第七十六話 「復讐の誓い」
暗闇の中で、竹彦は小さな変化に気づいた。
指先が、わずかに動く。
最初は錯覚かと思った。しかし、意識を集中させると、確かに親指が微かに動いた。体が回復し始めている。ゆっくりと、しかし確実に。
何日経ったのだろうか。時折打たれる薬物で意識が朦朧とし、時間の感覚は完全に失われていた。空腹は限界を超えて、もはや痛みすら感じない。水分も最小限。喉はカラカラに乾いていた。
それでも、竹彦は耐えた。
指が動くようになると、次は手首。恐ろしいほどの力を少しずつかけて、拘束具の金属をじりじりと変形させていく。音を立てないよう、見張りの交代時間を見計らって。金属が軋む音は、自分の心臓の音にかき消されるほど小さく。
「必ず脱出する」
竹彦は心の中で繰り返した。
「マリアが、アスカが、京介さんが……もし誰かが死んでいたら」
怒りが込み上げてきた。いや、死んでいなくても、傷つけられたなら。必ず報復する。この屈辱は、百倍にして返してやる。
足音が近づいてきた。複数だ。
「どう? 調子は」
セツナの声だった。まだ若い、しかし冷たさを含んだ声。
「いつからこうしてるの?」
見張りの一人が答えた。
「一週間くらいですね。まあ、よく生きてますよ」
「くさいわね」
セツナの声に嫌悪感が滲んでいた。鼻を押さえているのだろう。
「なにせ」
見張りが苦笑いを浮かべる気配がした。
「用を足すために拘束具を外したら、こちらがミンチになりますからね。仕方ないでしょう」
一週間も……竹彦は愕然とした。排泄すらさせてもらえず、まるで物のように扱われている。
「ちょっとくらい人間らしく扱ったら?」
セツナの声に、わずかな動揺が混じっていた。さすがにこの扱いは、彼女にも酷すぎると感じたのだろうか。
「まあ、少しくらいなら……」
見張りが上官に確認を取る声が聞こえた。
「マスクを外していいですか? ニーナ様もいらっしゃいますし」
許可が下りたらしい。ガチャガチャと金属音がして、顔を覆っていた重いマスクが外された。
光が、針のように目に突き刺さった。
「うっ……」
竹彦は思わず呻いた。一週間ぶりの光は、拷問に等しかった。瞼は腫れ上がり、左目はほとんど見えない。それでも、必死に周囲を確認した。
白い独房。鋼鉄製のドア。天井近くの通気口。壁の材質、床の構造。脱出のための情報を、頭に叩き込んでいく。
「ひどい顔……」
セツナが息を呑む音が聞こえた。竹彦の顔は、殴打の跡で原型を留めていなかった。鼻は曲がり、頬は紫色に腫れ上がり、唇は切れて血が固まっている。
「ニーナ様、こいつが……」
セツナの横に、もう一人立っていた。
金髪に赤い瞳。セツナと似た容貌だが、より威厳があり、より冷たい。カーカラシカの女帝、ニーナ・ボムその人だった。
「ニーナ……カーカラシカ……」
竹彦は口を動かそうとした。しかし、口の中はズタズタで、舌も切れている。言葉はぼそぼそとした呟きにしかならなかった。
ニーナは無言で竹彦を見つめていた。その赤い瞳には、何の感情も読み取れない。やがて、かすれた声で聞いた。
「……目的は?」
竹彦は息を整えてから答えた。
「ただの……情報収集……ロケットの推進力を……調べたかった……」
血の混じった唾を飲み込む。喉が焼けるように痛い。
「けど、それはもういい」
竹彦は顔を上げた。腫れ上がった目から、赤い瞳が覗いていた。
「別の目的ができた」
セツナが、ぞっとした。竹彦の声に宿った何かが、背筋を凍らせた。それは純粋な殺意、いや、それ以上の何かだった。
「何?」
ニーナが短く聞いた。
竹彦はゆっくりと口を開いた。
「事務所の人は……死んだ?」
ニーナは少し考えるような素振りを見せた。そして、感情のない声で答えた。
「多分、二、三人」
竹彦の顔から、わずかに残っていた表情が消えた。
「そうですか……」
うつむいた竹彦の肩が、微かに震えていた。怒りか、悲しみか、それとも……
「どうしたの?」
セツナが聞いた。何か、嫌な予感がしたのだろう。
竹彦は顔を上げた。腫れ上がった顔に、薄い笑みが浮かんでいた。
「もう話すことはない」
その声は、奇妙に穏やかだった。
「なんで僕を殺さないのかは分かりませんが、助かります」
そして、それきり口を閉ざした。
ニーナが何か質問をした。返事がない。見張りが警棒で竹彦の肩を叩く。反応なし。もう一度、今度は強く。それでも、竹彦は微動だにしなかった。まるで、魂が抜けてしまったかのように。
「マスクをかぶせなさい」
ニーナが命じた。見張りたちが慌てて金属のマスクを竹彦の頭に被せていく。
刑務官の上官が、ニーナに近づいて説明した。
「銀河では最重要指名手配犯のようです。しかるべき所に連れて行けば、莫大な報奨金が」
彼は続けた。
「ラムザ様もおっしゃっていました。連盟に到達した時、この男を連れて行けば、我々への評価も変わってくるだろうと」
「……そう」
ニーナは興味なさそうに答えて、踵を返した。セツナも後に続く。
独房のドアが閉まる直前、セツナは振り返った。再び暗闇に包まれた竹彦の姿が、なぜか哀れに見えた。いや、恐ろしく見えたのかもしれない。
ドアが完全に閉まった後、暗闇の中で竹彦は静かに呟いた。
「二、三人……」
その声は、誰にも聞こえなかった。
拘束具の金属が、また少し軋んだ。




