第八十八話 「観光地の違和感」
バビロンの観光地は、午後の陽射しを受けて黄金色に輝いていた。古代の遺跡と現代建築が混在する独特の景観は、確かに見事なものだった。しかし、竹彦にとってはこの場を散策するというのは苦痛でしかなかった。
「すみません、この道はどこに……」
また観光客だった。金髪のヨーロッパ人カップルが、地図を片手に竹彦に近づいてくる。流暢なカーカラシカ語で道を尋ねてきた。
竹彦は深いため息をついた。これで今日何度目だろうか。
「僕は日本人です!」
日本語で叫んだ。しかし、カップルはきょとんとした顔で見つめるだけだった。褐色の肌、赤い瞳、小柄な体格。どう見ても現地の少年にしか見えない。
「あの……カーカラシカ語、分からない?」
女性の方が、ゆっくりと簡単な言葉で話しかけてきた。まるで子供に話すように。
竹彦の顔が赤くなった。プライドがズタズタにされている気分だった。
「だから、日本人だって言ってるでしょう!」
今度は英語で言ってみたが、カップルは首を傾げるばかり。結局、困惑した表情で去っていった。
少し離れた場所で、キヨシと山口がヒソヒソと話していた。
「困ったな……竹彦、完全に機嫌悪くなっちゃった」
キヨシが心配そうに竹彦を見ている。
「まあ、無理もないよね」
山口も苦い表情だった。
「一週間もあんな扱い受けて、その上現地人扱いされ続けたら……」
サヤカも話に加わった。お土産物屋で買ったカーカラシカ風のスカーフを首に巻いている。
「竹彦、すっかり嫌いになっちゃったわね、この国のこと」
「前々から思ってたけどさ…」
キヨシが振り返りながら言った。
「あの顔で日本人って言われてもなあ……」
振り返ると、案の定、竹彦がまた観光客に囲まれていた。今度は日本人の団体客だった。
「すみません、写真撮ってもらえますか?」
中年の女性が、カメラを差し出しながらカーカラシカ語で話しかける。日本人なのに、現地の少年だと思い込んでいるらしい。
竹彦の額に青筋が浮かんだ。
「日本人です! 私も日本人です!」
必死に日本語で訴えるが、団体客は「現地の子が日本語覚えてる!」と勘違いして、むしろ感心している様子だった。
「上手ね〜、どこで覚えたの?」
おばさんの一人が、竹彦の頭を撫でようとした。
竹彦は後ずさりして、その手を避けた。もう限界だった。
セツナが近づいてきた。相変わらず頬を膨らませているが、さすがに竹彦の困り果てた様子を見かねたようだった。
「あの人たちも別に悪気はないんだから、教えてあげれば? みんな混乱するでしょ?」
竹彦はギロリとセツナを睨んだ。
「なんでこの国の観光業に僕が気を配らないといけないんですか?」
声には明らかな敵意が込められていた。一週間の恨みは、そう簡単には消えない。
「何よ……」
セツナは小声で呟きながらも、困っている観光客たちに代わりに道案内を始めた。完璧なカーカラシカ語と日本語を使い分けて、てきぱきと対応している。
「ありがとう、お嬢さん」
観光客たちは満足そうに去っていった。
一行は中央広場にやってきた。そこには、つい最近の戦闘の爪痕がまだ生々しく残っていた。破壊された噴水は工事中で、足場が組まれている。崩れた建物の瓦礫も、まだ完全には撤去されていなかった。
観光地に奇妙な光景が広がっている。古代遺跡の隣に、現代の破壊の跡。平和な観光客たちと、戦闘の記憶。
竹彦は立ち止まって、その光景をじっと見つめた。自分が破壊した噴水。自分が壁を突き破った建物。すべて、自分の仕業だった。
「ふん」
鼻を鳴らして、踵を返した。
「僕は先にホテルに帰ります」
突然の宣言に、皆が驚いた。
「え、もう?」
二宮が心配そうに尋ねた。
「まだ午後三時だよ?」
「ここは精一杯見て回りましたからね!」
竹彦は皮肉たっぷりに言った。確かに、ある意味では正しかった。戦闘中、逃げ回りながら、追いかけながら、この街のあちこちを駆け巡った。建物を破壊し、道路を陥没させ、噴水を粉砕した。
この景色を作ったのは竹彦自身と言えなくもなかった。
「それじゃ」
足早に歩き去ろうとする竹彦の背中に、マリアの声が飛んだ。
「ガキ」
一言だけ。しかし、その言葉には複雑な感情が込められていた。呆れ、心配、そして少しの理解。
竹彦は振り返った。
「別にそれでいいです! 子供扱いで結構です!」
そして、本当に去っていった。小さな背中が、人混みの中に消えていく。
アスカが大きく伸びをした。
「まあ、飯食って寝たら多少は落ち着くやろ」
そして、皆を見回しながら続けた。
「好きにさせたろうや。ホテルでじっとしてる方が、むしろ厄介ごとが少ないかもしれん」
「でも……」
山口が不安そうだった。
「一人で大丈夫かな」
「大丈夫やろ」
アスカは楽観的だった。
「もう暴れる気力もなさそうや、この期に及んで向こうもあいつを襲おうなんて思わんやろ…」
京介も頷いた。
「確かに、精神的に疲れているようだ。休ませた方がいい」
トニー所長が時計を確認した。
「では、我々は予定通り観光を続けましょう。夕食は七時にホテルのレストランで」
一行は観光を続けることにした。しかし、誰もが心のどこかで竹彦のことを気にかけていた。
その頃、竹彦は一人でホテルへの道を歩いていた。また何人かの観光客に道を聞かれたが、無視して通り過ぎた。
ホテルのロビーに着くと、フロントの女性が流暢なカーカラシカ語で話しかけてきた。
「いらっしゃいませ。お部屋はもうお決まりですか?」
竹彦は深いため息をついた。もう諦めた。カーカラシカ語で返事をする。
「はい、部屋は予約してあります。七夕竹彦です」
女性は端末を確認しながら、親しみやすい笑顔を向けた。
「ホテルに泊まるってことは、ウルとかから来たの?」
竹彦は項垂れた。もう訂正する気力もない。
「そうです……ウルです。家族の旅行についてきました」
諦めきった声で答えた。
「まあ、素敵!」
女性は嬉しそうにパンフレットを取り出した。
「これ、観光案内よ。家族で楽しんでね。若い子向けのアトラクションもたくさんあるから」
竹彦は力なくパンフレットを受け取った。
「ありがとうございます……」
エレベーターで部屋に向かいながら、竹彦は自分の境遇を呪った。
部屋に入ると、そのままベッドに倒れ込んだ。顔を枕に埋めて、小さく呟く。
「あーあ……」
そして、ふと思い出したように言った。
「自分は松子さんの弟みたいなものなんだ……竹彦なんだ」
七夕松子。彼女が生きていたら、自分のことを弟のように可愛がってくれただろう。でも、今は一人だ。
布団を頭からかぶって、まるで繭のように丸くなった。布団まんじゅうになりながら、竹彦は静かに目を閉じた。
明日の面会のことは、今は考えたくなかった。ただ、この温かい布団の中で、少しだけ現実から逃げていたかった。
やがて、疲れ切った竹彦は、そのまま眠りに落ちていった。




