朋の元へ
それでもって、今。
俺は高校の正門めがけて坂道を疾走している。
9月の真昼、ちょうど太陽が空の最も高みに上っている──正午だ。
白い光がアスファルトを焼き、俺の額から滴る汗がその上にぽたぽたと落ちて染みを作る。
周辺一体に植わっている街路樹は、少し日焼けしたのか褪せた緑色の葉を物憂げに揺らし、一本一本の脇を通過するたびにきらきらとした木漏れ日の光が眼を焼いた。
──やっぱ、世界って綺麗だ……
こんな緊迫した状況にあるにも関わらず、俺は思った。
陽光のまぶしさに細めた眼の上には、今は目隠しはしていなかった。
たった一日ぶりなのに、眼が見えるということが本当にありがたい事で、けっして当たり前のことではないのだと噛み締めるように実感した。
(──いーかい。絶対に喜代にこのことは内緒だよ。あのひとは何だかんだお前に対して甘いんだから)
そんな風に言いながら俺になにやら術を施してくれた珠枝は、見えるのは今日の日没までだと言っていた。
でも当たり前だけど、できるならずっとこのまま見える状態でいたいと俺は思う。
「……ま、見えないは見えないで、勉強にはなるんだけどな……」
呟いたところで坂道が終わった。
目前に迫った正門を駆け足ですり抜けたようとした瞬間、しかし、たちまち全身を強烈に押し返した見えざる壁を感じて俺は足を止める。
眉を潜めて眼前の正門を見つめる。
正門と、その背後にそびえる高校の校舎を。
一見このうえなくいつもどおりで平和そうなそれは、しかし、明らかにいつもとは違う、見えない力に包み込まれていたのだった。
「……」
俺は額に青筋が浮かぶのを感じながら今一度目の前の空間に手を伸ばした。
何も存在しない、本当に空気しかない場所だ。
しかし指先が正門から以後、ある一点を超えると、その空気は明らかな意思をもって俺を拒むのだ。
伸ばした手を包むぐにゃりと嫌な感触、そしてそれを見極めようとすると全身に広がる吐き気。
『──敵方の結界か?』
「……ったく」
身を隠した山牙の声が聞こえたが、それに答えることはせず、俺はただ無言で右腕を掲げた。
そしてそのまま星印から抜刀する。
『──蒼路……っ!?』
ぎょっと声を上げた山牙をふたたび無視し、目の前の障害壁を斜め十字に切り裂いた。
どんっと鈍く、重い衝撃が刀身に響く。
はじめこそ刃を受け付けなかった結界の壁は、しかし、俺が刀身に呪力を上乗せしたことによって裂け目が生じた。
その隙を狙って刃に体重をかけると、ばりばりと音をたてて亀裂が広がっていく。
刀の手ごたえが急に軽くなり、そのまま勢いにまかせて刀身を上から下に振り下ろした。
「面倒くせぇことしてんじゃねぇぞ!!」
刀を引き抜く。
すると──結界は耳にこもる音をたてて崩れ落ちた。
途端に全身に吹き付けてくる、涼やかで甚大な、風のような力を感じて俺は顔を上げた。
傍で山牙が低く唸る。
『……これが、巫女の……』
「ああ。すげぇ力だ」
言い置いて俺は刀を納め、歩き出す。
先ほどまであれほど俺を拒んでいた正門前の空間を一歩で踏み越え、そのまま校舎めがけて走り出した。
自分の足音が嫌にうるさく辺りに響き渡り、そこで初めて俺は気がつく。
異常に──静かだ。
人の声も、一切の物音も聞こえない。
誰かがいる気配はする。
しかし、彼らがいつもどおりに授業を受けておしゃべりをし、廊下を歩いて移動している──そんな生活の音が一切聞こえないのだった。
まるで、全員が眠ってしまったかのように。
「……まさか……!」
そんなことは、あり得ない。
人の意思や行動を操れる異能者なんて本当に僅かだ。
それだけの力を持つ異能者が稀だという意味ではなく、単純に人としてやってはいけない事だからという意味で。
つまり人ひとりぐらいは簡単に殺せてしまう力を持って生まれた以上、俺たちは自分で自分にそれを許してはいけないし、人に対してこの力を行使してはいけないということだ。
──それなのに……?
俺は走った。
校舎に飛び込み、下駄箱を通過して、すぐ目の前の職員室の扉を開け放つ。
「先生ッ、永富先生……!」
担任の名前を叫んだのは、彼のことは嫌いじゃないから。
だから無事でいて、いつもどおりに返事をしてほしかったから。
──それなのに……!!
眼前に広がった光景が信じられず、俺は扉に手をかけたままその場に呆然と立ちすくんだ。
瞳が凍りつく。
衝撃のあまり膝が折れそうになるのを扉にすがって何とか堪えた。
「……なんで……っ」
震える声が、喉から漏れた。
だがその声に答えてくれる人は──いない。
職員室の中にいる人間は、一人残らず辺りに崩れ落ちていたのだ。
『何と、大掛かりなことを……』
動けぬ俺の代わりに山牙が大気中から滑り出るようにして姿を現し、そのまま職員室の中に歩みを進めた。
散乱するプリントやらファイルやらの隙間を歩いていった彼は、やがて一番手近なデスクの上に突っ伏している男性教師の傍で立ち止まった。
デスクから垂れる、だらりと弛緩した手足に鼻を寄せて、山牙は呟いた。
『……どうやら気を失っているだけのようだな』
「っ、無事なのか!?」
『ああ。命に大事はないだろう──しかし』
山牙は言い刺してふと緋色の瞳を細めた。
『しかし、これだけ強力な術に長時間嵌まれば……心身に影響が出ることもある』
「──……それって」
恐怖にぞくりと眼を見開いた俺を振り仰ぎ、山牙は答えた。
『心を操るほどの術は、大きな弊害を生むということだ』
──その時だった。
俺は見た。
厳かに言葉を紡いだ山牙の、澄み渡った緋色の瞳、そこに一瞬映り込んだ白い光を。
そして同時に全身を押しつぶすほどの甚大な力を感じ、背後の廊下を振り返っていた。
「──」
限界まで見開いた視界に光が溢れる。
そう、光、が。
そこに在った。
まばゆく強く大気を切り裂き、辺りの全てを照らし出す光。
それが、まっすぐに俺めがけて飛んでくるのだ。
『蒼っ……』
山牙が背後で叫んだが、俺は彼を盾にすることだけはしたくなかった。
だから間に合わないとはわかっていても星に手を寄せていた。
光の矢は驚くばかりのスピードと正確さで俺の心臓を狙っている。
そして高く細く辺りに響き渡るのは矢が宙を割く音。
──つまりこの矢は本物の矢なのだ。
術で作られたまやかしではなく。
(射抜かれれば確実に死ぬ……!)
思いながら俺はなんとか刀を抜いた。
眼前に迫った矢を切り落とそうと、刀を持つ手を持ち上げる。
まるで腕が鉛になったかのように重く、全ての動きが鈍く遅く感じられた。
鏃の切っ先が心臓に達する寸前、かろうじて体の前に引き出した刀身が矢を弾いた。
軌道が変わる。
同時に勢いを失くした矢を切り落とした瞬間、耳に届いた声があった。
「──蒼路!!」
重なる、若い男女の声。
俺はぱっと声がした方向に首を向け、それから走り出していた。
全力で。
「遙、深紅っ!」
***
「蒼路、ぶじか!?」
「よかった、来てくれたのね!」
ふたりは二階から続く階段を駆け下りてきた。
息を弾ませ、白い頬を上気させながら一目散に俺めがけて走ってくる。
彼らの姿を目の当たりにして俺もまた疾走しながら、胸が焦がれる感覚を覚えていた。
──たった一日
たった一日、見えなかっただけ。
なのに今、ふたりの顔が見られることがこんなにも嬉しく、眼に滲むものすらある。
(やっぱ俺、こいつらのことホント好きだな)
自嘲した。
好きな奴にはとことん甘く、疑うことすら知らない愚か者。
俺は確かに馬鹿だろう。
──けどな。
「来てくれて良かった、大変なことになってるんだ!」
「そうなのよ、聞いて蒼路!」
まろぶようにして駆け寄ってきたふたりを見つめ、俺はすうっと眼を細めた。
さりげなく後ろ足に重心をかけると手にしたままの剣を握る手に力を込める。そして低く呟いた。
「……かよ」
「え?」
彼らは怪訝そうに眼を瞬いた。
その反応を受けて俺はもう一度、喉から乾いた笑いを漏らす。
「騙されるかよ!!」
絶叫し、同時に刀を振るっていた。
あまりに唐突なこの攻撃を遙と深紅は避けきれずもろに喰らった。
薄い夏物のワイシャツはあっけなく裂け、白い肌に刀身がめり込んだ。俺は冷徹にその傷口を見つめる。
斬った感触がまず異様だった。土くれを斬ったかのように手ごたえが無く脆い。
そして若くやわらかな皮膚の下からあふれるはずの血潮は皆無。
「…………!!」
声も無く腹を抱えこんだ遙と深紅の手の内から鋭利な刃物がまろび出た。彼らはそのまま硬直してうずくまってしまう。
ぴしぴしと陶器が割れるような細かい音を立て、みるみる内にその優美な全身にヒビが入ってゆく。
俺は全身から立ち昇る怒りを感じながら眼前の光景を見つめていた。
やがて彼らの肢体は完全に風化して──体の末端から崩れ去った。
同時に見計らったかのようなタイミングで再び光の矢が放たれた。
俺は顔も上げなかった。
今度は一本ではない。空を切る音から判断して、まさしく矢継ぎ早に次々と射掛けてきているものと思われる。
それら全てを、俺は一太刀で薙ぎ払った。