2話 サウザンドウルフ
「サウザンドウルフ……!」
女の子が驚愕と絶望を含んだ器用な声を出してで後ずさる。
ハルトも先程の恐怖が甦り、かちかちと歯を鳴らす。
さっき倒した虎と同じくらいの体をした銀色の狼が目の前にいる。
逃げなくちゃ、と思うが視界の隅に映る美少女。
背中を向けて逃げるのは難しい。
「にげ、ろ」
必死に三文字の言葉を、うまく機能していない喉を震わせ、搾り出す。
肌に刺さる狼の存在感を感じて、埋められない力の差を感じる。
女の子は、ハルトの言ったことが理解できなかったのか動き出しそうにない。
ハルトはさっきよりも冷静に、しかし声は大きく伝える。
「逃げろってんだよっ! 早く!」
少女は、それでも動かない。
動けないんだ。体が恐怖に縛り付けられて思うように動けない。
だから、多少恨まれるのを覚悟で少女の足を叩く。
心に罪悪感が走ったが今は助かることが先決だ、手段を選んではいられない。
女の子はそれで正気を取り戻したのか、ハルトの言われたとおりに走っていった。
「随分と珍しい格好をした人間だな」
狼が喋ったが、あまり驚きはなかった。
この状況だ。今さら驚くことなんて難しい。
ハルトは手で近くにあるはずの刀を探しながら、会話ができるようなので話し合いをしてみることに。
「見逃して、くれないか?」
震える唇を操りしどろもどろに発言する。
「……つまらないから嫌だ」
なんだ、その理由はと怒ってやりたいハルトだが、口を開くことが出来ない。
ハルトの命運は狼が握っている。迂闊なことを口にできない。
狼は、どこか嬉しそうに笑いそして、次には笑い飛ばしてしまいたくなるほどの馬鹿みたいに強い殺気と共に睨んできた。
ぎょろりとした狼の両の目に捉えられたハルトは痺れたかのように体が動かなくなる。
動かそうと思っても、体の所有権すべてを目の前の狼に取られたかのようにピクリとも動かない。
さっきやっていたように痛みでどうにかするレベルじゃない。
完全に飲み込まれてしまった――狼の威圧に。
ただの、威圧に指一本さえも動かない。
このまま放っておいたら目が乾いて涙が止まらなくなるなとハルトは考えていた。
「まぐれ、だったか」
狼は一気に興味が薄れたようにハルトへでかい足を振るう。
狼にしてみたら蚊を叩くようなレベルかもしれないそれを喰らって、ハルトは地面を滑るように転がる。
竦んでいた体はそれで解かれた。
痛いが寝ていれば何も出来ずに殺される。
ハルトは跳ね飛ぶように立ち上がり、近くに転がっている刀の鞘と袋のようなものを掴んで逃げる。
走りながら危険な刀を鞘にしまい、ポケットに袋をつっこむ。
鼻から戦うことは考えていない。
虎に勝てたのは弱っていたのと、不意打ちだったから。
二度もまぐれで勝てるわけがない。
「戦いから逃げる、か」
ハルトの逃げ道に狼が回りこむ。
くそ。ハルトは舌打ちをする以外に何も出来ない。
攻撃しても当たるビジョンが浮かばない。避けられて反撃されて死ぬ。
狼がゆらりと動き、ハルトはやけくそにしまった刀を居合いの要領で鞘から抜き放つ。
長年剣を使っていたような鮮麗で、俊敏な抜刀は一寸の狂いもなく狼のわき腹を捉え、えぐる。
速い!
(今の俺がやったのか?)
ハルトは自分でも分からないほどに体が軽くなった。居合いこそ初心者そのものだったが、速さが数段あがり狼でさえついていけていなかった。
狼は土煙をあげながら地面を転がる。
目に砂が入らないようにハルトは手で目を覆う。
これじゃあ、追撃をしかけられない。
相手の傷の具合が分からない以上、この土煙が罠なのかどうかも分からない。
突っこんだらやられる可能性がある。
ハルトは刀を持つ手から力を抜く。
――ずきん!
ハルトは、不意に感じた全身の痛みに顔が歪められる。
初めの痛みがきっかけか筋肉が暴れ狂ったような痛みが続いて体を襲う。
ハルトは、やばいと感じながら刀を取りこぼす。
足元に刺さった刀にぞわっとしながらも拾うのはひとまず置いておく。
激痛が止まる。それを皮切りに痛みが引いていく。
数秒後には不思議と痛みは消えた。
体力こそ空っぽに近いが、痛みがなくなったことにより、ハルトは刀を握りなおす。
すると、じっと静電気のような痺れが届いた後に再び体に痛みが復活する。
(刀に何かあるのか?)
ハルトは当たりをつけて、鞘にしまう。
鞘に納まっていたときはこんなことが起きなかった。つまり鞘が鍵になるのでは? と考えたのだ。
予想通り痛みは消える。
刀に何かがあるのは確定した。刀を掴んで走り出し、後ろを確認する。
思ったよりも深手だったようで狼はまだ、襲ってくる様子はない。
一気に畳み掛けるのも一つの手だ。
だが、全力疾走したあとのような疲労が残る体では満足に剣も握れそうになかった。
ハルトは無我夢中で走り続けた。
途中何度も転び、それでも休んでいる暇はない。
疲れた体に激励を送りながら、道なき道を進む。
走り続けて、数分。ハルトは気づいたら洞窟のような場所にいた。
どうやってここまで来たのか分からないが、ここならすぐに見つかることはないはずだ。
やはり。戦うしかないのだろうか。
そんな考えが浮かぶがすぐに否定するように首を左右にふる。
あれと戦って勝てるとは思えない。
正面きって勝てるとは思えない。
唯一ある可能性は鞘から抜き放ったときの力。
手中に納まっている刀に目を向ける。
一種の呪いの武器か何かかもしれない。使った者の体力と引き換えに身体能力を強化する、とハルトは予想していた。
これを抜いたときの速さで放った斬りなら倒せる可能性はある。
狼が地面を転がっていたのを思い出して、セットとばかりに痛みも想起する。
ただ、すべてあの痛みに耐えられればの話だ。
ハルトは厳しいなと顔をしかめる。
来る前に拾った大男の持ち物に何かないかと漁る。
一撃でモンスターを倒せるような画期的なものがないかと拾ったが、何もない。
そもそもそんなものがあれば大男が使っていただろうなハルトは残念がる。
一応収穫はあった。
ビンに入った赤い液体と同じくビンに入った青いビンが入っている。
ゲームなどで見るような代物だ。回復薬だと、確証はなかったがハルトはもうやけくそ気味にそれを飲み干す。
もしも毒だとしてもあきらめようと割り切っていた。今死ぬか後で死ぬかの瑣末な問題だと自嘲する。
舌が麻痺しそうな苦味が襲ってきた後に体が軽くなったのが分かった。
腕を見ると、傷はない。腹部に感じていた痛みや攻撃したときにできた痛みもかなり緩和されている
これで、一応戦えるだけの体力は取り戻した。
狼を倒す、又は逃げる方法を早急に考えねば。
相手は狼であるのだから当然鼻がきく。
ハルトがこうしている今も狼は着々と迫っている。
だから、できる方法を編み出さねばならない。
一、交渉。すでに失敗。
二、逃走。逃げられるのならとっくに逃げている。可能性は低い。
三、戦う。勝てるための技はある。可能性は結局低いが。
三の、戦うが一番実現が可能そうだ。
二も可能性はほとんど変わらない。
だが、この森がどれだけの規模なのか分からない、森を抜けたとして狼が追ってこないとも限らないということで三しかできそうには見えない。
今さらながらに可能性の低い賭けだよなとハルトは頭を押さえる。
それに、と狼のダメージを思い出す。
一撃は狼にかなりのダメージを与えていた。演技とは思えない。
あと一回、二回同じのが当てられればもしかしたら、万分の一くらいの確率で倒せるはずだと自分を励ますために呟く。
やるしかない。
期待はしない、期待して変な風に緊張したらうまく戦えない。
零の可能性が一になったにすぎない。
それにしてもと、ハルトは苦笑する。
この数十分で随分と成長したよなと自分に問うていた。
生か死のどちらか一つしかないような状況なら人間かなり賢くなるようだ。
今度からこの状況で勉強すればはかどること間違いないね。
ふぅーと心を落ち着かせるためにハルトはなるべく心に軽い出来事を考えて空気を吐き出す。
「狼は、いない……」
周囲に意識を張り巡らす。気配で気づける達人ではないハルトだがさすがにあのでかさを見逃すはずがない。
安心しきったハルトの独白にしかし絶望の返事が返ってくる。
「何か、対策でもたてられたか?」
すると、小さい、中型犬のような大きさで先程みた色の狼がハルトの横に鎮座していた。
ハルトが驚いていると中型犬はまた元の、理解できないサイズに戻っていた。
落ち着け、落ち着けと言い聞かせて、肺があるだろう位置を手で押さえる。
ハルトは相対して死ぬビジョンしか浮かばない頭に愚痴りながら、
「殺すなら、殺せよ」
ハルトは剣を左手にもったまま両手を開いて少しずつ近づいていく。
最高威力の一撃を最も近い位置からぶつけるために。
いくら速くても距離がある程度あらば外す恐れがあるからだ。
「その目、あきらめた人間の目ではないな」
ハルトの目の奥には色々な感情が渦巻いていた。
すべての感情が混ざり合った結果、ハルトには強い意志の篭った瞳が生まれていた。
ばれちまったかぁとハルトは口の中で呟いたが歩むをやめない。
交じり合う視線。さっきのような威圧を放ってくる気配はない。
ハルトは気づいていないが狼は確かに威圧している。それに屈しない程度には心に余裕があるのだ。
ハルトは、真正面に立ち狼を睨む。
狼もまた睨み返して、交差する視線。
先に動いたのはハルトだ。
流れるように鞘から剣を抜き、力が漲る。
体を裂いて出てきそうなほどの力をハルトは腕と足に集中させ俊足の斬りこみを狼に叩き込む。
手に伝わる斬った感触に、首を捻る。
はらはらと舞う、光を反射させる銀色の毛。
ハルトが捉えたのは狼の体ではなく、毛だったのだ。
研ぎ澄まされた神経は、一つの答えを導き出す。
避けられた。
希望が、期待が、一気に絶望の色に染まる。
手がなくなった。
唯一縋った刀の力は狼に及ぶことはなかった。
それでも攻撃の手をやめなかったのは意地のようまのだった。
狼はすべてを見切り、かわしていく。
狼は獣としての本性からか、ハルトの力にタイムリミットがあることを悟ったように避け続けた。
ハルトは段々と狼の動きについていけるようになりとうとう刀が狼の腹を抉る。
狼は顔こそ歪めたがまだ、戦えそうだった。
この調子ならいける!
ハルトが確信したその時に――タイムリミットがやってきた。
筋肉が反逆を起こした。
暴れまわる痛みにハルトは手の握力が弱まり、刀が落ちる。
ハルト自身限界なのは分かっていた。
受身など取ることもできずにぶっ倒れる。
目に汗が入り、染みる。開けていることが困難になりながらもハルトは近くに落ちた刀に手を伸ばす。
あと、一撃なんだ。大きな一撃が入ればあいつを倒せるはずなんだ。
あきらめたくない、死にたくない。こんなわけの分からない所で、死んでたまるか。
ハルトの心の中には苛立ちがたまっていく。
なんで、どうして。
(俺が、こんな目に会わなきゃいけないんだよ……)
汗なのか、涙なのか分からない。
理不尽なことに巻き込まれて、そして死ぬ。
理不尽極まりないこの状況にハルトは何もできなかった。
体を休めたい。眠たい。もう、どうでもいいや。
狼に食われて死ぬ。それが決定した。
ハルトはここで寝たら次目が覚めるのは来世か、死後の世界だろうなと自嘲気味な笑みを作りながら目を閉じる。
すべてをあきらめたハルトの意識はそこで途切れたのだ。
「この人間。面白いな……」
ハルトを襲っていた狼が呟く。
狼――サウザンドウルフである狼のレングは自分に傷を負わせたハルトを興味深そうに見ている。
何十秒かそうしていたが、いつまでもぼぅとしているわけにもいかないなとレングは人型となり、簡単に応急処置をする。
といっても体力がなくなっただけなので、時が癒すのを待つより他に手はない。
レングは元々大男達を自分の糧にしようとしてあの場に行ったのではない。
サウザンドウルフはこの森を支配している関係で治安維持のようなことをしているのだ。
虎――ディバールタイガーはこの森を荒らしていたということでサウザンドウルフのリーダーであるレングが直々に折檻しに向かっている最中にハルトを発見したのだ。
完全に誤解されるタイミングであったが、ハルトにとってレングは救世主のものだったのだ。
ディバールタイガーを倒した人間に興味を持ち、戦闘狂としての血が騒いだレングは相手を威嚇して戦いを申し込んだ。
結果は、十分だった。
小さき戦士をレングは抱えて、自分の村――サウザンドウルフが暮らしている――に向かった。