現代文明の黄昏
イラン戦争でホルムズ海峡が封鎖されてから世界情勢は混迷を極めているようです。石油の備蓄自体は200日以上猶予があるようですが石油由来製品に必要なナフサや肥料用の資源やトラックの排ガス浄化液に必要な尿素の供給が滞っており、物流や製造の停止や食糧難などが危惧されているようです。
この件でつくづく思い知らされたのが、私たちが当たり前に享受してきた近代文明というのは、ちょっとした事で簡単に崩壊してしまうような砂上の楼閣に過ぎないという事です。限りある資源に依存してばかりいればそりゃ不安定にもなるというものでしょう。この先テクノロジーを発達させクリーンな代替資源を開発できれば解決するかもしれませんが、依然として太陽光発電や風力発電等のクリーンエネルギーは多額のコストが必要で電力の安定供給が難しいという問題がありますし、エネルギー問題が解決しても気候変動や鉱物資源の不足といった問題は依然として立ちはだかります。
だったらもう今のうちから自然に回帰して持続可能な形に文明を作り替えた方がいいのではという気もしますが、そうなると人々は間違いなく不便で不衛生で不健康な生活を強いられる事になります。すでに文明の味を知ってしまっている状態で耐えられるものではないでしょう。かといってポルポトのように政府が強権的に国民を押さえつけて無理やり文明レベルを落とすようでは、それこそ持続不可能な社会にしかなりませんし、社会全体の文明レベルを落とすというのは現実的ではありません。
文明の崩壊に備えるなら、個人的にサバイバル体験をしたりキャンプをやってみたりする程度でしょうか。しかしそれも生きていくためには不要なもので生活を離れた趣味的なものにしかなりません。キャンプもサバイバルも、飽きたり嫌になったらいつでも文明に立ち戻ることができます。
現代人は動物園の檻の中に適応してしまった動物のように生きていくしかありません。しかも世代を重ねるごとに檻の中の環境に適応してしまっていて、外に出たらすぐにでも野たれ死ぬ恐れすらあり、もはや出ていこうにも出ていくこともできません。檻の中で「自然に帰れ」なんて言ってみる事はできるかもしれませんが、今となっては自然に帰る事がそもそも自然ではないのです。わざわざ自分の生存に不利になる場所に身を投げうつ事は、生物として全く不自然な行為であります。
しかしアメリカの暴走により嫌が応にも文明社会からほっぽり出される可能性が出てきた以上、対策を練っておくことは自然な行為といえるかもしれません。文明が停止した社会で何が不足するのか、必要な知識は何なのか、社会にどういった変化が起きるのか、ある程度自分なりに備えて考えておいた方がいいかもしれません。それは自然な行いといえるでしょう。
……不謹慎な話にはなってしまいますが、正直いうとこの状況に全くワクワクしていないかといったら嘘になります。安全な檻の外に広がっているであろう、自分で考え自分で動かなければ生きていけない世界というのは大層辛いものでしょう。しかしこの先の世界はどこまでも真剣な形で生活と生命と直結した世界でもあるのでしょう。現代社会は何もかもが趣味で片づけられる世界で宿命とも無縁で、命や存在に係わるような真剣な事などはほとんど見受けられないのですが、檻の先ではすべてが真剣になってくることでしょう。その地平では今よりもずっと生命の実感が得られるかもしれません。
以前テレビのニュースで奈良公園の鹿の集団が脱走して住宅街で問題になっているという特集がやっていたのが印象に残っています。鹿たちが住宅街を徘徊し雑草が蔓延る空き地を発見し、嬉しそうにピョンピョン飛び回っていましたが、今なら気持ちがわかるかもしれません。生きる糧を与えられるのではなく自分で探し出す喜びに、檻を先に広がる新天地への希望に彼らは胸を弾ませていたのでしょう。……あの鹿たちは結局道端で野たれ死んだのか、今も住宅街をうろついているのか、簡単に鹿煎餅をもらえる公園に舞い戻ったのか連れ戻されたのか、それともどこかの山に入ったのか……。いずれにせよ、自分の生命を試したいと願う気持ちは生物共通の根源的欲望なのかもしれません。
そういう訳で私は反抗期の中学生が親に依存しながら親を嫌悪するように、現代に依存しながら現代を好きになれないところがあります。文明がなければとっくにのたれ死んでいる事も長くは生きていけない事も分かっているつもりですが、それはそれとしてどうしても好きになれないのです。……まあ、そうやって偉そうに言ってる私みたいなのが一番に音を上げて、失われた文明に恋焦がれながらのたれ死ぬのかもしれませんが。
やはり一番いいのは全部私の考えすぎで、封鎖が解除されたり代替ルートが上手くいったりしてすぐに平穏な日常が戻って来る事でしょう。そして1年くらいたって二階の窓まで成長して猛威を振るう救荒作物の菊芋駆除に悩まさたり、埃被った火起こし器やサバイバル本を処分したり大忙しになるのでしょう。そしたらコツコツ買い貯めてきた保存食のビスケットの期限が切れかけている事に気づいて、仕方ないのでため息交じりにボリボリ齧りながらこのエッセイを読み返して「馬鹿なことやってたな」と苦笑できるのが一番幸せなんでしょう。……まあ来年の事を言えば鬼が笑うという奴でこの先果たしてどうなるか分かりませんので、やれる範囲でやれることをやっておこうかなと思います。




