君想い 4
可憐な声に、瞬いた。
遠き日の回想から現実に立ち還るまで、しばしの時間を要する。
ほんとうに随分前のことを思い出していたせいで、軽く眩暈を覚えた。
「……深紅」
その名を呼ぶと、全身から不思議に力が抜けた。
暴れるように脈打っていた心臓も、ゆっくりと落ち着きを取り戻し、悪夢の残滓がようよう体から抜けていくのを感じた。
俺は深く嘆息してから、彼女の声がした方に声をかけた。
「……どうした? こんな、夜中に」
夜のしじまに、俺の声はいやに優しく尾を引いて響いた。
その響きを受けて、深紅がほっと息を吐いたのがわかった。衣擦れの音がたつ。
「……よかった、起きていたのね……体は、大事無い?」
「え? ……うん」
静かな彼女の声に答えながらも、ほんとうにどうしたのだろうと俺は想った。
肌に触れる空気の質感から察するに、いまは深夜一時か、二時過ぎくらいだろう。
こんな夜中に若い娘が、しかも五辻の姫ともあろう御方が、たとえ臣下であろうとも同じく若い男の寝所を訪ねるなどと、当然褒められた行動ではない。
ババアに言わせればそれこそ言語道断、であろう。
そこまで考えて俺ははっと気がついた。
深紅が部屋の前まで来ていたというのに、俺はまったくその気配に気が付かなかった。
星師は互いを気配で読めるというのに、不思議なことに今も彼女の気配は感じられない。
ただ声がするから、彼女がそこにいるのがわかるだけだ。
「……体は何ともない。ってかさ、深紅」
ただ声だけを頼りに俺は彼女の場所を特定しようと試みた。
眼が見えないことに加え、気配も感じられないということが酷く心細い。
自分がいつも以上に無力になってしまったような気がした。
深紅が穏やかに喉を鳴らして俺に答える。
「なに?」
「お前の気配が感じられないんだけど、なんでかな」
「──ああ、それはね」
俺の質問に対して、深紅は行動でもって答えた。
彼女が軽く息を吸う音が聴こえた、と思ったら、次の瞬間ガラスを叩き割ったかのような硬質で高い音が響き渡る。
「え!?」
何が起きたのかとぎょっと身構えた俺は、だがすぐに、薄衣を一枚脱ぎ捨てたかのようにして深紅の気配が顕現したのを感じ取り息を呑んでいた。
障子が開かれる音がする。そしてまたすぐに閉じられる音が。
しゅるしゅると衣擦れの響きを立てながら、あまい梅香が周囲の空気に香り立った。
深紅が言う。
「結界が、張られていたのよ。喜代様によって」
「……屋敷の外に張ってあるのに更に加えて? 多重結界なんて、何のために」
俺は何となく及び腰になりながらそう呟いた。
深夜。誰も居ない部屋の中で二人っきりの若い男女。
男女……やっ、ややや別に下心はないけれどもなッ!?
でもこの状況は、そーとーやべぇっ!!
「それは無論」
深紅の声が一際ちかくで響いた。
同時にふわりと、梅香がやさしく鼻腔をくすぐる。
俺は全身がかっと熱くなるのを感じた。
ちっ、畜生、止めらんねえっ!
「……お前の身の安全を考慮してのことでしょう」
深紅の声は密やかに静かに、妙な色っぽさを帯びてこの空間に響き渡った。
俺はさらにじりじりと布団の上を後退しながら、適当に言葉を選ぶ。
「そ、そうだよな? 俺、間抜けやっちまったし……こんな状況で責められたらどんな怪我するかわかんないしなっ」
「……間抜けなのはお前ではないわ」
「え?」
後退しすぎたせいで背中が壁だか飾り棚だかわからんものにぶつかった。退路を断たれて内心慌てるも、それを表に出すことはできない。
あああ、ほんとーに、ババアにこんなとこ見られたら俺どうしよう! めっちゃ怒られるに決まってる、もう少し深紅を敬えとか、臣下としての自覚を持てとか、云々云々。
……あっ! てか山牙どこ行った!? さっきから気配がしねぇっ!
色々余計なことをぐちゃぐちゃ考えてこの場から意識をそらそうと試みていた俺は、だが一瞬後に指先に触れてきた温もりにびくりと身をふるわせていた。
「っ」
肩が揺れる。
この冷たさ。見えなくたってわかる、深紅の指だ。
彼女が俺に触れている。
「馬鹿なのは……わたしだわ」
「み……っ」
再び心臓が、ばっくばっくと高鳴り始めた。
あまい梅香にしとやかな衣擦れ、手に重ねられた手。
眼が見えないだけに想像上の彼女はいつも以上の美しさと妖しさを持って俺に迫ってくる。
喉元まで心臓がこみ上げてきて飛び出しそうだった。
何も言えずにただ硬直する俺に、しかし深紅はひたすら穏やかに声を続ける。
「……ごめんなさい、蒼路……」
「……っ、え?」
予想外の言葉だった。
思わず目隠しの下で瞬きをしたが、当然彼女の顔は見えない。
だから今、深紅がどんな顔をしているのかもわからなかった。
「ごめんて、何が……」
「……わかっているの」
「え? だから、何が」
さらに怪訝に首を傾げる。
と、さっきから深紅が触れている手の上に、新たな温もりが押し当てられるのを感じた。
何だ、と思わず引っ込めようとした手を、しかし彼女は離してくれなかった。
「わたしが、傍にいると……お前は傷を負うのだわ」
「……深紅?」
おそらく彼女は、自らの額を俺の手に押し当てていた。
かすかに皮膚に触れるあたたかな吐息からそう推測できる。
だが頭の中で想像したその図は、どう考えても普通ではない。
少なくとも深紅は普段、自分から人に触れたりする性格はしていない。
彼女がこんな行動に出るのは、こんな声を出すのは──。
俺は考えた。
──それは、俺がいつも無茶な行動をした時だけ。
「……みこう?」
急速に、愛しさと申し訳なさが胸の中にあふれて満ちた。
俺は手探りで彼女のもう片方の手を、肩をさがして、見つけるとそこから更に彼女の頭を探し出して手を置いた。
「……コウ、あのさ」
「……っ、……な、に……?」
今や深紅の声ははっきりと潤みを帯びていた。
俺はますます弱りながら、彼女の頭をあやすようにぽんぽんと軽く叩いた。
えー、と喉を鳴らしながら必死に言葉を探す。
ぐすっと彼女がすすり上げたのがわかった。
「……この眼のことなら、気にしなくていいんだぞ……?」
俺は言う。
すると置いた手の下で、彼女の頭が左右にぶんぶんと振られたのがわかった。
「気にする、わよ! ……だって明らかに、わたしのせいなんだもん……!」
「や、違う、お前のせいじゃない。俺が、弱いからだ」
「蒼路はわるくない!」
「悪いよ」
子供のように金切り声を上げた深紅に、俺ははっきりとそう答えた。
深紅が動きを止めた。
その頭から指を辿り、なめらかな白い頬に手を寄せて、俺は指先に触れた涙の雫を拭い取った。
深紅がかすかに身を震わせたのがわかった。
「そうろ……?」
耳を打つ不安そうな、細い、愛しい声。
胸に刺さるその声に、目隠しの下できつく眼を細めた。
思い出すのは過去の闇。
失った大切な人、紅い焔、亡びた里。
喪失の痛みは、けっして消えない。でも。
──でも、俺たちは今ここに生かされている。
「……あの日、俺は」
深紅の輪郭に手を添えて、俺は厳かに口を開いた。
この人に、泣いて欲しくない。
悲しい顔をして欲しくない。
それだけだった。
それだけの想いが、恐ろしく強く、はげしく、俺の心を照らして燃えた。
「俺は──お前を護ると決めた。そのためにだけこれからの俺は生きようと」
「……っ」
深紅が、息を呑んだのがわかった。
手の下の皮膚が心持ち熱を増したような気がするのは、たぶん気のせいだ。
熱を増したのは、俺の方だろう。
「親父を、叔母さんを凌ぐくらいの星師になって、いずれはお前の専属の護衛を勤められるくらいになろうって。そう、決めてた。強くなってから会いに行って、驚かせてやろうって」
でも、駄目だったけどな、と俺は苦笑した。
実際には俺と深紅は二ヶ月前に突然の再会を果たしたのだ。
俺の依頼を手伝うために、深紅がここにやって来たことによって。
「蒼路……」
深紅がかすれた声を出した。
驚いているのか、あるいは、照れているのかもしれない。
少なくとも俺は今この状況が猛烈に恥ずかしい。まあ、彼女が恥ずかしがるかどうかはわからないが。
……眼が見えないのも悪いことばかりじゃねぇな、と俺は思った。
ふだんは言えないことが言える。
「今も、その気持ちは変わらない。むしろ強まったと言っていい」
だから、と俺は息をひとつ、飲み下した。
かすかに深呼吸する。
次の台詞を口にするのには恐ろしい勇気が要ったのだ。
「──笑ってろよ、深紅」
「蒼っ……」
手の下で、深紅が一際大きく、ふるえた。
ややあってから、再び手のひらを濡らした涙がある。
後から後から、止める間もなく、それは俺の手を伝ってあふれた。
ああ。
俺はため息を吐き、天を仰ぐ……またやっちまった。
「……言ってる傍から、泣くんじゃねぇ」
「っ、だ、って」
「だってじゃねぇよ……ったく」
いまやしゃくり上げ始めた深紅の肩を、仕方なく引き寄せて抱き寄せた。
……後からババアに呼び出しを喰らうであろうこと必須だが。
もうここまできたらどうしようもない。
どんな理屈も大義名分も届かない。
腕の中に広がる、あまりにも愛しい温もりを抱きしめて、俺は深く息を吐いた。
「笑ってろ、深紅。……お前が幸せであることが、俺の命なんだから」
「……ご、めん……な、さっ」
「謝る必要は、全くない。──他の誰がそうする必要があったとしても、お前だけは」
俺は言った。
芳しい梅香に陶然と瞳を閉じて。
「お前だけは、俺に遠慮なんてしなくていいんだ」
──生まれて来てはいけなかったの、と。
あの日彼女が挙げた悲鳴。
それに対して、俺はこう言ったのだった。
(おれは、うれしいよ)
おまえが生まれてきてくれて、うれしいよ。
だからもう泣かないで。
おれが強くなるから。
強く、お前よりも強くなって、きっとお前をまもるから。
(ずっとお前の、ちかくにいるから……!)
「お前こそ、体は大事ないのか……?」
「……んっ……」
あやすように背を叩き、頭を撫でながら俺が尋ねると、深紅は涙に声を詰まらせながら、それでも必死に頷いた。
何度も何度も。
くりかえし。
やがて首にきつく回され彼女の腕の感覚に、俺は堪え切れず息を吐いた。
──この人を、護るために生まれた。
この人の涙を拭くために、この人の笑顔を絶やさぬために。
そのためだけに俺は生き、そのためだけに果てるだろう。
そしてそのことが、眩暈がするほど幸福なのだ。