第二十話「迷子の桜」
桜は呆然と立ち尽くしていた。
バッグの中を確認する。お菓子、防犯ブザー、2000円札、そして携帯電話。都内で迷子になった時の完璧な装備。でも、ここは都内ではない。いや、地球ですらない。
2000円札が通用するか分からない。携帯電話の画面には無情にも「圏外」の文字。
防犯ブザーを鳴らそうか。でも——
目の前を、緑色のぬめぬめした生物が通り過ぎる。あれに液状化光線でも撃たれたら? あそこの巨大ナメクジみたいなのに丸呑みされたら?
「車に戻ろう」
そう決めて振り返った時、桜は凍りついた。
車がない。
見上げると、遥か上空を、あの車がすーっと飛んでいくのが見えた。まるで飛行機のように、どんどん小さくなっていく。
「行っちゃった……」
膝から力が抜けた。
近くにベンチらしきものがあった。材質は金属なのか石なのか分からないが、とにかく座れそうだ。桜はよろよろとそこに腰を下ろした。
涙が込み上げてきた。お兄ちゃんはどこ? ここはどこ? 私、どうなっちゃうの?
「キチキチキチ……」
奇妙な音がした。顔を上げると、巨大なカブトムシのような生き物がこちらを見ていた。体長は50センチはあるだろうか。複眼がぎょろりと動く。
「キチチチ!」
カブトムシが桜の袖を掴んだ。六本の脚のうち二本で、ぐいぐいと引っ張ってくる。
「や、やめて!」
パニックだった。理性なんて吹き飛んでいた。
「やめて! 離して!」
桜は叫んだ。周囲の宇宙人たちが振り返る。悪目立ちしているのは分かっていたが、もうどうでもよかった。
これは生きるか死ぬかの問題だ。この巨大昆虫に食べられる! 噛みつかれる! 卵を産み付けられる!
「いやああああ!」
振り払って走り出した。でも、恐怖で足がもつれる。
べちゃっ。
派手に転んだ。膝と手のひらが痛い。涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると——
カチッとした制服を着た生物が近づいてきた。警備員だろうか。隣には、宙に浮く帽子を被った生首のようなロボットが付き従っている。
もう限界だった。
「うわああああん!」
桜は声を上げて泣き始めた。13歳の中学生には、この状況は重すぎる。
警備員らしき生物が桜を持ち上げようとした時——
「何してるんですか?」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは——
ずんぐりむっくりの体格。異常に発達した肩幅。褐色の肌に、赤い瞳。
桜は見覚えがあった。学校の友達から見せてもらった写真。『絶対に関わるな』と言われた人物。
坂の上町のアークデーモン。
七夕竹彦。
警備員が何か言葉を発した。宇宙語だろうか、全く理解できない。でも、その態度は明らかだった。じりじりと後ずさりしている。恐れているのだ。
竹彦が一歩前に出た。
「この子は私の知り合いです。お騒がせしました」
丁寧な口調。でも、警備員の震えは止まらない。何か早口で喋ると、慌てて去っていった。生首ロボットも、くるりと回転して追いかけていく。
竹彦が桜に向き直った。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
優しい声。桜は震えながらも、この異常な世界の中で唯一見知った地球人の姿に、わずかな安堵を感じた。アークデーモンと呼ばれる恐ろしい人物。でも今は、この宇宙の迷宮で出会った唯一の救いだった。
「あ、あの……」
「ああ、キヨシさんの妹さんですね。桜さんでしたっけ」
竹彦は微笑んだ。学校で見る写真とは違い、意外に人懐っこい笑顔だった。
「ちょっと待ってくださいね」
竹彦は近くの売店のような場所に向かい、何かを購入してきた。奇妙な容器に入った飲み物と、キラキラ光る飴玉のようなもの。
「これ、飲んでみてください。地球人でも大丈夫なやつです」
容器の開け方すら分からない。竹彦が手伝ってくれた。甘い香りがする液体を恐る恐る口にする。
「飴もどうぞ。緊張がほぐれますよ」
飴玉を口に入れた瞬間、不思議な感覚が広がった。
ふわーっと体が軽くなる。視界の端に、幾何学模様がゆらゆらと見える。サイケデリックな万華鏡のような世界。
「あははは!」
桜は突然笑い出した。なんだか全てがおかしくて、楽しくて仕方がない。
「効いてきましたね」
竹彦が優しく微笑んだ。
「宇宙酔い止めみたいなものです。初めての人には刺激が強いかもしれませんが」
桜はニコニコしながら辺りを見回した。さっきまで恐ろしかった宇宙人たちが、なんだか可愛く見える。
「ほら、あそこにおもちゃ屋さんがありますよ」
竹彦が指差した先には、光り輝く店がある。
「何か買っていきます?」
「うん!」
桜は素直に頷いた。もう怖くない。この変な飴のおかげで、全てが楽しい冒険に思えてきた。
竹彦は桜の手を引いて、店に入った。中には見たこともないおもちゃがいっぱい。宙に浮くボール、形を変える人形、小さな恐竜のようなペット。
「これ、欲しい!」
桜が指差したのは、虹色に光る小さなクリスタル。触ると温かくて、まるで生きているみたい。
「いいですね。じゃあ、それにしましょう」
竹彦が店員らしき触手の生物に何か話しかけ、支払いを済ませた。
店を出ると、桜はクリスタルを大事そうに抱えていた。
「さて、そろそろ事務所に戻りましょうか」
「事務所?」
「ええ、お兄さんも戻ってくるはずです。みんな心配してるでしょうから」
竹彦は桜を軽々と抱き上げた。
「しっかり掴まっててくださいね」
そして、信じられないことに、竹彦は地面を蹴って跳躍した。10メートル、20メートル……まるで重力が存在しないかのように、ビルからビルへと飛び移っていく。
「きゃははは!」
桜は笑い続けた。怖いはずなのに、飴の効果で全てが遊園地のアトラクションのように感じられる。
風を切って飛ぶ感覚。下を見れば、宇宙都市の光景が広がっている。
この異常な小旅行は、桜にとって忘れられない体験になりそうだった。




