波紋
──蒼よ。本当に強いとは、一体どういうことだと思う?
繰り返しくりかえし俺にそう問いかけた、兄がいる。
むろん本当の兄ではない。
俺には妹の藍以外にきょうだいはいない。
『彼』は、五辻の息子だった。
嫡出ではなかったが、星師のサラブレッドたる五辻一族の中でも並外れた実力を有しており、幼い頃から周りの大人達をも組み伏せるほどの、誰より抜きん出た存在だった。
その荒ぶる実力に象徴されるように彼はとても激しく強い気性の持ち主で、推進力の塊のようなひとだった。誇り高く自信家で、他人にも厳しいが自分に一番厳しくて、妥協や甘えを許さなかった。
己の身分に遠慮するような人間や、逆に他の異能者で己の権力を笠に着ているようなものなどを露骨に嫌い非難した。
そのせいか序列や格差といったもの全てを激しく嫌悪し、逆にそういった格式ばった価値観に重きを置く五辻のご家老たちとは反りがあわずにいつもぶつかり合っていた。
ゆえに六年前に前御当主が崩御なされて当主の座を継いだあと、『彼』がいちはやく行ったのはご家老たちに隠居を命じ里から追い出すことだった。
理由は適当に見えて的確だった。高齢によって足腰が弱ったせいか、ご家老たちは星師としての職務を忘れ、否、全うできなくなっているからと。
そうのたまって家臣の平均年齢をぐっと下げた。同時に里の外から有能な若い星師を呼び寄せて、星師の総本部とも言うべき屋敷に詰めてもらうことにした。
これゆえ五辻の里は活性化し、他の異能者たちが目を剥くほどのスピードで復興を果たすこととなったのだ。
『彼』は天性のリーダーだった。
強く賢く、無駄を切り捨てる残酷さを持ち、しかしながら道端の草むらから聞こえてくる弱者の声を拾い上げるだけの度量も併せ持っている。
『彼』が屋敷に呼び寄せた歳若き星師たち、つまり現星師の幹部ともいうべき星師たちは相当に個性豊かなくせもの揃いと俺たち下々のあいだでも有名だが──他でもない『彼』の元、驚くほどうまくまとまって組織しているという。
……そんな『彼』であるが。
やはり人間だ。唯一の欠点というか、逆鱗というか、それを前にすればあの鉄仮面の相好がめためたと崩れてしまう、そんな弱点もむろんある。
そしてそれこそが彼の腹違いの妹である姫だ。
そう、俺たちのよく知っている、あの美貌の娘。
『彼』は深紅を溺愛していて、その身に降りかかる災いは自ら全力をもって叩き潰す。
そしてさらには、深紅のそばに寄り付く男は皆殺しにすると公言しており──
「──……それにしても解せない」
呟いて俺は立ち上がった。
手の中の雑巾をバケツにためた水できちんとすすぎ、きつく絞った。
時はさきほどからやや経過して、十時を少し過ぎたところ。
俺は今朝の失態の罰としてババアに屋敷内の家事をするようにと命じられ、今は長大な廊下の雑巾がけをしている最中であったのだ。
「おかしいだろ、どう考えても。……あの恢兄が、めろめろに溺愛してる深紅に襲い掛かるなんて」
ぶつぶつ低く呟く自分の声はまるで怒っているように響いた。
だがそれはあながち間違いではなく、俺の胸の中にはたしかに今、猛烈な怒りが渦巻いていた。
雑巾がけが終わったあとは昼飯の支度だ。だがその前にババアの部屋を訪ねようと心に決め、俺は磨き上げたばかりの廊下を歩き出した。目には見えないが素足に清潔な床の感覚が心地よく、きれいに磨けたようだと思った。
暦の上でこそ初秋だが、残暑はまだまだ続きそうで、とろりと湿った暑気が屋敷の中には立ち込めていた。
清涼な風が時折吹いてはどこかで風鈴をちりんと鳴らす。
だがその快い音を耳にしても、俺の怒りは冷めるばかりか、むしろ燃え上がる一方であった。
「師匠、ご無礼を」
ぞうきんとバケツを片付けて手を洗うと、俺はババアの部屋を訪ねた。
今朝から一転、屋敷はいつもどおりの静けさを取り戻していた。遙と深紅は学校へ行ったのだ。
「なんじゃ。言いつけた仕事はどうした、馬鹿弟子」
鼻を鳴らしてそう言った、ババアの部屋は庭に面している。
彼女は障子を開け放ち、どうやら香りをたしなんでいるようであった。
目が見えずとも気配や音で世界の大体の様子はわかる。
今朝の事件が事件なもので、俺は彼女が頭ごなしに怒鳴ってこないことを不思議に思いながらも、ババアが座っているとおぼしき方向に顔を向けてこう答えた。
「掃除までは終わりました。次は昼餉の支度に入ります、が。……その前に少しお話したく、お願い申し上げます」
めずらしく丁寧な言葉遣いでそう言い、これもまた珍しく、その場にふかぶかと叩頭してみせる。
ババアはさらに鼻を鳴らした。
藤壺と思しき香が漂う。
「……お前にしてはめずらしく、気味が悪いほどの態度のよさじゃな」
「は。真面目にお話したいことがございまして」
「なんだ。──棟梁のことか?」
ババアはあっさりとそう言い放った。
俺は一瞬、絶句した。
わかっていたのかと思うと同時に、ならば何故教えてくれなかったのかと、さらに胸中の怒りをあおられる。
怒りのあまり耳まで熱くなるのを感じながら、俺は低く唸るようにして答えた。
「……気づいて、いらっしゃったのですか?」
「当たり前じゃ。水龍を操るほどの術者がどれだけ僅少と思うておる。むしろわたしはお前が気がつかぬことこそ不思議であったぞ」
「っ、だったら何故!!」
俺は叫んだ。
「何で言ってくれなかった!? どうして教えてくれなかった! 昨日の術者が──俺たちを襲ったあの水龍の術者が、他でもない棟梁だったって!!」
「……棟梁にも何かお考えがあってのことじゃろう」
怒る俺に対して、ババアはあくまで静かにそう言った。
「落ち着かぬか、蒼路。お前とて棟梁のことはよく知っているであろう。いくら年若いとはいえ、棟梁は非常に聡明で有能なお方。あの方がなんの理由も無しにこのような行動に出ることはないと、お前はよくわかっているのではないのか?」
「だからってやっていいことと悪いことがあるだろうよ!! あの人は深紅の実の兄貴なんだぞ!?」
「落ち着けと申しておるぞ、蒼路」
ババアは穏やかにそう繰り返した。本当に、こちらの調子が狂うほどの静かさだ。
俺は怒りのあまりもはや息まで乱していたが、相手がそこまで冷静だと、いきりたっている自分が馬鹿みたいに思えてくる。ぐっと唾を飲み込んで唇を噛んだ。
するとババアは小さく息を吐いた。
「……お前の気持ちはわからないでもない。だがな、お前がそうやって憤激するだろうとわかっていたからこそ、わたしはお前に棟梁のことを言わなかったのじゃぞ。好きなものに関して──こと深紅に関して感情的になるのはおまえの本当に悪い癖じゃ。直しなさい」
「そんな説教聞きたくねぇっ……! 今俺が聞きたいのは、棟梁がなんで深紅を襲ったのかってことで!」
「お前の問いの答えをわたしは持たぬ。棟梁ご本人がなんのご連絡もこちらに遣していらっしゃらないのでな」
「じゃあ完全に個人的な行幸だっていうのか!? なんでだよ、あの人は、五辻はそんなことやってるほど暇なはず──」
ババアの話の内容に俺はふたたび激昂一歩手前に達し、声を張り上げた──が。
「いい加減にしなさい。高村蒼路」
全てを言い終わらない内に喉元にひやりと感じる刃を突きつけられて絶句していた。
***
背筋を震えが駆け上がった。
全然、気がつかなかった。
眼が見えなくたってわかる、これはババアの薙刀だ。
喉元にすうと押し当てられた冷たい刃は、一歩でも動けば正確に俺の頚動脈を切り裂くだろう。
俺は微動だにもできなくなった。呼吸さえ、止まってしまう。
「まったく口を開けば深紅、深紅と……」
動けぬ俺に対してババアはあいかわらず静かな、だが厳格な口調でそう言った。
俺は答えることができない。
何をするんだと声を上げようとはしたが、全身に吹き付けてくるババアの気迫に気圧されていたのだ。
「いつになればお前は自己をわきまえるのじゃ、蒼路?」
穏やかとも言える声で名前を呼ばれ、俺はようやく呼吸をした。
細く息を吸い込んで、そして吐く。ゆるやかに上下した喉には俺の体温を吸収して温まった刃がいまだ押し当てられていた。
額のはじにうっすらと汗がにじむ。
ババアが静かにこう言った。
「蒼路。昔語りをしようか」
「……は?」
「そも我ら星導師が星を得た起源はなんだ」
「それ、は」
突然に問われた内容に、なんでそんなことを聞くのかと思いながらも俺は記憶を辿った。
体のどこかに五芳星を持って生まれ、この「星」のため人ならざる異能を宿す星導師。
俺たちが異能を持つのはまだ神々が人と同じ大地を歩いていた神代の昔、彼らがこの地上に蔓延する闇を憂えたことが始まりだ。
闇とはすなわち地上を穢す悪しきもの全て。命を喰らい、命を殺し、地上の営みを、光を奪ってゆく禍事の総称。
疫病、憎悪、悲しみ、絶望──そしてそれら闇と呼ばれるもののほとんどが我々人間によって生み出され、培われるということに気がついた神々は、どうしたものかと考えた。
闇が発生するそのたびに、自らが出向いて、それを祓うことはできる。だがそれではこれから何千何万年と続く地上の世は、いつまでたっても己を護る術を知らず、闇を受け入れるだけの脆弱な存在であり続けてしまう。
なれば。
いっそのこと、その頼りない二本の足と二本の腕で、驚くほどの速度で地上に村をつくり、町を作り、国を作り始めた人間という存在を育ててみるのはどうか。
彼らは地上を愛するだろう。
地上に生まれ、地上のために死にゆくだろう。
ああ、なれば──我ら神の気まぐれで彼らに少しばかりの力を与えてやるというのはいかがであろう。
少しばかりの力、そして、それを行使して全うするべき重大な使命を。
おもしろい、おもしろい。
人は人が護れば良いのだ。その脆弱な身で何が出来るか、我らはこの天から見守っているとしようぞ。
何、案ずるな。そなたらの姿はどこからでも良く見える。
その体には我らが力を分け与えたという印、遠くからでも一目でわかる、輝く「星」の烙印を与えてやるからな──。
「……我らが星を得たのは、神代の昔、地上にはびこる闇を憂えた神々が、地上を歩く人間に闇を祓う役目を与え、そのための力を与えたことが始まりです」
俺は渇いた喉でそう述べた。
ババアの薙刀はまだ退かない。
彼女はその身にまとう圧力を全く弱めずに、さらに続けてこう問うた。
「そうだ。では我らが五辻とは何者か」
「五辻は──神々から初めて星を賜った、我ら星導師の始祖」
「そうだ。そしてそれが意味することは?」
「……っ……五、辻が、その尊き任務を遂行し続け、この尊き力を絶やさず後世に伝えてきたからこそ、今の我らがある……」
矢継ぎ早なババアの言葉に俺は喉をふるわせた。
残酷だ。
俺がいちばん考えたくないことを、忌み嫌っていることを、この人はわかっていながら敢えて俺に考えさせ、言葉として言わせようとしているのだ。
それがわかって、俺は怒りと痛みに胸が戦慄かせる。
ひざの上で右手をぐっと握り締めて唇を噛んだ。
「五辻、は、神の名代。……ゆえに我らは、五辻のために生まれ、五辻のために死ぬ運命」
「そうだ。つまり、我らは五辻に絶対服従。我らがすべきことは五辻を護り五辻のために星導師の役目を遂行することであり、五辻に干渉することではおよそありえぬ」
地を這うような声が全身を絡め取る。
俺はますます強く唇を噛んだ。鋭い歯牙の感触がやわらかな唇を突き破り、血があふれ出したのを感じたが、止められなかった。
──そういうことかと思った。
さっきからどことなくおかしかったババアの態度、その理由がわかった。
そしてそれは近頃の俺の中でもふくらみ、暴れ始めていた問題で、だから迂闊に口答えすることも、その逆で、認めることもできないと思った。
「蒼路よ」
ババアの、声が。
薙刀よりも尚鋭利な刃として俺の心に突き刺さる。
「……恋をしてはならぬぞ」
俺はただ俯いた。
誰に、とババアは言わない。でもわかる。俺にはそれがわかってしまう。
ずっと、彼女と出会ってからずっと、この心の最奥に揺れ続けていた温かくやわらかな感情がある。
でもそれに名前をつけることは愚か、受け入れることからも俺は眼を背け続けている。
(──姫のこと、好きなの?)
いつか遙に投げかけられた問いに答えることが。
彼女にとって良きことなのか、俺には推し量ることが出来ないから。
「……お前は臣下じゃ。それ以上でも、それ以下でもない。ただお前が彼の女に対してできることは、御身を護りその幸福を見届けること──それのみだと心得なさい」
言葉の出ない俺に対してババアは淡々とそう続けた。
彼女はきっと、朝からこのことで頭を悩ませ続けてきたのだろう。
子供同士の感情のもつれなど取るに足らないものとして笑い飛ばせば済むことなのに、そうせずに、きちんと俺と正面から向き合ってくれた。
その配慮が胸にこたえて、俺は唇を噛んだ。
喉がつまり、声が出なかった。
ババアの言葉には納得したし、自分で自分の役割というものも、きちんと理解しているはずなのに。
──なのに、何故。
心と体が繋がらない。
俺は自分に、嘘をついているわけでもないのに。
「聞いておるのか、蒼路?」
自分でもわけのわからない状況に凝り固まってしまった俺に、ババアが不審そうな声を発した。
喉元からようやっと薙刀が離れる──俺は、目隠しの下ではっとせわしなく瞬きを繰り返した。
そして口を開きかけた。
「はい、無論……」
その時だった。
突風とともに室内に現れた、異形の獣の気配があった。
『──蒼路、喜代、大事だ!!』
「……山牙?」
驚きに声を上げた俺の脇腹に、山牙は挨拶代わりか鼻先をぐいとこすりつけた。そしてまたすぐに口を開いた。
緊迫した、焦ったような声音をしていた。
『姫、姫君と遙の行く手、学校に──』
「……え」
そのふたつの名を聞いて、全身からさあっと血の気が引いていく。
ババアが無言で立ち上がったのが感じられた。
『そなたらの通う学び舎に、謎の射手が……!!』
「また棟梁か──?」
かっと脳裏をよぎった怒りに俺は腰を浮かせていた。
だが完全に立ち上がるより早くババアが言った。
「行け、蒼路」
「は」
俺は一瞬きょとんとした。
いつも無鉄砲なことをするなとか、後先考えずに行動するなとか言われつけているものだから、こうもあっさり行かせてもらえるとは思わなかったのだ。
驚いて、ぽかんと口を開けてしまう俺に対して、ババアはかすかに苦笑したような声でこう付け加えた。
「違うぞ。前置きすれば、その射手は恐らく棟梁ではない──棟梁は実戦で弓はお使いにならぬ。と来れば、その射手は我らにとって完全な敵。未知の脅威じゃ」
「……深紅を狙う、未知の脅威……」
「そうだ。なれば敵の正体をはっきりさせ、排除するのが五辻直属の護衛を務める高村家の担う責務。──行け、蒼路。珠枝を遣す。それに眼が見えずとも、山牙がおれば戦えるじゃろう」
ババアは言った。
俺は、その師匠の一言に、なぜか胸がちくりと痛むのを感じながらも頷いた。
「──はい。師匠」