第九十話 「ガラドという名前」
朝の陽光がホテルの窓から差し込んでいた。竹彦は大きく伸びをしながら起き上がった。昨夜の夕食を思い出す。一人で食べたホテルのルームサービスだったが、久しぶりにお腹いっぱい食べることができた。
「あれ……」
自分の心が少し軽くなっていることに気づいた。昨日までの重苦しい気持ちが、わずかだが和らいでいる。
鏡の前に立って、自分の顔を見つめた。マリアや所長、アスカ、京介。みんなが「笑顔」と言ってくれた言葉を思い出す。
「仕事、仕事……」
小さく呟いた。自分が折れれば、またあんな思いをしなくていい。みんなも安全に過ごせる。そう考えると、今抱えている悩みなんて大したことではない気がしてきた。
松子を失った時のあの絶望。全てを失った時の虚無感。仲間が死んだと聞かされた時の怒り。暗闇の中で、必死にカーカラシカの人たちを殺す方法ばかり考えていたあの地獄のような一週間。
「それに比べれば……」
竹彦は深呼吸をした。今日を乗り切れば、きっと何とかなる。
シャワーを浴びて身支度を整え、ホテルの一階へ降りていく。集合場所のロビーへ向かって歩き始めた。
不思議なことに気づいた。周りのカーカラシカ人たちが、自分に特別な注意を払っていない。昨日の観光地とは違い、地元の人々は竹彦を普通の少年として見ている。ただの風景の一部として。
「そうか……」
竹彦は少し考え始めた。日本で色々注目されていたのは、自分の容姿が日本人らしくなかったからなのか。ここでは逆に、溶け込んでいる。
「よお、坊主!」
突然声をかけられた。振り返ると、地元の不良っぽい若者たちが立っていた。革ジャンを着た二十歳前後の男が三人。いかにもという風貌だったが、その目は意外と人懐っこかった。
「学校はいいのか? こんな時間に」
竹彦は一瞬迷ったが、カーカラシカ語で答えた。
「サボってる」
嘘でもなかった。実際、今日も学校には行っていない。
不良たちは笑った。
「おお、正直な奴だな! 気に入った!」
リーダー格の男が竹彦を上から下まで眺めた。
「なんかあんま見ない顔だな。最近引っ越してきたのか?」
竹彦は適当に考えて答えた。
「ウルから来た」
昨日ホテルで言った嘘を、そのまま使った。
「へー、ウルか。遠いところから来たんだな」
別の男が竹彦の腕を見て、口笛を吹いた。
「チビだけど、腕太いな! 鍛えてるのか?」
そして、よく見ると気づいたようだった。
「……おい、よく見ると傷だらけだな! なんだ、事故にでもあったのか?」
竹彦の腕には、確かに無数の傷跡があった。治療ポッドで治しきれなかった古傷の数々。
「事故もあるけど」
竹彦は正直に答えた。
「喧嘩の傷が多い。ナイフでやられた」
不良たちの目が輝いた。
「マジか!」
「すげえな、お前!」
「ナイフの喧嘩なんて、俺らでもやったことねえぞ」
日本で感じたのとは違う距離感だった。日本では、竹彦は常に「異質な存在」として扱われた。でも、ここでは違う。同じカーカラシカ人として、普通に接してくれる。
リーダー格の男が親しげに肩を叩いてきた。
「なあ、ゲーセン行かねえ? お前、面白いな」
「ゲーセン?」
「ゲームセンターだよ。知らねえのか?」
竹彦は首を振った。
「そういえば、名前はなんだ?」
名前を聞かれて、竹彦は困った。「竹彦」では明らかに不審がられる。日本人の名前だ。とっさに周りを見回すと、近くの店の看板が目に入った。
『ガラド商店』
「ガラド」
即答した。
「ガラドか。いい名前だな」
不良たちは納得した様子だった。
「俺はジャミル。こいつらはサイードとハッサン」
三人はそれぞれ自己紹介をした。
「なあ、ガラド。店長が知り合いでさ、タダで遊ばせてくれるゲームがあるんだぜ」
ジャミルが誘ってきた。
「朝からゲーセンなんて最高だろ?」
竹彦は一瞬迷った。集合時間のことを思い出す。でも……
「少しだけなら」
「よし! 決まりだ!」
不良たちは嬉しそうに竹彦の背中を押した。
*
その頃、ホテルのロビーでは、アスカが腕時計を見ながら首を傾げていた。
「なんか、あったんとちゃうか?」
集合時間を過ぎているのに、竹彦の姿が見えない。
「もう三十分も遅れてるで」
山口も心配そうだった。
「大丈夫かな……また何かあったんじゃ」
マリアは涼しい顔でパンフレットを開いていた。
「どうせまだいじけてる。放っておけばいい」
そして地図を指さしながら続けた。
「流石に面会前には来る。それより、この通りにおすすめの朝食の店がある」
「朝食?」
キヨシが呆れた。
「竹彦を探さなくていいの?」
「時間の無駄」
マリアはスタスタと歩き始めた。
「カーカラシカ名物のハニーケーキが食べたい」
「おい、マリア……」
京介が止めようとしたが、マリアは振り返らなかった。
「心配なら探せばいい。私は朝食」
トニー所長が苦笑した。
「まあ、マリアの言う通りかもしれません。竹彦君も、そろそろ一人の時間が必要でしょう」
サムライたちは顔を見合わせた。
「これでいいのか?」
マサヨシが小声で呟いた。
「さあ……」
キヨタカも困惑していた。
結局、一行はマリアについて行くことにした。バビロンの朝の街を歩きながら、それぞれが竹彦のことを少しずつ心配していた。
その頃、竹彦ことガラドは、ゲームセンターで不良たちと格闘ゲームに興じていた。久しぶりに、普通の少年として扱われる感覚。それは、意外と心地よかった。
「ガラド、お前うめえな!」
「反射神経やべえ!」
褒められて、竹彦は少し照れた。こんな風に、ただの遊び仲間として接してもらえるのは、いつぶりだろう。
画面の中で、キャラクターが激しく戦っている。でも、それは本当の戦いではない。ただのゲーム。誰も死なない。誰も傷つかない。
竹彦は小さく微笑んだ。こんな時間も、たまにはいいかもしれない。




