第十九話「妹の疑惑」
夕食の食卓は、以前とは比べ物にならないほど豪華だった。
国産牛のステーキ、新鮮な刺身、季節の野菜サラダ。デザートには高級アイスクリームまで用意されている。
「お兄ちゃん、今日もごちそうだね!」
桜は嬉しそうに箸を動かしていたが、心の奥では違和感が膨らんでいた。
今月だけで、どれだけのものを買ってもらっただろう。新しい服、お気に入りのアニメグッズ、真新しい自転車。計算すると、軽く2万円は超えている。
ついこの前まで、スーパーで特売品を必死に探していた兄が。
「ねぇ、お姉ちゃん」
桜は向かいに座る姉の茜に小声で話しかけた。
「何か、最近おかしくない?」
「何が?」
茜は医学書を片手に、興味なさそうに答える。
「お兄ちゃん、お金使いすぎじゃない?」
「お金持ちなのはいいことじゃないか!」
茜は医学書をテーブルに置き、にやりと笑った。
「桜ちゃんも、お兄ちゃんに何でも買ってもらうといい。私なんて昨日、新しいスマホ買ってもらったからね!最新モデルだよ?」
「でも……」
「最近いいバイト先ができたって言ってたじゃない。きっとそれよ」
茜はまた医学書に目を落とした。この姉は、自分の勉強と快適な生活以外には、基本的に無関心なのだ。
桜は箸を置いた。中学のクラスメイトから聞いた噂が頭をよぎる。
『お前の兄ちゃん、坂の上町のアークデーモンと仲良くなったんだって?』
七夕竹彦。その名前を聞くだけで、誰もが顔を青ざめさせる男。東京で最も危険な高校生。
もしかして、兄は何か悪いことに巻き込まれているのではないか。
翌日の土曜日、桜は決心した。兄の後をつけることにしたのだ。
「バイト行ってくる」
キヨシがいつものように玄関を出る。桜は適当な理由をつけて、少し遅れて家を出た。
兄は学校への道を進んでいたが、途中で脇道に逸れた。普段は絶対に通らない、裏路地の方向だ。
桜は距離を保ちながら後を追った。狭い路地を抜け、また別の路地へ。まるで迷路のような道筋を辿っていく。
やがて、奇妙に開けた場所に出た。
そこには古びた二階建ての建物が立っていた。『アマガワ事務所』という手書きの看板が、かろうじて読み取れる。
兄が中に入っていくのを確認し、桜は建物の裏に回った。窓から中を覗き込む。
テレビの前でタバコを吸っている、黒いスーツの長身の女性。関西弁が聞こえてきた。
「あー、今日も暇やなぁ」
そして、銀髪の少女。桜と同じくらいの年齢に見える。機械部品を弄りながら、何かぶつぶつと呟いている。
「配線、違う。ここじゃない」
奥には、金髪の優しそうな男性もいた。書類を整理しているようだ。
兄はどこに行ったのだろう?
その時、玄関のドアが開いた。
入ってきたのは、サラリーマン風の男だった。だが、その顔は——
「キュルキュル、ザザザ……」
早回しのテープのような、理解不能な音声。それが言葉らしい。
金髪の男性が頷いて、何か包みを渡した。すると、その「男」は——
自分の頭を掴んだ。
そして、首から上を、まるでペットボトルのキャップを外すように、ぱかっと取り外した。
胴体の中は空洞になっていて、そこに包みを入れ込む。
「ひっ……」
桜は口を押さえた。昨夜見たホラー映画なんて比じゃない。現実に、目の前で、人間の頭が外れたのだ。
「まいどー」
長身の女性が気軽に手を振る。化け物は頭を元に戻し、何事もなかったかのように出て行った。
桜は震えながら、建物の壁を見た。配管が這っていて、なんとか屋上まで登れそうだ。
もっと真実を知りたい。その一心で、桜は配管を掴んで登り始めた。
屋上に出ると、そこには車が2台停まっていた。
なぜ屋上に車が?
ドアが開く音がした。桜は慌てて、鍵が開いていた車に滑り込んだ。後部座席の足元に身を隠し、そこにあったブランケットを被る。
ドアが開き、誰かが乗り込んできた。銀髪の少女の声がする。
「準備、完了」
運転席からは——兄の声だった。
「マリア、今日の取引場所は?」
「メタル環状線、ブルル駅」
長身の女性の声も聞こえてきた。
「ブツはこれや。何かあったらすぐ車出せるようにしとけよ」
「了解です、アスカさん」
「下の階で待機な。上から何かあったら、ウチが床ぶち抜いて飛び降りるから」
「床をぶち抜く……?」
「真下に車停めんなよ。瓦礫に埋もれたら意味ないやろ」
「はい、気をつけます」
「透過スコープで場所見とけ。相手の人数次第で、停車位置変えるんや」
マリアが付け加えた。
「相手はチキン。たぶん何もない」
「そう言って、この前えらい目に遭ったやろ」
アスカの声には苦笑が混じっていた。
桜は目眩がした。これは、マフィア映画でしか聞いたことのない会話だ。取引、逃走経路、武装した相手……
優しい兄が、こんな世界に足を踏み入れているなんて。
エンジンがかかった。奇妙な浮遊感。まるで車が浮いているような——
10分後、ずしんという着地音。ドアが開き、閉まり、そして静寂。
全員が外に出たようだ。
桜は恐る恐る顔を上げた。
「え……?」
そこは、地球ではなかった。
窓の外に広がるのは、SF映画のような光景。流線形の建物、空中を行き交う車両、そして——
明らかに人間ではない生命体たちが、堂々と歩いている。
触手を持つもの、三つ目のもの、透明な体のもの。
「な、なにこれ……」
桜は震える手で車のドアを開けた。足がふらつく。現実感が完全に失われていた。
これは夢だ。そうに違いない。
でも、頬をつねっても目は覚めない。
桜は、よろよろと歩き始めた。巨大な建造物の中、迷子になることは確実だった。
兄は一体、どんな世界に関わっているのだろう。
宇宙人? 異世界? それとも——
「お兄ちゃん……」
小さく呟いた声は、異星の雑踏に飲み込まれて消えた。




