呪術
一日ぶりに見る、深紅の顔は怖かった。
……や、誤解しないで欲しいんだが、俺は彼女を綺麗だと思う。
その意志の強い眼も、すっと伸びた背筋も、つややかな陶器のような白肌も、ほんとに嘘偽り無くものすごいきれいだと思っている。
だが!
今の深紅はその麗しい顔立ちに一切の表情という表情をのせず、ただ両の瞳だけを凍てつく怒りにぎらつかせているのだ。
それがまこと恐ろしい眺めなのだ。見つめていると足元から震えが這い登ってくるほど。
知らずごくりと息を飲み込み、言葉を失ってしまった俺であったが、彼女はこちらには眼もくれず、巫女の前に立ちはだかると短くひとことこう言った。
「遙、放せ」
遙は即行従った。
巫女を羽交い絞めにしていた腕をぱっと開いて彼女を放す。
「ええっ!?」
何をするのかと思わず叫んだ俺の目の前で、当然ながら巫女は脱走を試みた。小柄な体を獣のように低く伏せ、驚くべきスピードで疾走を開始する。
だがその行く手に音もなく立ちふさがったものがいる。
一頭の青い鹿である。
小柄な体躯に青みを帯びたつややかな黒い毛並みをし、やや内側を向いて生えたりっぱな二本の角。
「青藍、捕えろ」
主に命じられて彼は無言で巫女の首根っこに噛み付くと、そのまま驚異的な力で咥え上げてしまった。巫女が絶叫し、耳を覆いたくなるほどの悪口雑言を撒き散らし始める。
「やめろ、放せっ! このクソガキ、人でなし、化け物、ブス! なんなんだ……さっきから不気味な力ばっかり使いやがって、貴様ら一体、何者なんだ!!」
怒り狂っていると同時に本気で恐怖し慄いている声であった。俺は眉をひそめた。ふと見ると遙がいつのまにか横までやってきて俺と同じような顔をしている。
眼が合うと遙は肩をすくめる仕草をして見せた。
その碧の瞳を見れば、こいつがいま俺と同じ疑問を抱いているということは明白だ。つまり。
──この女性はほんとうに異能者なのだろうか、と。
「それはこちらのセリフではないのか」
青藍に咥えられたままじたばたと暴れる巫女の前に、全身から凍てつく殺気を立ち上らせながら深紅が立った。
地を這うような声をしている。ヒエー。
「きさま、それでも弓を操る身か? いやしくも武道に通じた者であるなら人に名を尋ねるより先に自らが名乗るのは常識であろう」
「……なんだと、この……!」
巫女は怒りに顔を染めて深紅を睨んだが、彼女のぎらぎらとした双眸に出会うとさすがに言葉を飲み込んで口を閉じた。
今の深紅はそれほど尋常でなく怒った様子であったのだ。
俺は思わず遙にこう囁いていた。
「なあ、遙、深紅なんであんなに怒ってんだ?」
「君もさっき怒ってただろ。おんなじ理由さ」
彼はやんわり微笑んで囁き返した。ウィスパー・ボイスでも最高に響きの良い声である。
俺は首をかるく傾げて答えた。
「俺の場合は、お前らの幻影を差し向けられたから、卑怯すぎてむかついてな……」
「おんなじだ。僕らの元にはきみの幻影が送られてきた」
「えっ!」
告げられた事実に俺は眼を丸くした。うそ。
遙が笑い、制服の肩がかすかに上下した。
「もう、それで姫がすんごい怒っちゃってね。今朝からすこぶる機嫌が悪かったんだけど、学校に襲撃を受けた上、姿を隠した巫女に弓を射られて、とどめに仲間、しかもきみの幻影だろ。ぷっつんしちゃったみたいだよ。絶対に捕えて袋叩きにしてやるって豪語しておられた」
「……合掌だな」
「まったくだ。ところで蒼路、きみ、眼は平気なの?」
あざやかなエメラルドの瞳を瞬いて遙は俺を覗き込んできた。
しかしながらそれに対して俺が答えようとした時、深紅が猛獣のように唸った。
「黙りおれ! 蒼路に遙!」
「は、はいっ!」
俺たちは反射的に飛び上がって返事した。やべえ聞こえてた!!
どうやら深紅はほんとうに虫の居所が悪いらしい。
これ以上喋っていると自分達の身も危うそうなので黙っていることに決める。
あたりが静まるのを見計らって深紅はふたたび口を開いた。
「……良いか、女。今の私は冗談でなくお前を殺すこと厭わぬぞ。私情で我らを振り回し、無関係な人間を巻き込んだ愚か者。お前のような異能者には手ひどく躾が必要じゃが、貴様はどうも自分が異能者だという自覚すら持ち合わせていないようじゃ。それが──そんな無知な身で貴様は我らを狙ったというのか! 身の程知らずにも程があるわ、この大馬鹿者!!」
始めは淡々と喋っていた深紅であったが、喋る内に怒りが収められなくなったようで、最期には巫女を思い切り怒鳴りつけていた。びりびり肌に響くほどのその声に俺は思わず身を縮めたし、遙もひゅうっと口笛を吹いた。
当の巫女はといえば、年端もゆかない小娘に頭ごなしに怒鳴りつけられ、屈辱と混乱のあまり言葉が出てこないようであった。
真っ赤な顔をしながら唇をわななかせている。
「な……っ、こ、このガキっ……」
「五月蝿い黙れ」
深紅は完全に聞く耳もたない。おもむろに右手を掲げたかと思ったら巫女の頬に人差し指を突きつけた。しゅ、と音が立ち、何が起きたのか巫女が悲鳴を上げて肢体を仰け反らせた。
「熱いっ!」
本気の悲鳴だった。俺は彼女の白い頬が真っ赤に火傷しているのを見て取って何が起きたか理解した。
水の性質を持つ深紅だ、その力を応用して指先から熱湯を放っているのだ。
遙と目線を交し合って頷き合うと、俺たちはふたりで慌てて止めに入った。
「深紅、やめろよ! そーゆーのいじめっていうんだぞ!?」
「止めるな馬鹿者! この女は完全なる加害者ぞ!!」
「うあっち!! そ、そりゃそうだけどよ……!」
深紅の腕を掴んだ俺も悲鳴を挙げていた。熱い。
いまや深紅は全身から怒りの水煙をたちのぼらせている。しかもこれ、沸騰してる。湯気だ湯気。あああ近くにいるだけで熱ぃよ全く!
しかし俺はそれでも深紅の腕を放さず、なんとか説得を試みた。
「でも何か事情がありそうじゃねぇかよ、せめて話くらい聞いてやれよっ!」
「またそれか! 何もかもお前の思い通りに話が進むと思ったら大間違いだ、この愚か者!!」
「別にそういうわけじゃねぇだろ! ただこの人が俺たちにとって加害者なら、俺たちもこの人にとっては加害者かもしれない。そう考えるのは間違ってるのか?」
「──」
俺のひとことに深紅の吊上がった瞳がいっしゅん見開かれた。
すかさずその隙に遙が動いた。
深紅と巫女のあいだに割って入ると、巫女を背中にかばうようにして立ち、穏やかに言った。
「蒼路の言う通りです、姫。どうぞ落ち着かれませ」
静かな言い方に深紅はぐっと言葉に詰まった。
甘く良き声はこういう時には便利である。昂ぶった心を落ち着かせ、鎮静化させる効果が高い。
深紅が言い返さないのを見て遙はもうひと押しだと言わんばかりに言葉を続けた。あくまでも静かに。
「貴女は感情で行動してはならないのです、姫。僕や蒼路はともかく……貴女はゆくゆく我らの上に立ち、我らを束ね導く者。この巫女殿が何者なのか、誰の差し金で僕らを狙ったのかはわかりませんが──仮に陰陽会が絡んでいるとしたならば、貴女様の軽はずみな行動は彼らにとって星導師をつぶす格好の餌にしかなり得ません」
遙のことばに深紅は低く唸るようにして答える。
「……お前もこれは陰陽会の攻撃だと考えるか?」
「例えばの話です。でも可能性が無いわけじゃない。しかし例え相手が誰だったとしても、我らが星導師の姫であるあなたが、いかに敵といえど神の血を引く巫女殿をせっかん死させでもしたら……間違いなく五辻家の評判は地に落ちる。ひいては星導師の社会的地位も。そうなれば我らは破滅です」
「わかっている。別に殺すつもりはない。ただ少しこらしめてやろうと思っただけだ」
深紅が憮然と答えると、遙は優雅に微笑んで一礼した。
「貴女は苛烈な姫ですから。行き過ぎになる前に止めるのが我ら臣下の役目と心得ております」
「性格が悪くてわるかったな」
「そうは言っておりません」
俺の手の下で、さきほどまで燃えるようだった深紅の体温がすうっと冷めていくのが感じられた。
ほどなくして水煙(ていうか湯気だけど)もおさまり、深紅は壮絶な仏頂面をしながらもいつもの彼女に立ち返った。遙は偉い。
「……確かに少し感情的になりすぎたかもしれないわ。ごめんなさいね、遙。蒼路」
ややあった後、いつもの口調に戻って深紅がそう言った。
俺と遙は目配せを交し合うとお互いわずかに微笑んだ。
己の過ちを素直に認めることができる、この姫だからついていける。
「ま、いーってことよ。それより深紅」
俺は機嫌よく深紅を放した。彼女はちらりと俺に視線を投げて遣す。
「何よ」
なめらかな頬が少し赤いような気がするが、たぶんあれだけ怒ったせいだろうと結論付けると、俺はいまだ青藍にくわえられたままの巫女をぴっと指差した。
「そこな巫女さん。どうするつもりだ?」
「…………」
深紅はとたんに思い切り怖い顔をして巫女を睨んだ。
巫女もまた、怒りに燃える眼で深紅をにらみ返す。
そのまましばし無言の攻防が繰り広げられた。女は怖い。
と、遙がなにやら巫女の傍に膝を折り、制服のポケットから小瓶に入った薬のようなものを取りだしたと思ったら、それを彼女の頬の火傷に塗り始めた。
とつぜん横から伸びてきた手に巫女は心底驚き、さらにはプライドが傷つけられたようで、身をよじって叫んだ。
「何しやがるっ! 情けはごめんだっ、異人のガキが!!」
「異人で結構。でもこれ、薬じゃなくて毒だよ」
ほとばしるような罵倒にも平然と耐えて遙は答えた。とたんに巫女が色を失う。
「どっ……●△※!?」
「う、そ。アロエにラベンダー。火傷にはよく効くんだ」
遙はぺろっと舌を出して見せてから声を転がしてわらった。
深紅があぜんとその様子を見つめて呟く。
「何なの。なんで遙、あんな女と仲良くなってるのよ」
「ありゃあ慣れだな」
俺は腕を組んで注釈した。深紅が怪訝そうな声で問い返す。
「馴れ?」
うんと頷いて俺は続けた。
「遙はハーフだし、元々は半星っていう不完全な術者だったから、いじめや差別謗りは日常茶飯事で慣れっこだっていつか言ってた。それにあいつの妹だったアンナさんも結構ズバズバものをいうさっぱりした姉ちゃんだったからな。あいつ、ああいう傍若無人な態度には馴れてんだよ。たぶん」
「ああ、成程……って違うわよ!! 敵と仲良くなってどーするのよって言ってるの、私は!!」
「お前も最近ツッコミがうまくなってきたな」
「ふざけないで、蒼路!」
「ふざけてねーよ。とにかくさ」
再びいきり立つ深紅の肩にぽんと手を置いて俺は言った。
「まずは話をしないことには何とも言えない。とりあえずは──学校の皆にかけられた術を解いて、それから場所を移したほうがいいんじゃないか?」
そう、ここは学校。
そしてその中にいる人間は全員、巫女の術によって今も眠り続けている。
あまり悠長にはしていられない。
さっき山牙が言ったとおり、耐性のない人間が呪術に嵌まれば、心身になにがしかの影響が出る可能性があるからだ。
「……そうね」
深紅はちいさく息を吸って頷くと、何か決意したような眼を見せた。
***
呪術というものには膨大な種類があるが、そのなかで最も大きい区分は三種類だ。
物理的に攻撃するためのもので、威力は強いがその効果は短時間しか続かない瞬間型。
反面威力は劣るものの、その効果が長く持続する継続形。これは味方を護ったり助けたりする後方援護の術に多い。
そして最期に術者が術を解かない限り、もしくは誰かがその術を破壊しないかぎり効果が持続する永久型。実はこれがいちばん厄介なのだ。
直接攻撃する術には永久型は存在しないが、逆に言えば間接的に術の対象者を苦しめる技に多く存在する。呪いや暗示、催眠などが有名な例だ。術者のレベルにもよるが、凄いものでは十年単位効果の続くものもある。
だが永久型の術にはリスクが伴う。それだけ長期間術を操ることとなれば当然術者の力は減るいっぽうだし、下手をすれば術のお効果が上がる前に術者が力尽きてしまう可能性もおおいにあるわけだ。
さらには術をかけられた方もたまったものではない。呪術に耐性のある人間ならばまだしも、普通の人間が術をかけられた場合、さっき山牙が言っていたように心身にどんな影響が起きてしまってもおかしくないのだ。
だから、少しでも良心のある術者はめったなことでは永久型の術は行使しない。術を用いた時点で自分も相手も大事なものを失うことがわかっているからだ。
だから逆にいえば──永久型の術を使うような術者は良心の欠け落ちた、その心を闇に呑まれてしまった屑だということだ。
そして俺たちの学校にかけられた術は、まぎれもなくこの永久型の術だった。
「そこの女」
深紅が言った。
誰に対してって、もちろん巫女だ。
彼女は答えなかった。ただすごい眼で深紅をじろりと睨みつけただけだ。
「……いい度胸だな。答えろ」
深紅は額に青筋を浮かべながらも続けた。俺はとりあえず彼女の腕を掴んでおく。
「きさま、呪術は操れるのか?」
「呪術?」
巫女は心底怪訝な声でそう繰り返した。
何だソレ、と言わんばかりの態度である。
それを見れば答えは聞かずともわかったようなものだ。深紅はやれやれと首を振った。
「聞くだけ無駄だったな。……こんな無知な女に呪術の呪の字もわかるわけがないわ」
「あたりまえだ!」
巫女はたちまち噛み付いた。
「私は普通の人間だぞ、おまえらバケモノとは違って! いい加減この獣をどうにかしろ!!」
この獣、といいざま自分の首根っこをいまだ咥えたままの青藍を指差す。青藍はいい加減タイクツそうな顔をしていたが、獣と呼ばれて何とも気分を害したような眼をしていた。
深紅が呆れたように女を見て言う。
「何を言ってる。その甚大な霊力を持って普通の人間とは」
「霊力?」
「ほんとうに何も知らないのか?」
心底胡乱げな相手の声に、逆に深紅が驚きに眼を見張った。
俺も遙も驚いた。あれだけの力を持って無自覚とは珍しい。否、たとえ自分が気がついていなくても周囲がほうっておくレベルの霊力ではないと思うが──。
首をひねる俺たちの内心を代弁するように深紅が続ける。
「女。知らないようだが教えてやるが──きさまは立派な異能者だぞ。我々とは種類が違うが、神の血を引く聖なる術者だ」
「馬鹿馬鹿しい。私はただの弓道場の跡取り娘だ」
巫女は虎のように唸った。
「確かに人外の知り合いがひとりいるがな。他でもない貴様らにその知り合いを奪われたから、ここまではるばるやってきたんだ!!」
華奢な全身からみるみる殺気が立ち昇る。
遙が一歩後ろに退き、青藍が困ったように深紅を見た。
深紅は眉をひそめて少しばかり考える様子を見せたが、すばやくこう言っていた。
「つまり第三者の介入があるということだな。きさま一人ではここまで大掛かりなことは出来まい。確かになにか事情がありそうだが、話をあとだ。今は静かにしておれ、女」
「なぜ貴様なんかの指図をっ……!」
「ラン。遙。その女を捕えておれ」
「御意。姫君」
再び怒り狂いそうになった巫女をさえぎって言うだけ言うと、深紅はくるりと踵を返した。
背後でぎゃあぎゃあ騒いでいる巫女と遙たちを気にしながら、俺は当然、深紅の後を追う。
「深紅! どこ行く?」
「学校の中心だ」
彼女は振り返りもせずに答える。
その足取りは強く、まっすぐに、確固たる目標を持っていた。
「学校の中心? ってどこだ?」
俺が繰り返すと深紅の説明が入った。
「場所的には時計塔の真下だな。だから屋上でやるのが一番効果的だ。蒼路、力を貸してくれるか」
「あったりまえだろ」
思わず即答してから、一瞬後に驚いていた。
深紅が人に助力を請うなんて珍しい。珍しいにも程がある。
そこで初めて俺は彼女の横顔が緊張に張り詰めていることに気がついた。
「……深紅」
このひとがこんな顔をするなんて、ただごとではない。
俺は低く訊ねていた。
「一体何をしようとしている?」
深紅は答えた。迷い無く。
「──この術を解く」