君想い 3
熱風が、顔の皮膚に吹き付けている。
生き物のようにうねる灼熱の空気が、絶え間なく皮膚を、髪を、ちりちりと焼く。ひどく熱い。痛いほどだ。
呼吸することすら熱くて、できるだけ息を詰めているのだけれど、我慢できるのは僅かな間で、すぐに肺が限界を迎えてどうしようもなく息を吸い込んでしまう。
すると待ってましたとばかりに熱風は俺の鼻腔と咽喉になだれ込み、たちまち体のうちまで炙った。
熱い。どうしてこんなに熱いんだろう。これは異常だ。
逃げなくては。
そう思って身動きしようとした俺は、唐突に気づく。
自分が手足を縛られていることに。
だからこそ呼吸することにばかり意識が集中していたのだということに。
慌てて周囲を見回せばそこは闇だった。
あたり一面の闇、闇。
しかし遠く地平線に沿って、燃え盛る焔が世界を赤黒く染め上げていた。
熱風の原因は、あの焔なのだと、誰に確かめるまでもなくわかる。
俺はひくりと喉を鳴らしていた。怖い。
あんなに遠いのに。あの火が、猛烈に怖くて、たちまちかたかたと全身に震えが及んだ。
(あれは悪いものだ)
(あれは怖いものだ、蒼路)
(近づいてはいけない。触れてはいけない)
(けっして)
(決して──!)
いつも周囲の大人たちから言い含められていたそんな言葉が、唐突に頭の中によみがえって俺は慄いた。
今までどんな魔物も怖いと感じたことはなかった。
見かけが違うだけで、彼らは自分達とおなじいきものなのだと信じていた。
──けれど。
「……い……っ」
怖い、と、俺ははじめて思った。
恐怖が、内側から体を締め付けて、心臓が握りつぶされそうに痛い。
怖い。あれは怖い、ほんとうに怖い。
あの焔は悪いものだ。
あの焔は、いのちを殺す。
人も魔物も。
だから、あれに近づいてはいけない──
(──行きましょう、兄さん)
ふいに、涼やかで落ち着いた声が、した。
俺は辺りを見回して懸命に眼を凝らす。
すると、闇の彼方、地平線すれすれの場所に立つ、ほっそりと細身の後姿と、その隣の長身の背中という、二人の人物の影がかろうじて目に映った。
(──!!)
俺は金切り声をあげていた。
声にならない声、恐怖と絶望に引きつった喘鳴を。
だがその人たちには届かない。
届くはずもない。だって。
(ああ。ゆこう、星羅)
……彼らは行かねばならないのだ。
他の誰にもできない。
あの焔を打ち倒すことが、彼らにしかできないことであるが故に。
それが彼らの──最強の星師としての──やるべきことであるが為。
(……若君に、ご挨拶は済んだのか)
低い声が耳を打つ。大好きな、その、あたたかな声音。
ぼろぼろと涙が頬を流れた。
だが凄まじい熱風に煽られて、それはすぐに蒸発してゆく。
俺は声なく泣いていた。
行かないで。行かないで。
行っちゃ駄目だ!
(……っ、とう、さぁあぁああんッ!!)
ああ。
どれだけ叫んだか。
あんなにも大きな声で、あんなにも懸命な想いを。
後にも先にも、あんなに怖く、あんなに泣いたことは無い。
(父さん! 父さん! ……星羅おばさんッ!! 行かないで!! 行っちゃ駄目だ、死んじゃ、いやだ──!!)
届かない声なのだとは、何故か始めからわかっていた。
俺とあのひとたちの間には、見えないけれど分厚く冷たい壁があった。
そして多分この壁を作ったのがあのひとたちであろうということも、俺は直感で悟っていたのだった。
俺をこうやって縛り上げて、この見えない壁の中に押し込めて。
あの人たちはそうして俺を護ろうとしているのだと。
痛いほどに、体で感じていた。
(とおさぁああん──!!)
でもそれでも、叫びたい、叫ばずにはいられない。
あまりにも大きな声で叫び続けたせいで、喉がつぶれて血が溢れた。
口内に錆の味を感じながら、俺は尚も音にならない声で悲鳴を上げ続けた。
体が動かない。声が出ない。でも。
心は誰にも止められないということを、俺はあの時、身が引き裂かれるような別離の痛みと共に学んだのだった。
(……いいのよ。わたしのこの生き方をわかってくれる男だからこそ、わたしは恢を愛したのだから)
親父の隣で、長い髪を熱風に躍らせながらその女性は言った。
星羅おばさん。親父の妹で、俺のほんとうの叔母さんだ。
細身の体を忍び装束にぴったりと包み、両の手に二本の刀を引っさげて。
彼女は五芳の星に貫かれた片目で、はるか彼方に燃え盛る焔を睥睨していた。
微動だにもしないその横顔に親父は目を細める。
そして言った。
(……そうか)
低い声におばが頷く。
すると父は肩の上に刃渡り三尺はあろうかという鎖鎌を抱え上げた。
紅い炎を受けて、鋼の巨大な刀身がぎらりと暗い光を放つ。
(そうだな。ならばもう、何も言うまい)
親父は言った。叔母もふたたび頷いて、長い髪をうっとうしげに手で払った。
(ええ。──行きましょう)
(ああ。──ゆこう)
そして、二人の影が沈んだ。
否、違う、正確には膝を折ったのだ。弾みをつけて飛び降りるために。
あの地平線から、禍々しき焔の中へと、飛び降りるが為──
「──うわぁああぁあああッ!!」
絶叫した、自分の声に、眼が覚めた。
そこではじめて俺は自分が夢を見ていたのだと知った。
***
「……っ……ゆ、め……?」
ドクドクと心臓が脈打つ音が、耳の奥でうるさく鳴り響いていた。
額を、背中を、大粒の汗が流れ落ちる。
俺は乱れた自分の呼吸に驚いて口元を片手で覆った。ああ。
なんて昔の、夢を見たのか。
なんて克明で生々しく、悲しい夢──。
「……とう、さん……、おばさんっ……!」
全身に色濃く残る夢の感触に、俺は身を震わせた。
頭を抱え、一刻もはやく冷静になろうとする。だが難しかった。
眼を覆っているこの布地のために、利かない視界のために、いやでも夢の映像ばかりが脳裏にはくりかえし浮かんでくるのだ。
そして現実の映像を眼に写せないために、あの禍々しく恐ろしい光景はよりいっそう恐ろしく胸に迫ってくる。
「……っ……」
静かだ。ひどく静かなせいで、自分が激しく動揺していることがよくわかる。
どうしてだろう。どうして今更、あんな夢を見たのだろう。
俺は頭を抱えたまま苦悶した。
暗い視界にいまひとたび、焔の中へ消えていったふたりの人物の背中が過ぎる。親父と叔母さん。
俺が誰よりも尊敬し、憧れていた、当代随一と謳われたほどの最強の星師だ。
だが彼らはもういない。
二人はあの後、死んだのだ。
あの焔に立ち向かい、飲み込まれながらも、その命懸けて里を、そして深紅を守り抜いて──
(──蒼路)
泣きじゃくる少女の声が耳によみがえった。深紅。
全てが終わった後の里で、文字通り血の雨に打たれながら父親の死骸を見つけ出し、それに取りすがって泣いていた幼い姫。
彼女の父は全身を細かにちぎられた肉塊と化していた。
星師の血肉を嗜好の餌とする、魔物によって喰われていたのだ。
内臓は全て食い荒らされ、頭蓋も噛み砕かれて、わずかに残った脳漿が赤黒くどろどろに解けた地面に流れていた。
その肉体において無傷で済んだ部位は一箇所たりともなく、深紅が父を父だと認識できたのは、その躯の傍に落ちていた、五辻家蔵の小刀のおかげだった。
(怖いよ……蒼路……!)
深紅が躯に取りすがる横で、俺はただ立っていた。
里じゅうにむせかえる血のにおい、生臭いそれに気が遠くなりながら、だが吐くこともできなかった。胃の中身はとうに吐き出しきっていたのだ。
見渡せばどこまでも続く人と魔物の躯、骸。
空は濁り、黒い雲が重く立ち込め、土砂降りの雨は一向にやむ気配がなかった。
ごうごうと音を立てて流れるのは、雨水と血によって作られた水の流れ。
それは、渦を立てながら里の中央の湖めがけて奔流していた。
(わたしは、わたしが怖い……!)
あの時深紅はそう言った。
これほどの惨劇を引き起こしたのは自分、その自分が護られて生き延びて、一体何を贖えというのかと。
どうして死んではいけなかったのか。
どうして自分は生まれてきたのか。
こんな、呪われた力を授かって──。
(わたしは、生まれて来てはいけなかったの……!?)
赤黒く染まった里を切り裂いた、その慟哭に、そして俺は堪らず手を伸ばしたのだった。
(──……おれは)
ああ。
あのとき俺が、言ったことばは。
「……蒼路?」