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あたたかな眠り

 

 ねぇ蒼路?

 私ね、お前に言ってなかったことがあるのよ。

 

 

 ──あのね……

 

 

 ***

 

「よ……っ、嫁入り前の姫君を傷物に──!!」

 

 腕の中に、花の香りがあふれている。

 誰かと幸福な会話を交わしていた気がする。

 そんな、穏やかであたたかい、春を抱いたように心地よくすばらしい眠りについていた俺を、しかしながら二つの声が叩き起こした。

 

「何と言うことじゃ、預かりものの我らが姫によもやこのような非礼を……っ! くっ、かくなる上はこの腹を切って棟梁とうりょうにお詫び申し上げようぞっ……!!」

「き、喜代様!! どうか落ち着かれませ、事実が確認できてもいない内に早まってはいけません!!」

「止めるな遙! 腹切りじゃ、ハラキリ!!」

「……うるせぇなぁ……」

 

 かつてなく快い眠りに全身どっぷりと浸っていた俺は、枕元で騒ぐその声に苛立ちを覚えながら眼を開けた。

 が、すぐにまぶたにぶつかる目隠しの存在に気がついて、舌打しながら身を起こす。

 肌に触れる太陽の光に、遠くで囀る鳥の声。

 あきらかに朝が訪れているとわかる空気の向こうに佇むは──ふたつの星の気配。

 俺は頭を掻きながら低く唸った。

 

「ババアに、遙か? なんなんだよ朝っぱらか……」

 

 しかし。最後まで言い終えないうちに、殴り飛ばされていた。

 

「このっ……大馬鹿もんがぁああぁあッ!!」

「!!?」

 

 バッキぃんっ! と音を立てて、頬骨に沈んだ鉄拳。

 振るったのは、もちろんババアだ。

 まったく予想していなかったその一撃に、俺は背中からふたたび布団に倒れ込んで、たちまちの内に眼を醒ました。

 が、あまりにも青天の霹靂なあまり、仰向けにねっころがったまましばらく物も言えなかった。何なんだ。

 何で起き抜けからこんな風に怒鳴りつけられて、おまけに殴り飛ばされなきゃなんないんだ、俺は!!

 

「……見損なったぞ、蒼路……!」

 

 ひたすら訳がわからずに呆然とする俺の耳に、ババアの怒れる、しかし同時に押し殺したように震えた声が届く。

 俺はますます混乱した。

 ば、ババアが、声を震わせている?

 ……なんで!?

 

「おい、ババ……」

「お前は!! 愚かで後先考えず無鉄砲な未熟者だとは知っておった! だがな、それはあくまで星師としてじゃ!!」

 

 口を挟もうとした俺を完全無欠に無視してババアは続けた。

 戦慄わななく、と形容しても良いほどの激烈な感情を有したその声に、俺は当惑のあまり口をぽかんと開けてしまう。

 ほ、本当にどうしたんだろう。逆に心配になってきたぞ。

 

「いや、だからあの、一体何の話……」

 

 俺は殴られた頬を片手で押さえながら身を起こし、とにかく状況を理解しようと試みる。

 が、ババアは俺の声なんぞまったく聞いちゃいねぇ。

 とにかく一人で慄然としてわめいている。

 

「人としてっ! ひいては男としてこのように道を踏み外す器ではないじゃろうと、私はお前を信用しておったというに! それがあぁあ、何たる酷い裏切りよ! 悲しいぞ蒼路、私は悲しい!!」

「だーかーら、意味わかんねぇんだって師匠!! とにかく人の話を聞いて、っつうか、何がどうなってんのか説明してくれよっ」

「喧しい! お前に師匠と呼ばれる筋合いはないッ」

「はぁあぁあ!? あのなぁ、そういうの今風に言うとヒステリーって言うんだぜ!? まず落ち着いて、冷静に物を話してくれないと──」

 

 俺は完全にお手上げ状態だった。

 元よりババアのお説教は苦手だが、今日という今日はほんっとーに、怒られる理由が全然思い当たらないのだ。

 しかもこんなに彼女が取り乱したところに遭遇するのも初めてで、そのこともまた俺の混乱の度合いをより深いものとしていた。

 と、ここで、ババアに殴られた頬がじんじんと痛み出し、ふたたび顔に手を伸ばしかけた俺は──そこでようやくあることに気がついた。

 自分の片手がしっかと握り締めている、ある「もの」の存在に。

 

「あぁあああ、私が愚かであった! お前の心を知らぬではなかったが、まさかこれほど手が早い男とは思うておらなんだ!! やはり弟子の失態は、師である私が命懸けても償わねばならぬ……っ!」

 

 ババアの──声が。

 耳の上を素通りしていく。

 俺は凍り付いていた。

 顔色がたぶん、青くなるを通り越して白くなっているに違いないかった。

 それほど慄然としていた。驚いていた。

 恐怖していた。

 ──なぜなら。

 

「……んん、なあに? さっきから……」

 

 俺の手が握りしめていたのは、やわらかな女の子の手。

 そしてその手の持ち主は、甘い梅香を身に纏った、我らが姫であったのだ。

 彼女が身じろぎした気配が、繋いだ手から伝わってくる。

 あまく、気だるげな声で彼女は──深紅は。

 俺を、呼んだ。

 

「……蒼路? もう、おきたの?」

 

 鼻にかかったその声を聴いた途端、ついに堪えきれなくなったのか、ババアが涙ながらに絶叫した。

 

「やっ……やはり死んでお詫びを──ッ!!!」

 

 この後、屋敷は騒然となった。

 

 ***

 

「──……姫に、蒼路」

 

 遙が言った。

 恐ろしく静かで落ち着いた、けれど張り詰めた声音で。

 

「とりあえず、状況を把握しようか?」

 

 俺はひたすらがくがくと頷いた。

 そして隣に座る深紅はといえば、先刻のババアの絶叫に飛び起きてからというもの、一言もことばを発していない。

 先ほどまであれだけ動揺しまくり取り乱していたババアは、あまりにショックがでかかったため、遙に宥めすかされて別室へと移されていた。

 まあ……それも仕方が無い、ことだと思う。

 当事者である俺本人が驚愕しきっているのだ、第三者が驚かないはずが無い。

 ──未婚の若い姫(深紅=主)と、彼女と手を繋いで同じ布団に寝ていた同じく未婚の若い男(俺=臣下)。

 しかも双方身に纏っていたのは夏仕様の薄手の単衣のみで、第一発見者である遙に言わせれば、

 

「いかにも仲睦まじく、ぴったりと寄り添いあって眠っていた」

 

 ……ということなのだから。

 誰がどうみても、つまり、そういう……状況に見えるだろうな。

 

「ずばり聞くけど、蒼路」

「は、はいっ!!」

 

 遙にぴしっと名前を呼ばれて、俺は飛び上がらんばかりの勢いで返事した。

 彼は俺と深紅の前に座っている。

 もう体中が恐怖のあまりがっちんガッチンに強張っている俺に、あの甘くも百面相な声で問いかけた。

 

「未遂、だよね?」

「…………」

 

 一瞬、言われた言葉の意味がわからんかった。

 さらに体を硬直させると遙がずずいと身を乗り出してきたらしい、耳元で、俺にだけ聴こえる音量でこう囁いた。

 

「完遂じゃなければ、セーフなんだけど」

「かん……」

 

 すい? と問い返そうとした俺は、だがしかし、一瞬後にはその言葉の意味を理解していた。

 理解、してしまった。

 

「──……まッ! ままっ、まままままさかッ!!!」

 

 俺は絶叫しながら飛び上がっていた。

 全身がヤカンになった気がした。

 あ、もちろん、沸騰したヤカンな。

 脳が熱で蕩けちまった気分だ。全身熱くってまともに物が考えられない。

 

「お! 俺は何も! ほん、ほんとに……そんな、そんな如何わしいことはしてねぇーーーーッ!!!」

 

 全身を震わせながらそう叫ぶ。

 ピーッと音を立てて全身が沸騰しているかのようであった。

 

「……っとに、何ひとつ……! たのむ、信じてくれよっ……はるかぁッ!!」

 

 ──が。

 あまりにも体温を上昇させ、あまりにも力みながら否定の意を叫んだためであろう。

 次の瞬間、俺はその場に崩れ落ちていた。

 頭がほんとうに熱い。興奮のあまり血管が千切れそうだ。

 ヒューズが飛びそう、という表現がぴったりくる。

 きっと、今の俺の頭からはぜったいに白煙があがっているであろうなと、思いながら俺はその場に撃沈した。

 

「……あれ、死んじゃった? おーい、蒼路」

 

 遙が穏やかな声を出して、倒れ臥した俺の背中のあたりをつんつんとつついてきた。

 が、俺はもう動く気力も無い。そのままふよふよと魂が体から抜け出してしまいそうな気がするくらいだ。

 黙ってはんぶん気絶していると、遙はやがて諦めたらしい。その甘い声をかける相手を俺から深紅へと変えた。

 

「ま、いいか。とりあえず蒼路の答えはNOだったけど……──姫?」

 

 あなたは? と、遙は彼女に尋ねた。

 相手が姫であるだけに敢えて問いの内容を口にしてはいないが、それでもその声には絶対に嘘をつくなという、凄みのようなものがみなぎっていた。

 深紅がかすかに息を吸う。

 そして言った。

 

「……ただ、共に寝ていただけよ」

「ただ? いくら幼馴染とはいえ、年頃の男女が共に寝るのは普通ではないかと思うけれど」

「昨晩、話があってわたしが蒼路を訪ねたの。そのまま、話し込んで……互いにひるまの疲れもあったのでしょう。気がついたら眠ってしまっていたのよ」

「成程ね。──けれど、交渉は? ほんとうに無かったんだろうね?」

 

 感情の読めない淡々とした深紅の声に、遙は語気鋭く切り込んだ。

 交渉! と俺は倒れたままさらに爆発する。あーあああ、もう駄目だ、しばらく立ち直れない。

 と、深紅が妙にぼそりとした声で、こう呟くのが聞こえた。

 

「あるわけが、ないでしょう。……こんなこと、言わせないで」

 

 ばか、と。

 消えそうな言い方で語尾に付け足す、その声は恥らっているように聞こえた。

 と、そこで遙が長嘆した。

 どうやらかなり気を張っていたらしく、深く長いため息であった。

 

「……そう」

 

 短く呟いて、再び嘆息。

 安堵したのか、あるいはそうではないのか、どういう意味合いのため息なのかはわからないけれど。

 とにかく遙はそのまま何か考え込むように押し黙ってから、やがておもむろに立ち上がった。

 

「──わかった。じゃあ、僕が喜代さまに事の顛末を報告してくるから。そのあいだに姫は部屋に戻って、蒼路もいい加減起きて」

「……お、おう」

 

 彼の甘い声に、今は絶対に逆らえない。

 まだ衝撃覚めやらない俺ではあったが、とにかく姿勢だけでも正さねばと思いのろのろと身を起こし、生返事を返した。

 隣で衣擦れの音がたち、深紅も立ち上がったのがわかる。

 かすかに鼻をつく梅香に俺は穴があったら入りたい気分だった。

 ……あああ、本当になんたることだ。

 ゆうべ、確かにいつ深紅が部屋に戻ったか記憶がないし、色々話をしながらずっとその、手は握っていたような気がするけれど──。

 感情に流された。

 大儀を思えば、俺の私的感情など排除すべきものであると、頭ではわかりきっているのに、それでも。

 ──その手を離すことができなかったんだ。

 

「……遙。待って、私も行くわ」

 

 部屋を出た遙を追いかけるようにして深紅もその後に続く。

 彼女が遙に話しかけた、その声が、打ちひしがれている俺の全身にさらに冷水を浴びせかける。

 

「そしてお願い。このことを、絶対に五辻には言わないで欲しいの」

 

 ──いくら大事な存在でも。

 焦がれてやまぬ、俺の唯一のひとだとしても、彼女は。

 

「五辻に? 姫、畏れながら、あなたこそがかの尊き血筋を継ぐ御方ではないか」

 

 ……彼女は、我らが姫であるというのに。

 

「わたしはあくまで次期当主よ。そうではなくて、私が言いたいのは、現当主である兄上様にこのことを口外しないで欲しいということ」

「……兄上様」

「そうよ、お前は知らないかもしれないけれど。私の本当のお兄様──五辻、かいというのよ」

 

 ふたりの声が遠ざかってゆく。

 俺はぐっと唇を噛んで俯いた。

 己への苛立ちと怒りが泉のように後からあとから湧き出して、俺の心を、体を乱した。

 

「恢兄様は豪胆な御方。もしもこの事聞き及べば、けっして黙ってはいらっしゃらないわ」

「──……?」

 

 だが、最後に深紅が紡いだその名に俺は強烈な既視感を覚え、はっと身を震わせていた。なんだ?

 何だ、この、感覚は?

 もう六年も会っていない恢兄と、まるでついこの間会ったような。

 

「……恢、にい」

 

 俺は確かめるように、その名前を呟いた。

 我らが棟梁、五辻恢。

 恐ろしく深く、恐ろしく澄んだ、湖のように底知れぬ瞳を持つ男──。

 

「──」

 

 はっ、と瞠目した。ああ。

 そうだ。

 

 

 思い出した。

 

 

 


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