第六十四話 「唯一の家族」
アマガワ事務所に重い沈黙が流れていた。キヨシが北海道から戻ってきて数時間後、竹彦がようやく重い口を開いた。
「僕には、本当の名前がないんです」
竹彦の声は、普段の明るさを失っていた。事務所のメンバー全員が、息を詰めて聞いていた。
「七夕という苗字は……松子さんからもらったものです」
竹彦は天井を見上げた。記憶の中の温かい日々が、目の前に浮かんでいるようだった。
「松子さん……七夕松子さんは、当時16歳でした。僕は13歳の孤児で、どこから来たのかも分からない子供でした」
マリアは無表情のまま、じっと竹彦を見つめていた。京介は腕を組み、深刻な表情で立っていた。
「松子さんと二人で、小さなアパートに住んでいました。家族のように……いえ、本当の家族でした。僕にとって、唯一の家族だったんです」
竹彦の声が震えた。
「朝は松子さんが作ってくれた朝ごはんを食べて、僕は事務所で雑用をして、夜は一緒にテレビを見て……普通の、本当に普通の生活でした」
キヨシは黙って聞いていた。数万人を殺した怪物のような存在が、かつては普通の少年だったという事実に、複雑な気持ちになっていた。
「でも、ある時から事務所の雰囲気が変わったんです」
竹彦の表情が曇った。
「みんな大慌てで、何か重大な失敗をしたみたいでした。当時の僕は雑用係だったから、詳しいことは分からなかった。でも、白い林檎という組織との仕事で、何かとんでもないミスをしたらしくて……」
アスカが口を開いた。
「それで、報復されたんか」
竹彦は小さく頷いた。
「ある夜、突然でした。事務所のメンバー10人全員が……松子さんも含めて……」
竹彦の声が途切れた。拳を握りしめ、震えていた。
「僕も一緒に襲われました。当時の僕は、今みたいな力なんてなかった。ただの普通の少年でした。だから、簡単にやられて……瀕死の重傷を負って……」
事務所の空気が、さらに重くなった。
「目が覚めた時、隣に松子さんが……冷たくなって横たわっていました」
竹彦の目から、一筋の涙が流れた。
「その瞬間、何かが壊れたんです。いや、何かが目覚めたのかもしれない。体中から、信じられない力が湧いてきて……」
マリアが冷たく言った。
「それで数万人殺したの?」
竹彦は顔を上げた。
「許されないことだと分かってます。でも……でも僕には他に方法がなかった!」
竹彦の声が大きくなった。普段の丁寧な口調が崩れていた。
「松子さんを殺した奴らを、一人残らず消したかった。二度と、誰も同じ目に遭わないように……全部、全部消してやろうと思ったんだ!」
アスカが続けた。
「他の方法もあったんちゃうか? 女子供まで全員は……」
「分かってる!」
竹彦が叫んだ。
「分かってるよ! でも、あの時の僕には……松子さんを失った僕には、それしか思いつかなかった」
マリアが立ち上がった。
「サイコパス」
一言だけ言って、機械いじりに戻ろうとした。しかし、振り返って付け加えた。
「でも、気持ちは分かる。私も、パピーのためなら同じことをしたかもしれない」
京介がマリアの頭を優しく撫でた。
「それでキモン家との因縁も?」
キヨシが聞いた。
竹彦は頷いた。
「白い林檎は、僕を止めるためにキモン家に依頼したんです。でも……」
「返り討ちにしたんやな」
アスカが言った。
「キモン家は報復の対象じゃなかった。でも、向かってくる人は……」
事務所に再び沈黙が流れた。
マリアが冷たく言った。
「幹部やボスだけ殺せばよかった。なんで女子供まで皆殺し? 理解できない」
竹彦は何も言えなかった。
京介が重い口を開いた。
「身内を殺されたら、報復は当然の権利だ。俺も同じ立場なら……」
京介は一度言葉を切った。
「ただ、他にやり方があったかもしれないな」
アスカが腕を組んだ。
「いつ聞いてもまじでいかれた話やな。世間では、竹彦が0級に成り上がるためにでっち上げた話やって言われとるけど……まあ、本当なんやろうな」
アスカは所長を見た。
「所長も、ある意味証人やし」
トニー所長が震えながら口を開いた。
「私は……白い林檎の会計をしていました。組織の裏帳簿を管理していて……まずい話を知りすぎてしまったんです」
全員が所長を見た。
「口封じのために消されそうになった時、竹彦君が……血まみれで現れて、私を助けてくれました。それから、ずっと竹彦君の下で働いています」
事務所に重い沈黙が流れた。
マリアが立ち上がった。
「京介やアスカの理論、不満」
マリアは無表情のまま続けた。
「でも、私も竹彦に助けられた。だから、強くは言えない」
そして、キヨシの方を向いた。
「今回の潜入は危険。中止する。別の方法を考える」
「え? でも……」
キヨシが戸惑った。
「セツナが竹彦を狙ってる。巻き込まれる」
マリアの声は、いつもの無感情な調子だったが、どこか心配が滲んでいた。
「カーカラシカの技術、別の方法で入手する。考える」
竹彦が頭を下げた。
「すみません、僕のせいで……」
「謝罪はいい」
マリアは機械いじりに戻った。
「過去は変えられない。でも、未来は選べる」
山口が恐る恐る部屋に入ってきた。
「あの……大丈夫?」
竹彦は無理に笑顔を作った。
「大丈夫です。心配かけてすみません」
サヤカも顔を出した。
「なんか重い話してたみたいだけど……」
二宮がニコニコしながら言った。
「晩ごはん、まだですよね?」
アスカが立ち上がった。
「そやな、腹減ったわ。竹彦、なんか作ってや」
竹彦は小さく微笑んだ。
「分かりました。今日は……焼きそばを作りますね!」
「竹彦の焼きそば、具が少ないんやけど、あれは何かこだわりでもあんの?」
「焼きそばは具が少ないものなんです!」
キヨシは複雑な表情で竹彦を見ていた。数万人を殺した少年と、目の前で料理を作ろうとしている優しい少年が、同一人物だという事実を、まだ完全には受け入れられずにいた。
「とりあえず」
京介が言った。
「セツナの件は、慎重に対処する必要がある」
「同感」
マリアが短く答えた。
竹彦はキッチンに向かいながら、小さく呟いた。
「松子さん……僕は、正しく生きられていますよね…」




