第七十三話「絶望的な撤退」
第四部 第七十三話
「絶望的な撤退」
アマガワ事務所に重い空気が漂っていた。
マリアは机に向かったまま、頭を抱えていた。普段の無表情な彼女からは想像もつかない姿だった。
「状況は最悪」
彼女が呟いた。
逃走中の出来事が脳裏をよぎる。アンドラの追撃は容赦なかった。アスカは錫杖の一撃で肋骨を数本折られ、京介も深い裂傷を負った。二人とも特殊な体質のおかげですぐに回復したが、本当にギリギリの撤退だった。
「なんでや……なんで追手が引き返したんや」
「きっと、もう用は済んだからよ」
サヤカが答えた。
事務所のドアが開き、ハブ家の技術者が入ってきた。顔面蒼白だった。
「我々の仲間が……三人、捕まりました」
重い沈黙が流れた。
「それだけじゃない」
技術者は続けた。
「情報を流そうとしたエンジニアも……おそらくもう……」
「殺されてる」
マリアが冷たく言い切った。
技術者は深くため息をついた。
「カーカラシカの技術力……想像を絶していました。アーティカルアームなんて、我々の科学では再現不可能です」
マリアはPCの画面を見つめた。そこには、不完全ながらも入手できた設計図の一部が表示されている。動力部分は欠けているが、それでも彼らの技術の高さは一目瞭然だった。
「問題はそれだけじゃない」
京介が重い口を開いた。
「捕まったハブ家の人間が、もし何か喋れば……」
「国際問題」
マリアが言った。
「産業スパイの現行犯。言い訳不可能」
キヨシは青ざめていた。
「おじさんになんて報告すれば……」
トニー所長も困り果てていた。
「こんな事態、想定していませんでした」
その時、マリアが顔を上げた。
「みんな、話を聞いて」
全員がマリアを見た。彼女の表情は真剣そのものだった。
「この中で、一番土下座の上手い人は誰?」
一瞬の静寂。
そして――
「はあ!?」
キヨシが叫んだ。
「なに言ってんだマリア!」
アスカも怒った。
「今そんな話してる場合か!」
「ふざけんな!」
サヤカも声を荒げた。
しかしマリアは真顔のままだった。
「私は、とりあえず靴の裏まで舐める」
全員が絶句した。
「これはもうそういう話、言い訳して引き下がる相手じゃない」
京介が呟いた。
その時、山口の泣き声が響いた。
「竹彦くん死んじゃった! うわあああああ!」
彼女は本当に大粒の涙を流していた。
「なんで……なんでこんなことに……」
マリアが無感情に付け加えた。
「今頃、夕食に出されてる頃」
「ひいいいい!」
山口の泣き声がさらに大きくなった。二宮が慌てて山口を慰めようとする。
「大丈夫ですよ、きっと竹彦さんは……」
「でも、あのラムザって奴、めちゃくちゃ強かったじゃない!」
山口は泣き続けた。
「竹彦くん、ボコボコにされて……」
キヨシは拳を握りしめた。
「くそ……俺のせいだ。俺が交渉なんかに行かなければ……」
「違う、誰のせいでもない。相手が強すぎた」
アスカが壁を殴った。
「けど、このままじゃあかん! 何か手を打たんと!」
マリアは立ち上がった。
「だから、土下座」
「ほかになんかあるだろ!」
「ない」
キヨシが叫んだ。
マリアは冷静に説明した。
「カーカラシカに謝罪しに行く。全面的に非を認めて、許しを請う。それしかない」
京介が眉をひそめた。
「しかし、それでは竹彦は……」
「助からない可能性が高い」
マリアは淡々と言った。
「でも、これ以上被害を広げないためには……」
事務所に重い沈黙が流れた。
山口はまだ泣いていた。
「竹彦くん……竹彦くん……」
二宮が優しく背中をさすっていた。
「大丈夫、きっと何か方法があります」
しかし、その声にも確信はなかった。
窓の外では、東京の夜景がいつも通り輝いていた。しかし事務所の中は、かつてないほどの絶望に包まれていた。
「とりあえず」
マリアが言った。
「ハブ家に連絡。状況説明が必要」
キヨシは震える手で携帯を取り出した。おじさんに何と言えばいいのか、全く分からなかった。




