第九話「コアラと漢字と宇宙語」
文芸部の部室で、サヤカが机に突っ伏していた。目の前には漢字ドリルが広げられ、赤ペンでびっしりと書き込みがされている。
「一はわかる……すげーわかる……」
サヤカが呟く。銀髪を掻きむしりながら、漢字と格闘していた。
「一本棒があれば一よね。二もすげーわかる。二本線。三も三本。完璧じゃん」
そこまでは良かった。問題は次だった。
「だがよぉぉぉ!」
突然サヤカが立ち上がり、漢字ドリルを叩きつけた。
「四はいったいなんなんだ!? 普通は棒を四本書くのが筋ってもんじゃねえのか!? なんで窓みたいな形なんだよ! なめやがって! イラつくわっ!」
「サヤカ、落ち着いて」
二宮がなだめようとする。
「漢字なめてんのかあぁぁ!?」
IQ200の天才少女が、小学一年生の漢字に激怒していた。
「ははは! サヤカ!」
部長のモリー・イシュタルが朗らかに笑う。
「それはだな、古代中国の象形文字から発展してきた歴史があってだね……」
「歴史とか知らねぇよ! 合理的じゃねぇだろ!」
サヤカはまだ収まらない。国語のプリントを取り出すと、今度は俳句に噛みついた。
「『古池や蛙飛び込む水の音』……これが静寂を表してる? はぁ!?」
彼女の声が部室に響く。
「音が立ってるじゃねぇかよぉぉぉ! ボチャンって! ボチャンって音してるだろうが! それのどこが静かなんだ! 矛盾してるだろ!」
「それは対比の美学で……」
部長が説明しようとする。
「美学とか知らねぇ!」
キヨシは苦笑いを浮かべながら見守っていた。普段はただの問題児だが、こうしてキレているサヤカを見ると、確かに論理的思考が強すぎるのかもしれない。
「あとさぁ!」
サヤカがまた吠える。
「時間が『前』は過去を指すのに、実際の方向だと目の前を意味するのも意味わかんねぇ! 前は前だろ! 過去は後ろだろ普通!」
「まあまあ」
山口萌が珍しく仲裁に入る。
「テストまであと三日あるから」
「三日で日本語の矛盾を受け入れろってか!?」
*
サヤカが机に突っ伏した瞬間、部長が手を叩いた。
「さて、今日の部活動だが」
その堂々とした声に、全員が注目する。まるでハリウッド映画の主人公のような存在感だった。
「山口君の次のコンサートの曲を、みんなで考えよう」
「コンサート?」
キヨシが首を傾げる。
「山口さん、一ヶ月後にコンサートなんてありましたっけ?」
山口が少し恥ずかしそうに答える。
「ポポロッカ星人相手のドサ回り」
「ポポ……なに?」
「ポポロッカ星人」
竹彦が説明する。
「銀河系第三象限の音楽愛好種族です! 地球の歌が大好きなんですよ!」
キヨシは天井を見上げた。ああ、そう……宇宙営業か。もう驚かないことにした。
「問題はね」
山口が続ける。
「彼らの言語が難しくて」
そう言って、山口は奇妙な音を発し始めた。
「ンガァ……グルルル……ミャオゥ」
まるでコアラの鳴き声だった。いや、コアラとカエルを混ぜたような、聞いたことのない音の連続。
「これで『こんにちは、今日は楽しんでください』って意味」
「ンガァが『こんにちは』ですか?」
キヨシが困惑する。
「正確には『ンガァ』の音程を三段階で変化させながら、『グルルル』を巻き舌で……」
竹彦が真面目に解説する。
山口が懸命に練習している。美しい歌声で知られる彼女が、コアラのような音を出している姿は、シュールを通り越して哀愁すら感じさせた。
「そういえば」
キヨシが思い出したように言う。
「この前、所長は普通に宇宙人と話してましたよね。どこかで勉強したんですか?」
「ああ、あれは」
部長が首筋を指差す。
「ここに小さなチップを埋め込んでるんだよ」
「チップ?」
「翻訳チップさ。銀河連盟の公用語なら大体翻訳してくれる。まあ、音波で会話しない種族もいるから完璧じゃないけどね」
「僕は音波じゃなくてもできますよ!」
竹彦が自信満々に言う。
どうやって音なしで会話するのか、キヨシには想像もつかなかった。テレパシーか? 手話か? それとももっと異常な何かか?
「そういえば」
山口が振り返る。
「キヨシ君も埋め込まないの? 私は自力で覚えたから大丈夫だけど」
「確かにそうだな」
部長が顎に手を当てる。
「明日あたり事務所に行って、マリアに打ってもらうか」
キヨシの背筋が凍った。マリアに打ってもらう。あの無表情な少女に、首に何かを埋め込まれる。絶対に痛い。絶対に怖い。
「いや、僕は……」
「ただし」
部長が付け加える。
「たまに日本語の翻訳がおかしくなることがある。日本語って複雑でね。『すみません』が『I'm sorry』になったり『Excuse me』になったり、文脈で変わるだろう?」
「そうそう」
サヤカが顔を上げる。
「この前、『結構です』を『It's fine』って訳されて、断ったつもりがOKしたことになってた」
「私も『適当にやっといて』が『Do it randomly』になって、めちゃくちゃにされた」
二宮が苦笑いする。
キヨシは心の中で決めた。絶対に埋め込まない。日本語の曖昧さに救われることもあるのだ。
「ンガァ……ミャオゥ……グルルルル♪」
山口がコアラ語で歌い始めた。メロディーは彼女のヒット曲『星の雫』だが、歌詞が完全にコアラ。美しい声で動物の鳴き声を歌う国民的歌手。
「いい感じです!」
竹彦が拍手する。
「ポポロッカ星人、感動して泣きますよ!」
「泣くの?」
キヨシが聞く。
「ポポロッカ星人の涙は紫色で、ちょっと甘いんですよ」
もう何も聞きたくない、とキヨシは思った。
*
サヤカが再び漢字ドリルを睨みつけている。
「五! なんで五は棒五本じゃねぇんだよ! もう意味わかんねぇ!」
「落ち着いて、サヤカ」
部長がなだめる。
「君のIQなら……」
「IQと漢字は関係ねぇ! これは暗記だ! 理不尽な暗記だ!」
山口のコアラソングをBGMに、サヤカの怒声が響く。窓の外では普通の高校生たちが部活に励んでいる。野球部、テニス部、吹奏楽部。
そして文芸部では、宇宙人向けのコンサートの準備と、漢字との格闘が繰り広げられていた。
「あ、そうだ」
部長が思い出したように言う。
「来週、妹の見舞いに行くんだが、誰か一緒に来てくれないか?」
「妹さん?」
山口が興味を示す。
「郊外の病院にいてね。新しい薬を届けに行くんだ」
部長の表情が少し曇った。モリー・イシュタルという本名を持つ彼にも、守るべき家族がいるのだ。
「行きます!」
竹彦が手を挙げる。
「私も」
山口が続く。
キヨシも頷いた。この奇妙な集団の一員として、少しずつ馴染んでいる自分がいた。
「ンガァ~♪ グルルル~♪」
山口の練習は続く。サヤカは相変わらず漢字と戦っている。竹彦は音波を使わない会話の練習をしているらしく、じっと壁を見つめている。




