第九十三話 「母の直感」
ニーナは初めて、まともな状態の竹彦を見ていた。
腫れ上がってもいない。血に濡れてもいない。憎悪に歪んでもいない。襲いかかってもこない。ただそこに立っている、一人の少年。
その顔を見た瞬間から、ニーナの心は千々に乱れていた。
似ている。あまりにも似すぎている。
死んだ息子、メル。もし生きていたら、ちょうどこんな年頃だっただろう。褐色の肌、赤い瞳、小柄な体格。まるで夫ガランを小さくしたような……
「次は、推進システムの展示室へ」
ニーナは枯れた声で案内を始めた。しかし、心はここにない。
あの葡萄畑での僅かな日々。二、三年の間の幸福の絶頂。夫のガラン、息子のメル、夫の両親たち。全ては塩の中に消え去った。間違いなくそう。生きているわけがない。
なのに……
竹彦がキョロキョロと展示物を見回している。その仕草、その表情。ガランと同じだ。好奇心旺盛で、少し落ち着きがなくて。
「こちらが、我が国が開発した塩化推進装置です」
技官が説明を始めた。ニーナの声が疲れてきたのを察してくれたのだろう。
「塩化爆弾は制御しない反応ですが、これは制御した反応を利用しています。エネルギー効率も格段に向上し……」
技官の声が遠くに聞こえる。ニーナの視線は、竹彦に釘付けだった。
150センチほどの少年。キョロキョロと周囲を見回す様子。夫と同じ顔立ち。自分と同じ赤い瞳。メルと同じだった。
あの時、拷問部屋で見た腫れ上がった顔。ズタズタになった口の中で何か喋っていた。あの時は何を言っているのか分からなかった。でも今は、はっきりとわかる。声も、話し方も、何もかもが似ている。
いや、まさか。
ニーナは自分の考えを振り払った。息子? いやいや、生きているわけがない。
とは言え、死体を確認したわけでもない。というか、確認など不可能だった。塩になって崩れ去ったのだから。
「すごい技術ですね」
キヨシが感心したように呟いた。
「はー、こんなことができるんだなあ。月まで定期便が出てるなんて」
「主星の衛星開発は、必須事項」
マリアが頷きながら答えた。彼女の目は輝いている。
「地球初の本格的な宇宙旅行。銀河連盟到達の前夜祭」
珍しく、感情を表に出していた。
竹彦は科学の説明にはあまり興味がないようだった。むしろ、変わった建築様式の方に目を奪われている。天井の複雑な模様を見上げたり、壁の彫刻に触れようとしたり。
その姿を見て、ニーナの胸が締め付けられた。メルも、そうだった。難しい話より、美しいものの方が好きだった。
「次は、ハイパージャンプ理論の解説室へ」
技官が先導して歩き始めた。
「我が国では、定期的な月への航行便が出ており、月の開発が相当進んでいます」
サムライたちは真面目に頷いて聞いていたが、おそらく半分も理解していないだろう。技術の差は、それほど大きい。
竹彦がニーナを見た。少し緊張して、警戒している様子。まるで、危険な動物を見るような目だった。
その視線に、長らく枯れていた心がズキズキと痛んだ。まるで、息子に嫌われたかのような感覚。
いや、落ち着け。
ニーナは自分に言い聞かせた。メルは死んだ。ここにいるのは、宇宙人か何かだ。銀河連盟のデータベースにもそう書いてあった。得体の知れない化け物だと。
でも……
「月面基地は、地下資源の採掘も行っています」
技官の説明が続く。
「レアメタル、ヘリウム3、その他貴重な資源が豊富です」
「すごいな」
山口が呟いた。
「まるでSF映画みたい」
「もうSFじゃない」
サヤカが答えた。
「これが現実なのよ」
ニーナは、また竹彦を見た。
彼は今、巨大な宇宙船の模型を見上げている。その横顔は、まさにガランそのものだった。同じ角度で首を傾げ、同じように目を細める。
「まずは、月面の発射基地に皆様をご招待します」
ニーナが口を開いた。声が震えないよう、必死に制御する。
「実際に、月の景色をご覧いただきましょう」
竹彦が振り返った。その瞬間、目が合った。
赤い瞳と赤い瞳。
母と息子のような……いや、違う。これは他人だ。たまたま似ているだけの、他人。
「月かあ」
キヨシが興奮した声を上げた。
「マジで月に行けるの? すげえ!」
「当然」
マリアが冷めた口調で言ったが、その目は期待に満ちていた。
「これが、新しい時代の始まり」
竹彦は、また建築物の方を見ていた。ニーナから視線を外して、柱の装飾を眺めている。
その後ろ姿を見ながら、ニーナは思った。
もし、もしも本当にメルだったら。
いや、そんなはずはない。でも、調べる方法はある。DNA検査をすれば、すぐに分かる。血液のサンプルさえあれば……
「女帝様?」
技官の声で、ニーナは我に返った。
「あ、ああ。続けて」
一行は次の展示室へと移動していく。ニーナは最後尾を歩きながら、ずっと竹彦の後ろ姿を見つめていた。
小さな背中。まるで、守ってあげたくなるような。
でも、この少年は数日前、自分たちを皆殺しにしようとした化け物だ。
いや、そんなはずはない。メルが生きているなんて。
でも……調べる方法があるはずだ。いや、待て。捕まえていた時に検査したではないか。その時の結果は……遺伝子情報がボロボロで、よく分からなかった。塩化爆弾か放射能に晒されて、DNAが激しく損傷していた。
真実が分からない。
塩化爆弾の影響?
ニーナの思考が止まった。もし、もしも塩化爆弾の爆心地から生き延びていたとしたら? どうやって? いや、そんなことが可能なのか?
どうやったら調べられる? 血液検査は無理だった。では、他の方法は? 行動パターン? 記憶? いや、記憶があるはずもない。あの時メルはまだ幼かった。
直感が叫んでいる。この生き物は、あの可愛い、自分の全てだったメルだと。母の本能が、うねり声を上げている。
だが証拠がない。確証がない。ただの偶然の一致かもしれない。銀河は広い。似た外見の種族がいてもおかしくない。
いや、考えないほうがいい、そうニーナは繰り返される考えを止めようとしていた。




