俺が深紅を特別扱いするのはあいつが姫だからってわけじゃないしな」
「え? 違うの?」
「違うよ」
意外そうな言葉に対して短く、だがきっぱりと否定する。
首を反らせて風呂桶のふちに頭を乗せ、ついでにそのまま軽くストレッチしながら俺は淡々と言葉を紡いだ。
「……俺には責任があるんだ。深紅をこの命かけて守る責務が」
遙は黙っている。
言葉の続きを待っているのだろうと俺は判断して、その通りにした。
「お前はこれを大義名分とか、忠誠心として捕えるかもしれないけど。違う。……これはそんなに立派なもんじゃない。俺の、勝手だ。俺は深紅がどうしようもなく大事で、可哀想だ。あいつを見てると居てもたってもいられなくて何かしてやりたくなる。可哀想と思うのには確かに一つの理由があるが、それだって俺のこの感情の理由の全てにはならない。ほど遠い。だから、本当にこれは俺の我儘なんだ。深紅を護って護り抜いて、彼女が限りなく幸福になれるようにと、俺は生きたいから」
語りながら脳裏によぎった面影に、俺は湯気に濡れたまつげを伏せた。
──そう、幸福に。
彼女の日々が穏やかで優しい、春の陽だまりのようであるようにと、俺は切に願って止まない。
彼女は苦しむために生まれてきたんじゃない、ちゃんと幸せになるために生まれてきたのだから。
だから俺の命がそのために役立つのなら、俺はほんとうに何でもしよう。
(蒼路)
屈託なく俺の名前を呼んでくれる、なんの迷いもなく手を伸ばしてくれる、あのひとの笑顔が。
──大輪の花のように輝いて、健やかであるように。
「……」
「……遙?」
瞑目していた俺は、ふと遙が完全に沈黙していることに気がつき、眼を開けてふたたび彼を見やっていた。
湯煙にかすむ碧の瞳、その双眸はこれ以上ないほど大きく見開かれて俺を凝視している。
秀麗な顔立ちを片手で覆うようにして、遙は何か、とてもつもなく驚いているように見受けられた。
「……何、遙?」
碧の目線のただならぬ迫力に、俺は少し及び腰になりながら言う。
すると彼は恐ろしくゆっくりと──形良い唇を開いた。
「……もしかしてさぁ、蒼路」
「……なんだよ、だから……」
言いようの無い恐怖を感じてじりじりと後ずさり、したくなった。が、おあいにく、ここは風呂で背中の後ろは風呂桶にホールドされている。
逃げ場の無い俺をもう一度ひたと見据えて、遙はまっすぐこう問うた。
「──姫のこと、好きなの?」
轟沈した。
***
「ないっ。無いないないっ! あいつは姫だぞ、俺たちの姫!!」
「それは関係ないだろうー。っていうか、姫だから好きになっちゃ駄目とかあるの?」
「声がでけえんだよ遙!」
「蒼路のほうが大きいよ」
「……」
遙の穏やかな指摘に俺は無言でふすまを閉めた。すぱん! と快い音が静かな屋敷に響く。
風呂上り。
用意された浴衣に着替え、俺たちはババアに与えられた部屋に下がったところだった。
部屋には既に布団が敷かれており、食事の用意をするまでは休んでいていいとの旨が式神によって知らされた。
ババアは鬼のように厳しいが、こうして修行が終わったあとや、任務をこなしたあとは、例え俺たち子供に対してでもきちんと労をねぎらってくれる懐の大きさを持ち合わせているのだ。
俺は布団の上に座りなおすと遙に正面から向き直った。
「……そりゃ、だって主だぞ? 同じ高校に集まっちまったから普段はそうは思わないけど、本来は主従関係にあるんだぞ、俺たち」
「ん~~何かぴんとこないなぁ」
遙は呑気に首をかしげる。黒の浴衣を着こなした襟元から首に浮かぶ星印がのぞいた。
その態度に毒気を抜かれて、俺は布団にへなへなと両手を突く。
「それは、お前がアストリアだからだろう……」
「いや、僕達だって一応ね、アストリアは亜流で、星の本当の血筋は五辻という尊く気高い一族が先祖なのだと教えられてきたんだよ。現当主は歳若く精悍な若君で、その妹姫が時期当主に御成りあそばす御予定だってことも」
「だったら──」
「──でもそれが、君が姫を好きになっちゃいけない理由にはならないと思うんだ」
日焼けと風呂上りのために上気した頬で、にっこりと笑う。
美しい表情に騙されて、思わずそうだね、とか言いそうになるのを顎を引いて堪える。
息を整えるためにひとつ深呼吸をして、俺はやれやれと首を振った。
「……まあ、いいけど。お前がどう思おうが、俺はそうは思わないから」
「頑固だなぁ。バレバレなのに」
「るせぇよ!?」
「──っていうか、僕はいいと、思うのにな」
ふう、と小さく息を吐き出しながら、遙はそう呟いた。
まだ言うかと俺は彼を軽く睨む。今日の遙はやけにしつこい。
だが遙はそんな俺の視線をすっとぼけた表情で受け流し、ひょうひょうととんでもない台詞を吐いた。
「君に愛されたら、姫はきっと幸せなのになぁ」
「……あ……っ!?」
遙の一言に俺が再び撃沈した時、ふいにぴぃん、と大気を揺らす、鳴弦の音が響いた。
俺は布団に沈んだままその音を聴いた。
──鳴弦? ちがうな。
この音は。
「……琴?」
ふしぎそうな遙の一言に顔を上げていた。
澄んだ弦の音は静かに、だが確かに屋敷の空気に波紋を広げていく。
吸い込まれてしまいそうなこの音色を、俺は以前にも聴いたことがあった。
「和琴だね。誰が弾いてるんだろう」
「……深紅だ」
遙の疑問に小さな声で答える。
彼はえ? と瞬きした。
「姫君?」
「多分。育ちが育ちだけに、あいつは昔から邦楽が好きだったから」
「ほうがく。君の口からそんな言葉が聞けるとは」
「っせえな。こう見えて俺にも楽のたしなみくらいあらぁ。そちらさんの音楽に疎いだけで」
驚きの混じった遙の声に軽く苛立ちを覚えながら吐き捨てた。
すると遙はさらに驚いた。
大げさなほどに。
「えええ!? ちょ、本当に!? 楽って何、何が弾けるの」
「……なんか腹立つぞ、オイ」
引きつった笑顔を浮かべながら俺は立ち上がった。
そのまま部屋の隅っこに立って行って、ボストンバッグに詰めた荷物の中から柔らかい皮の包みを取り上げた。
きょときょとと眼を瞬く遙を尻目に包みの中身を取り出して、それを片手に襖を開けて廊下に出る。
「蒼路?」
「うーるーせーぇ」
追いかけてくる遙の声に悪態をついて、はだしで廊下を歩いていく。
いま俺たちがいるのは屋敷の母屋だが、琴の音は深紅のいる東の対から響いている。
磨きぬかれた白木の廊下は火照った素足に心地よい。
壁の無い縁側に吹き付けてくる夏の夕風はやさしかった。
琴の音は次第にその存在感を増し、遠くでするヒグラシの鳴き声が、筝曲に不思議な調和を見せていた。
「……このへんでいいか」
やがて東の対に続く渡り廊の手前で、俺は立ち止まった。
ぱたぱたと音を立てて遙も駆け寄ってくる。
俺は彼には構わずに縁側に腰掛けた。
夕風に凪ぐ池の水面を正面に、片足を膝の上に乗せて組み、バランスを取る。
「蒼路ってば。何するつもり?」
「……」
俺は眼を閉じた。
すうっと深く息を吸って、手の中に握っていたものを唇に当てる。
ひやりと冷たい感触が伝わった。
「龍笛……!」
琴の音に耳を集中させると、遙の声が遠くなった。
琴の音を除いて、全世界の音が消えうせたような錯覚に陥る。
その瞬間を狙って俺は息を吸い込んだ。
***
龍笛の高く細い音が、大気に柔らかく漂っていた琴の音を捕まえる。
突如割り込んだ笛の音に、琴の弾き手は一瞬驚いたように音を止めたが、だがまた程なくして弦をかき鳴らし始めた。
俺はちいさく微笑んで、さらに伸びやかに旋律を吹き鳴らした。
──楽ってのは不思議なもんだ
実際に人と人とが言葉を交し合っているわけではないのに、音を聴けばその心の内が見える気がする。
親父は琵琶を弾き、彼の妹である叔母さんが多種多様な楽を好んだ。そのために俺も幼少時代から楽に親しんでいたのだ。
里に居たころは五辻の屋敷で楽の宴が催されることも多かった。
そのおかげで、俺は深紅と出会うことができたのだった。
──懐かしい
想いを込めると笛の音が空へ上っていくようだ。
深紅の琴はそんな俺を邪魔することなく、だが決して流されるわけでもなく、しっかりと包み込んで己の響きのなかに調和させてしまう。
……親父に手を引かれて行った宴の席。
難しい話ばかりをする大人たちの中に混じり、窮屈な思いをしていた俺の前に、彼女は突然現れた。
紅い着物に肩まで伸びたつややかな黒髪。
人形のように愛らしい容姿だったが、その冴え冴えと大きな瞳は、およそ人形は持ち得ない強烈な意思に輝いていた。
(蒼路。あの方が姫君だ。ゆくゆくはお前が、命駆けてお護りすることになる御方ぞ)
そう言って肩を叩いた親父の横顔を、俺は彼の腕の中から仰ぎ見たのだった。
(……ひめぎみ?)
(そう、姫君だ。御歳八つになられる、聡明でお美しい、世にも類まれな我らが姫)
(まもるの? 僕が?)
(そうだ。お前が、護るんだ)
繰り返されて、その言葉の意味はわからずとも、胸に湧きあがった喜びに体が震えた。
やがて深紅は用意された舞台の上にちょこんと腰掛けて、小さな手で琴を奏で始めたのだった。
そしてその音色と彼女の美しさに魅入られた俺は、親父が止めるのも聴かず、今と同じように懐から笛を取り出して──
──あの花のような笑顔と、出会ったのだ。
「…………」
琴の音が、止む。
龍笛の音色は空高く舞い上がり、長く永くその余韻を漂わせた。
俺は胸に沸き起こったあたたかで穏やかな感情に陶然と瞳を閉じて、しばしじっと動かずにいた。
やがて空気は完全に鎮まって、再び遠くからヒグラシの声が聴こえて来る。
ほう、と息を吐いてまぶたを開けると、世界が戻ってきた。
池の水面が陽光にきらめいている。
二匹の鯉が機嫌よくそこを飛び跳ねる姿が見えた。
そして俺のちょうど斜交いに位置する東の対、その廊下に、今しも姿を現した女の子の姿が──。
「──深紅」
柔らかく、歓喜に満ちた声で俺は彼女の名前を呼んで。
知らず知らずに微笑んだ。
花の笑顔が廊下をまわり駆け寄ってくる。
たまらない喜びに突き動かされて俺も立ち上がっていた。
「……なんだ。やっぱり、バレバレじゃないか」
背後で呟いた遙の声はほとんど耳に入らなかった。