3話 説明
狼が近づいてくる。
ハルトは逃げようとしたが、体は麻痺したかのように動けない。
狼が大きな腕を振り上げ――。
「はっ!」
ハルトはがばっと体を起こす。
冷や汗が肌をべとつかせる、嫌な感覚を味わってから心臓に手をあてる。
生きている。どくどくと手に伝わってくる脈動を感じてからハルトは周囲を見回す。
まず自分がいる場所はベットだった。
ベットの近くには窓があり、光が差し込んでいるのがわかる。
食事をとるためのテーブルのようなものはあるがキッチンはない。
テーブルに置かれている刀を取り、外へ向かう。
簡素な家だな、と思う。
人が暮らすにしてはあまりにものが少ない。
こっちの世界では普通なのかもしれない。
外に出ると似たような木の家がいくつかあった。
所々に人がいる。
じゃれあいと表現するには行きすぎな喧嘩紛いの殴り合いや、捕まえたモンスターにかぶりつくものなど。
ハルトはすぐに視線を外した。
ハルトはさっそく近くにいた男に話しかける。
(耳と、尻尾がついてる……)
ここが異世界なのは揺るがない事実となった。
まだ心のどこかで、地球のどこかであってほしいという気持ちがあったのか、ハルトの心には小さいがっかりが発生していた。
「気がついたのか、人間よ。名前は……そういえば聞いていなかったな」
先に声をかけられる。
助けてくれた人かもしれないので丁寧に話そうと心がける。
「俺の名前は――」
フルネームを名乗ろうとしたが、別にいいんじゃないかと思い一度口を閉じる。
時間にして数秒ほど悩んでから、名前だけ言おうと決めた。
「ハルトです。えーと、あなたは?」
「俺はレングだ。体はもういいのか?」
肩を回したり足を伸ばしたり軽く準備運動のようなことをしながら、
「んー、まあ、無理に動かすと痛いけど。動けないことはないです」
「そうか」
そこで会話に一区切りついたので一番気になっていることを尋ねる。
「でっかい狼に襲われてその後から記憶がないんだけど……。あなたが助けてくれたんですか?」
ハルトの質問はおかしいところはない。
だが、事情をすべて把握しているレングにはあまりにも間抜けな質問に聞こえた。
よってレングは馬鹿笑いをあげる。
ハルトは柔和な笑顔を浮かべながらも頬とこめかみをひくつかせる。
こいつ、殴ってやろうか? と本気で考えた。
「なるほどな。ハルトは俺の事が分かっていないみたいだな」
嬉々とした声をあげてから、本当の姿を見せてやると宣言する。
欲しいおもちゃを貰った子供のような笑顔を見せながら、何かを呟く。
レングの口からもれた声が終わりを告げると、レングの体が光り始める。
(進化でもすんのか?)
ハルトは手で目を光から庇う。
光はそれほど強くはないので目を細めながら様子を確認する。
光が治まったのを手越しに理解したのでゆっくりと目を向けると。
「どうだ? 何か思い出したか?」
それは本当にいたずらが成功したような無垢な子供の笑顔で。
対照的にハルトはひくひくと恐怖を思い出した顔で歪に笑う。
レングは二メートルほどだった人間の身長よりも上だけなら小さくなっている。
二本足で立てば遥かに今のほうが大きい。
ハルトを襲った狼――目の前にいるのはまさしくそれだった。
ハルトの頭の中には混乱が渦巻く。
「俺を殺すつもりじゃなかったのか?」
ようやく搾り出した言葉は、危険極まりない物だった。
レングはいつでもハルトを殺すことができる力を持っている。
逆にハルトは一撃必殺の技しかない。
見渡せばレングの仲間たちがいるのがわかるこの場で戦いが始まればハルトに勝ち目はない。
「別に。ただ、お前の力が強そうだったから、戦ってみたいなと思っただけだ。元々あそこにいたならず者のディバールタイガーを殺しに行っただけだ」
「でぃ、でぃばーるたいがー?」
初めて聞く名にハルトは首を捻る。
「お前が倒した虎の名前だ」
レングが戦いの意志がないのを悟ったハルトはふぅと安堵の息をつく。
ひとまず、命の心配はしなくていいようだ。
「まさか、人と狼の両方になれるなんてな」
モンスターが人の姿にもなれるのは危ないなとハルトは顎に手をやる。
人を襲うつもりのモンスターが人間の姿で人間が住む町に侵入すればあっさりと襲うことができてしまう。
「両方の姿を持つものは極端に少ないな。人間はモンスターをランク付けしているが、Sランク近いモンスターではないとほぼ人間の姿をとることはできないな」
生まれつき人間に近い姿をしている種族を除いてな、とレングは付け足す。
ハルトが危惧していることは簡単には起こりそうにはなかった。
「Sランクねぇ。俺が倒した虎はいくつか分かるか?」
「確かあいつもSだったな。だが、人型をとったところを見たことはない」
ハルトは大男を思い出す。
あいつはかなりのバケモノだったのだろうな。Sランクにあれほどの痛手を負わせたのだから。
あの男がいなければハルトの命はなかった。
感謝してもしきれない。
「……人とモンスター、両方の姿をとれるのはSランクしかいない?」
「大体は、そうだな」
「なら、あんたもSランク!?」
気づくのが少し遅いハルトは大声をあげて左足を後ろへひく。
レングもあきれたように片目を瞑る。
「今頃か。人間が定めたランクに興味などないがつまりはそういうことになるな」
ハルトは逃げ出したい気持ちで心がいっぱいになった。
それもおかしくはない。
Sランクのモンスターがうじゃうじゃいるこの集落に人間がぽつりと一人いるのだ。
ハルトが慄いていると、レングは朗らかに笑い、それから思い出したとばかりに耳をぴんと伸ばした。
ハルトはアンテナみたいだと思った。
「あの剣は、アニムスブレードか? それに、ディバールタイガーの魂を吸収したのか? とにかく、ハルトは随分運がいいのだな」
「アニムスブレード?」
辞書でもない限りわからなそうな単語が溢れたのでハルトはハテナを浮かばせる。
「……何も知らないのか? おかしな人間だな。アニムスブレードは人間が求めるこの世界最強の剣だろう?」
ハルトは、このまま話を進めることに面倒を感じている。
理由は簡単でこの世界の常識を押し付けられてもさっぱりだからだ。
ただ、異世界から来ました、てへっ。って言って信じてもらえるのだろうかという不安もハルトの胸のうちにはある。
異世界人に対してどんな印象を抱くのか心配材料が豊富で言い出せない。
もしも、異世界人は皆殺しとかそんな世界だったらハルトはこの場で命を失ってしまう「のだから。
言いたくても言えない事実に冷や汗を垂らしながら適当にあわせる。
「別に、俺は戦いは好きじゃないしな」
「なら、なぜあそこにいたんだ? この森は、奥に進めば進むほど強いモンスターが出ることで知られているのに、なぜこんな奥地にいた?」
「ま、迷子だ」
ハルトは口笛を吹く真似をしながらレングから顔を逸らす。
あきらかに汗が出ていて、嘘だと丸分かりだ。
「みえみえな言い訳だな」
レングがあきれたように肩をすくめるのでハルトは苦笑い。
(嘘とか結構つくから平気だと思ったんだけどな……)
確かにハルトは年中嘘を言っている。
といっても日常会話で流される程度の大した問題にならない小さな嘘だけだ。
こういった重要そうな場面に慣れていないハルトはどうしても顔にでてしまう。
「ちゃんとした理由を話せばしばらくはここに置いてやる。仲間にも説明はしてやる」
それは、ハルトにとっては最高の条件だった。
ここが地球ではないと分かった以上、地球に戻る方法を探さねばならない。
ただ、今のハルトには何もない。
森を抜け出す力もなければこの世界の常識――知識もない。
ハルトは無の状態から地球に帰る方法を見つけなければならなくそれはほぼ不可能だった。
「もしも、理由を話さなければ?」
「殺しはしないがこの村からは出て行ってもらう。素性は知れない、理由も分からないような奴をいつまでも追いとくわけにはいかないからな」
「ここって、奥地、なんだよな?」
さっき、『こんな奥地』とレングが言っていたのが頭に残っていたハルト。
まだ狼の状態であるレングは大きな頭を縦に頷かせる。
ハルトの頭の中には恋愛ゲームのような選択肢が現れる。
生きるか、死ぬかの二択。ハッピーエンドかバッドエンドか。
ここで正直に話すか。何も話さずに森を脱出するか。
前者は先程述べた危険がある。後者は言わずもがな。Sランク級のモンスターとまではいかなくても高いランクのモンスターがでるのは間違いない。
一回くらいなら剣を使って逃れることもできそうだが、体の回復などを考えるとモンスターとのエンカウントはできて一回だけ。
それで森を脱出するのは不可能と思えた。
なんだとハルトは笑う。
既に一つしか道はなかった。
話したほうが生き残る可能性は高い。なら、話そう。
決心すると同時に心臓がばくばくばくと脈打つスピードがあがっていく。
送られる血が速すぎて血管がぶちきれるんじゃないだろうかというほどの加速にハルトは体がふらつきそうになる。
怖いんだ。ここで死ぬかもしれないと考えると。
自分の口ではないかのように開くことができないハルトを、急かさずに待ってくれるレング。
レングはどんな事情を予想しているのだろう。
ふと、そんな考えが生まれる。
(犯罪者とかだろうか?)
気を紛らすために色々と推察していると幾分緊張がほぐれる。
よし、と頬を叩く。
「俺は、この世界じゃないところから来たと思うんだ――」
その発言を皮切りにハルトはこの世界に来る少し前から現時間までの出来事を話し始めた。