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第百四十一話「七夕松子の夢」



 宇宙空間、地球軌道上。

 借り物の母艦「テンペスト」の艦橋で、カーカラシカの若い士官が緊張した面持ちで計器を見つめていた。


「艦長、三時の方向に未確認飛行物体!」


 日本のサムライ、ハブ家の若手が艦長席から立ち上がった。VR訓練を数週間受けただけだが、もう実戦だ。


「識別信号は?」


「ありません。おそらくトロン星の偵察機かと」


「警告射撃の準備」


 竹彦から借りた護衛艦が、レーザー砲を偵察機に向けた。一発、二発。警告の光が宇宙空間を走る。

 偵察機は慌てたように反転し、逃げ去っていった。


「追跡しますか?」


「いや、警告で十分だ」


 艦長は座り直した。戦士連盟から借りた艦隊は小規模だが、威嚇には十分だった。竹彦が過去に助けた星々が、恩返しとして一年間の貸与を申し出てくれたのだ。


           *


 地球、東京。

 アマガワ事務所は、がらんとしていた。

 竹彦は一人、デスクに座って書類を眺めていた。宇宙人観光客の申請書。といっても、地球が急にきな臭くなったせいで、観光客は激減。申請書も数枚しかない。


「暇だな……」


 窓の外を見ると、異様な光景が広がっていた。キノコが生えるような速度で、巨大な構造物が建設されている。多重防衛網の外殻だ。銀河標準の建築機械が、昼夜を問わず稼働していた。

 電話が鳴った。


「はい、アマガワ事務所です」


『メル! 何してるの!』


 ニーナの声だった。


「事務所で仕事です」


『仕事って、誰もいないんでしょう? 早くカーカラシカに来なさい』


「そのうち行きます」


『そのうちって、いつ!?』


 竹彦は受話器を少し耳から離した。母親の声が大きすぎる。


「落ち着いたら」


『もう! メルったら!』


 通話を切って、竹彦は椅子にもたれかかった。

 正直、一人の時間が欲しかった。新しい体、新しい家族、新しい立場。全てが急すぎて、頭の整理がつかない。

 ドアが開いた。


「やっぱりここにいた」


 二宮が入ってきた。猫のような目で、竹彦を見つめている。


「二宮さん、受験勉強は?」


「息抜きよ。それより、一人で何してるの?」


「別に……」


 二宮は竹彦の隣に座った。


「みんな心配してるわよ。キヨシ君も、萌ちゃんも、サヤカも」


「みんな忙しいでしょう」


 確かにその通りだった。キヨシはサムライとアンナムの仕事で東奔西走。萌は地球人のイメージアップのため、銀河各地でコンサート。サヤカはマリアと一緒に技術開発に没頭している。


「でも、竹彦君だって忙しいはずよ」


 二宮が不思議そうに首を傾げた。


「艦隊を借りてきて、白兵兵装を配って……全部丸投げして、ここで何してるの?」


 竹彦は答えなかった。答えられなかった。

 自分でもよくわからないのだ。ただ、この事務所にいたかった。松子さんと過ごした、あの静かな日々を思い出したかった。


「ねえ」


 二宮が優しく言った。


「変化が急すぎて、疲れちゃった?」


 図星だった。


「……かもしれません」


「そういう時は、無理しない方がいいわ」


 二宮は立ち上がった。


「でも、ずっとここにはいられないわよ」


「わかってます」


 二宮は微笑んで、事務所を出て行った。

 一人になった竹彦は、窓の外を見た。

 地球の空に、カーカラシカの飛空艇が飛び交っている。日本各地で、白兵兵装の訓練が行われているらしい。アメリカとヨーロッパも、結局は参加を決めた。全世界が、一年後の戦いに向けて動き出している。

 その中心にいるはずの自分が、がらんとした事務所でぼんやりしている。


「松子さん……」


 小さく呟いた。


「僕、どうすればいいんでしょうか」


 答えは返ってこない。当たり前だ。松子さんはもういない。

 電話がまた鳴った。今度はアスカからだった。


『おい竹彦! イタリア来いや! アンナムの仕事、山ほどあるで!』


「今は東京にいたいんです」


『は? なんでや』


「ちょっと…疲れちゃって…」


『……そうか』


 アスカは珍しく、それ以上追及しなかった。


『まあ、ゆっくりしいや。でも、あんまり一人でおると、ろくなこと考えへんで』


 通話が切れた。

 竹彦は立ち上がり、事務所の奥へ向かった。そこには、松子さんの遺影が飾ってある。


「僕、強くなりました」


 遺影に向かって報告する。


「体も治って、お母さんも見つかって、銀河でも認められて」


 でも、と続ける。


「なんだか、全部夢みたいで」


 遺影の松子さんは、優しく微笑んでいるように見えた。

 外では、地球改造が急ピッチで進んでいる。一年後には、この星は要塞と化しているだろう。

 竹彦は深呼吸をした。

 いつまでも、ここにはいられない。二宮の言う通りだ。

 でも、もう少しだけ。もう少しだけ、この静かな場所にいたかった。


窓の外を眺めながら、竹彦は五年前のことを思い出していた。


           *


 あの頃の事務所は、もっと賑やかだった。

 所長の田中さん。いつも煙草を吸いながら、難しい顔で書類を睨んでいた。

 経理の山本さん。眼鏡をかけた中年の女性で、竹彦にいつもお菓子をくれた。

 調査員の佐藤さん、鈴木さん、高橋さん。それから、事務の伊藤さん、渡辺さん……。

 十人ほどの、小さな探偵事務所。

 浮気調査や人探しが主な仕事だった。

 竹彦は、その中で一番下っ端だった。

 お茶を淹れる。書類をコピーする。郵便物を届ける。

 十三歳の少年にできることは、それくらいしかなかった。


「竹彦くん、これコピー十部ね」


「はい、山本さん!」


「竹彦、ちょっと煙草買ってきてくれ」


「わかりました、所長!」


 走り回る毎日。でも、嫌じゃなかった。

 みんな優しかった。竹彦を家族のように扱ってくれた。

 そして、松子さんがいた。


           *


 あの日の数日前。

 事務所は、いつもと変わらない昼下がりだった。


「竹彦、お昼ご飯買ってきて!」


 松子さんが財布を渡してくれた。


「コンビニでいいから。みんなの分ね!」


「はい!」


 竹彦は事務所を出て、近くのコンビニに向かった。

 十人分の弁当とお茶。両手いっぱいの袋を抱えて戻ると、事務所は昼休みの和やかな空気に包まれていた。


「おー、竹彦くん、ありがとう」


 佐藤さんが弁当を受け取りながら言った。


「今日の調査、大変だったんだよ。浮気現場の張り込みでさ」


「佐藤、飯食いながらその話はやめろ」


 所長が煙草を消しながら言った。


「食欲なくなる」


 みんなが笑った。

 竹彦も一緒に弁当を食べた。松子さんの隣で。


           *


 あの夜。

 事務所に泊まり込みで仕事をしていた。

 大きな案件が入って、みんな忙しかった。

 竹彦は、資料整理を手伝いながら、ソファでうとうとしていた。


「竹彦、もう寝てていいよ」


 松子さんが毛布をかけてくれた。


「奥の部屋、使っていいから」


「でも……」


「いいからいいから!」


 松子さんは笑った。

 その笑顔を、竹彦は今でも覚えている。

 竹彦は、言われるままに奥の部屋に向かった。

 小さな仮眠室。簡易ベッドが一つだけある。

 横になって、目を閉じた。

 事務所の方から、みんなの声が聞こえる。


「この案件、やばくないか?」


「相手が相手だからな。白い林檎だろ?」


「新興宗教か。最近、過激になってるらしいな」


「気をつけろよ。逆恨みされたらたまらん」


 大人たちの会話。竹彦には、よくわからなかった。

 白い林檎。

 変な名前の宗教団体。

 依頼人の家族が、その団体に入信して帰ってこないらしい。

 それを調査しているのだと、松子さんが教えてくれた。

 竹彦は、そのまま眠りに落ちた。


           *


 ガラスの割れる音で、目が覚めた。

 悲鳴が聞こえた。

 怒号が聞こえた。

 そして――銃声。

 竹彦は飛び起きた。

 心臓が早鳴りしている。何が起きているのかわからなかった。

 ドアの隙間から、事務所を覗いた。

 見えたのは、地獄だった。

 白い服を着た集団が、事務所になだれ込んでいた。

 手には、ナイフや金属バット。

 そして、銃。


「神の敵を粛清せよ!」


 狂ったような叫び声。

 所長が、最初に撃たれた。

 胸を押さえて、倒れた。煙草が、床に転がった。


「所長!」


 佐藤さんが駆け寄ろうとして、背中から刺された。

 山本さんが悲鳴を上げた。その声は、すぐに途切れた。

 鈴木さん、高橋さん、伊藤さん、渡辺さん。

 一人、また一人と倒れていく。

 血が、床を染めていく。

 竹彦は、動けなかった。

 声も出なかった。

 ただ、震えながら見ていることしかできなかった。


           *


「竹彦!」


 松子さんの声が聞こえた。


「逃げて!」


 松子さんが、こちらに向かって走ってきた。

 その背後から、白い服の男が追いついた。

 男は松子さんの髪を掴み、強引に引き倒した。


「松子さん!」


 竹彦は思わず飛び出した。

 男が、ナイフを構えた。

 松子さんが、竹彦を見た。

 その目が、何かを伝えようとしていた。

 逃げて。

 生きて。

 刃が、松子さんの首を横に薙いだ。

 赤い線が、喉元に走った。

 血が、噴き出した。

 松子さんの口が動いた。声は出なかった。

 ただ、唇だけが動いていた。

 たけ、ひこ。

 そして、崩れ落ちた。

 竹彦の足元に、松子さんが倒れた。

 首から流れ出る血が、竹彦の靴を濡らした。


「松子……さん……?」


 膝をついた。

 松子さんの体を抱き起こそうとした。

 首が、あらぬ方向に傾いた。


「あ……」


 温かかった体が、急速に冷たくなっていく。

 目が、虚空を見つめていた。

 竹彦を守ろうとした、あの優しい目が。

 もう、何も映していなかった。


「嘘だ……」


 涙が溢れた。


「嘘だ……起きてよ……松子さん……」


 白い服の男たちが、竹彦を取り囲んだ。


「ガキがいたぞ」


「始末しろ」


 ナイフが振り下ろされた。

 肩に激痛。

 腹に熱い何か。

 背中に、鈍い衝撃。

 竹彦は、松子さんの隣に倒れた。

 二人の血が、床の上で混じり合った。

 意識が遠のいていく。

 寒い。

 痛い。

 松子さん。

 ごめんなさい。

 僕も、すぐに……。


           *


 闇の中で、何かが燃えていた。

 体の奥底から、暗い炎のようなものが湧き上がってくる。

 熱い。

 痛い。

 でも、その痛みが――力になっていく。

 刺された肩の傷が、ずきずきと脈打っている。

 腹の傷が、焼けるように痛む。

 激痛が、全身を駆け巡る。

 だが、その傷口が――半端に塞がり始めていた。

 肉が盛り上がる。皮膚が引き攣る。

 完全には治らない。でも、死なない程度には塞がっていく。

 痛みが、何かを呼び覚ましていた。

 体の底に眠っていた、暗い何か。

 エネルギーのような、炎のような、どす黒い力。

 それが、竹彦の中で渦巻いていた。


           *


 目が覚めた。

 最初に見えたのは、天井だった。

 見慣れた、事務所の天井。

 蛍光灯が、チカチカと点滅していた。

 竹彦は、ゆっくりと体を起こした。

 肩が痛い。腹が痛い。背中が痛い。

 傷は塞がっていたが、完全ではなかった。

 赤黒い瘢痕が、皮膚を引き攣らせている。

 でも、動けた。

 生きていた。

 なぜか、生きていた。

 周りを見た。

 白い服の男たちは、いなかった。

 逃げたのだろう。仕事を終えて、去っていったのだ。

 代わりに、あったのは――

 死体だった。

 所長が、デスクの前で倒れていた。胸に、大きな穴が開いていた。

 山本さんが、椅子に座ったまま死んでいた。頭が、不自然な角度に曲がっていた。

 佐藤さんが、床にうつ伏せで倒れていた。背中に、何本ものナイフが刺さっていた。

 鈴木さん、高橋さん、伊藤さん、渡辺さん。

 みんな、死んでいた。

 そして、すぐ隣に――松子さん。

 竹彦は、松子さんの顔を見た。

 首の傷から、もう血は流れていなかった。

 流れ尽くしたのだ。

 白い顔。青い唇。閉じられた目。


「松子……さん……」


 手を伸ばした。

 頬に触れた。

 冷たかった。

 氷のように、冷たかった。


「松子さん……」


 抱き上げた。

 軽かった。

 こんなに軽かったのか。

 この人は。

 毎晩、ご飯を作ってくれた人。

 名前をくれた人。

 家族になってくれた人。


「……あ」


 声が漏れた。

 何か言おうとした。でも、言葉にならなかった。

 代わりに出てきたのは、音だった。

 意味のない、音。


「あ……あ……ああ……」


 松子さんを抱きしめたまま、竹彦は声を上げた。

 それは、泣き声ではなかった。

 叫びでもなかった。

 ただ、壊れた何かから漏れ出る、音だった。


「あああああああああああああああ――――!」


 慟哭が、事務所に響き渡った。

 死体だらけの部屋の中で、少年は泣き叫んだ。

 松子さんを抱きしめたまま。

 冷たくなった体を、離さないように。


「なんで……なんで……なんでだよ……!」


 涙が止まらなかった。

 鼻水も止まらなかった。

 みっともなく、醜く、泣きじゃくった。


「松子さん……起きてよ……お願いだから……」


 返事はなかった。

 永遠に、返事はなかった。


           *


 一年後。

 竹彦は、中東にいた。

 「白い林檎」の本拠地。

 砂漠の中に作られた、巨大な宗教施設。

 数万人の信者が暮らす、閉鎖的なコミュニティ。

 竹彦は、その入り口に立っていた。

 十四歳になっていた。

 あの夜から、竹彦の体は変わった。

 傷が治る。力が湧く。人間離れした身体能力。

 体の奥に眠っていた、あの暗い炎。

 それを、自在に操れるようになっていた。

 この一年、竹彦は調べ続けた。

 白い林檎の本拠地。教祖の居場所。信者の数。

 全てを突き止めた。

 そして、ここに来た。

 復讐のために。


           *


 最初に殺したのは、門番だった。

 二人の男。銃を持っていた。

 竹彦は、素手で二人の首をへし折った。

 呆気なかった。

 紙を破るより、簡単だった。

 施設の中に入った。

 白い服を着た人々が、驚いた顔でこちらを見た。


「何者だ!」


「侵入者だ!」


 叫び声が上がる。

 銃を向けられる。

 竹彦は、走った。

 弾丸より速く。

 男の腹に拳を突き刺した。内臓が飛び散った。

 別の男の頭を掴んで、壁に叩きつけた。頭蓋骨が砕けた。

 銃を奪い、撃った。一発、二発、三発。

 倒れる。倒れる。倒れる。

 悲鳴。怒号。銃声。

 そして、血。

 竹彦は、止まらなかった。


           *


 施設の奥へ進むにつれて、信者の数は増えていった。

 武装した男たち。

 逃げ惑う女たち。

 泣き叫ぶ子供たち。

 竹彦は、区別しなかった。

 白い服を着ているなら、殺した。

 それがこの組織の人間である証だから。


「や、やめてくれ!」


 男が命乞いをした。

 殺した。


「私は関係ない! ただの信者よ!」


 女が叫んだ。

 殺した。


「お母さん! お母さん!」


 子供が泣いていた。

 その子供も、殺した。

 あの夜、松子さんは命乞いをする暇もなかった。

 所長も、山本さんも、佐藤さんも。

 誰一人、助けを求める間もなく殺された。

 なら、お前たちにも同じことをしてやる。

 竹彦の目は、何も映していなかった。

 ただ、機械のように殺し続けた。


           *


 三日、かかった。

 施設を端から端まで歩き、一人残らず殺すのに。

 数万人。

 正確な数は、調べつくした。

 丁寧に調べて、関係者を全員、皆殺しにした。

 最後の一人を殺した時、竹彦は施設の中央広場に立っていた。

 周りは、死体だらけだった。

 血の海。

 肉の山。

 腐臭が、鼻を突いた。

 竹彦は、空を見上げた。

 中東の青い空。

 雲一つない、晴天。


「松子さん……」


 小さく呟いた。


「終わったよ……」


 返事はなかった。

 当たり前だ。

 松子さんは、もういない。

 何万人殺しても、松子さんは帰ってこない。

 竹彦は、空を見上げたまま、ぼんやりと立っていた。

 後悔はなかった。

 罪悪感もなかった。

 当然のことをしただけだ。

 松子さんを殺した。

 あんなに優しい人を。

 あんなに温かい人を。

 なら、死んで当然だ。

 全員、死んで当然だった。

 松子さんなら、許したかもしれない。

 あの人は優しいから。

 「復讐なんてしなくていいよ」と、笑って言ったかもしれない。

 でも、僕は許さない。

 松子さんが許しても、僕は絶対に許さない。

 竹彦は、周りを見回した。

 血の海。肉の山。腐臭。

 何も感じなかった。

 ただ、松子さんのことだけを思っていた。

 所長のこと。山本さんのこと。佐藤さんのこと。

 みんなのことを思っていた。

 この数万人の死体は、あの十人の命に比べれば…


「松子さん……」


 小さく呟いた。


「終わったよ……」


 返事はなかった。

 当たり前だ。

 松子さんは、もういない。

 竹彦は、その場に膝をついた。

 泣いてはいなかった。

 涙は、もう枯れていた。

 ただ、空虚だった。

 復讐を終えても、何も満たされなかった。

 松子さんのいない世界で、これからも生きていかなければならない。

 それだけが、ただ重くのしかかっていた。



           *


 回想が、途切れた。

 竹彦は、事務所の椅子に座っていた。

 窓の外では、巨大な構造物が建設されている。

 多重防衛網の外殻。銀河標準の建築機械が、昼夜を問わず稼働している。

 地球が、変わっていく。

 一年後の戦いに備えて、要塞化が進んでいく。

 仲間たちは忙しい。

 キヨシは東京と京都を往復している。

 サヤカは技術開発に没頭している。

 萌は銀河各地でコンサート。

 みんな、前を向いている。

 未来に向かって、走っている。

 竹彦だけが、ここにいた。

 がらんとした事務所で、一人。

 この場所は、もう誰も訪れない。

 観光客もいない。報道もない。

 地球が改造されていく中で、この小さな事務所は、忘れ去られようとしている。

 それが、少し悲しかった。

 でも、どこかで安心もしていた。

 ここだけは、変わらないでほしい。

 松子さんとの記憶が残る、この場所だけは。


           *


 夜になった。

 竹彦は、事務所の奥にある仮眠室で横になった。

 あの夜、自分が眠っていた場所。

 目を閉じる。

 意識が、ゆっくりと沈んでいく。


           *


 夢を見た。

 東京の、小さなアパート。

 一間だけの、狭い部屋。

 夕方の光が、窓から差し込んでいる。


「竹彦! ごはんできたよ!」


 松子さんの明るい声が、台所から聞こえた。

 竹彦は、畳の上で読んでいた漫画を閉じた。

 十歳の、小さな体。


「はーい!」


 元気よく返事をして、台所に駆け寄る。

 松子さんが、フライパンを持って振り返った。

 十六歳の、若い女性。

 エプロンをつけて、髪を後ろで束ねている。

 竹彦を拾ってくれた、優しい人。


「今日は焼きそば! キャベツおまけしてもらったから、たくさん入ってるよ!」


 松子さんは、得意げに胸を張った。


「ほら、見て見て!」


 小さなテーブルに、二つの皿が置かれた。

 焼きそば。確かにキャベツはたくさん入っている。もやしも少し。

 そして、ウィンナーが三本。

 竹彦の皿には、二本。

 松子さんの皿には、一本。


「わあ、美味しそう!」


 竹彦は笑顔で言った。

 でも、すぐに皿を見比べてしまう。


「……松子さん、僕のほうがウィンナー多いよ」


「いいのいいの! 竹彦は育ち盛りなんだから!」


 松子さんは、ぱたぱたと手を振った。


「私、そんなにお腹空いてないし!」


「でも……」


「ほら、冷めちゃうよ! 早く食べよ!」


 松子さんは、もう座って箸を取っていた。

 嘘だ、と竹彦は思った。

 松子さんは、いつもそう言う。

 いつも、自分の分を竹彦に回してくれる。

 お金がないのに。

 自分だって、お腹が空いているはずなのに。


「いただきます!」


 竹彦は、明るく言った。

 暗い顔をしたら、松子さんが心配する。

 だから、笑顔でいる。

 箸を取る。

 焼きそばを口に運ぶ。


「美味しい!」


「ほんと!? よかったあ!」


 松子さんが、嬉しそうに笑った。


「ソース、ちょっと多かったかなって思ったんだけど」


「ちょうどいいよ! すごく美味しい!」


「えへへ、ありがと」


 松子さんが照れたように笑う。

 その笑顔を見ていると、胸が苦しくなった。

 温かくて、切なくて、どうしようもない気持ち。

 竹彦は、机の引き出しのことを思い出した。

 あそこに、手紙が入っている。

 何度も書き直した、ラブレター。

 松子さんへの、想いを綴った手紙。

 でも、渡せない。

 渡したら、この関係が壊れてしまうかもしれない。

 このあたたかな日々が、終わってしまうかもしれない。

 カーカラシカの孤児院を逃げ出して、貨物船に忍び込んで、北海道に渡って、東京まで来て。

 やっと見つけた、居場所。

 人生で初めて感じた、温かさ。

 それを、失いたくなかった。

 だから、手紙は隠したまま。

 想いは、胸の奥にしまったまま。

 きっといつか、身長がもっと高くなって、重たい荷物も一人で運べるようになったら…。


「ねえねえ、竹彦!」


 松子さんが、目をキラキラさせて身を乗り出した。


「明日、商店街でお祭りがあるんだって! 一緒に行こうよ!」


「お祭り?」


「うん! 屋台とか出るらしいよ! 金魚すくいとか、りんご飴とか!」


 松子さんは、両手を握りしめて興奮している。


「お金、あんまりないけど……見て回るだけでも楽しいじゃん!」


「うん! 行きたい!」


 竹彦は、大きく頷いた。


「松子さんと一緒なら、どこでも楽しいよ!」


「もー、竹彦ったら、嬉しいこと言ってくれるじゃん!」


 松子さんが、竹彦の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「よし、決まり! 明日は早起きしようね!」


「うん!」


 竹彦は、笑顔で頷いた。

 でも、心の中では思っていた。

 本当は、お祭りなんてどうでもよかった。

 松子さんと一緒にいられれば、それだけでよかった。

 こうして、同じテーブルでご飯を食べて。

 同じ部屋で眠って。

 朝、松子さんの「おはよう」で目が覚めて。

 それだけで、十分だった。

 ウィンナーを噛みしめる。

 松子さんが、自分のために残してくれた一本。

 申し訳なかった。

 でも、嬉しかった。

 優しさのなかで、微睡の中のような幸せに浸っていたかった。


           *


 目が覚めた。

 暗い天井が見えた。

 事務所の仮眠室。

 夜明け前の、薄暗い空気。

 竹彦は、しばらく天井を見つめていた。

 また、あの夢だ。

 眠ると、必ずあの頃に戻る。

 松子さんと二人で暮らしていた、あの小さなアパートに。

 具の少ない焼きそばを、一緒に食べた夕暮れに。

 目が覚めると、いつも思う。

 目が覚めなければよかったのに。

 あの夢の中で、ずっと眠っていられたら。

 松子さんと、ずっと一緒にいられたら。

 机の引き出しの、あの手紙。

 結局、渡せないまま終わった。

 松子さんは、竹彦の想いを知らないまま死んだ。

 机の引き出しの、あの手紙。

 結局、渡せないまま終わった。

 松子さんは、竹彦の想いを知らないまま死んだ。

 時々、別の夢を見ることがある。


 あの手紙を渡した夢。


 松子さんが、頬を赤くして、「うん」と頷いてくれる夢。

 その夢の中で、竹彦はもうちびじゃない。

 背が高くて、肩幅も広くて、大人の体になっている。

 銀河を旅する船のキャプテンで、松子さんと一緒に宇宙を冒険している。

 知らない星に降り立って、不思議な生き物と出会って、松子さんと笑い合う。

 夜は、船の窓から星を眺めながら、二人で話をする。


 「ねえ竹彦、明日はどこに行く?」


 「松子さんの行きたいところ、どこでも」


 「じゃあ、あの青い星! 海がとっても綺麗だって!」


 「よし! いこう!」


 そんな、ありえない夢。

 目が覚めると、いつも泣いている。

 あの夢のほうが、現実だったらよかったのに。

 竹彦は、ゆっくりと起き上がった。

 体が重い。

 心が重い。

 窓の外を見た。

 東の空が、少しだけ白んでいる。

 新しい一日が、始まろうとしている。

 母親のニーナとは、ようやく再会できた。

 本当の母親。血の繋がった家族。

 嬉しいはずだった。

 幸せなはずだった。

 なのに、何かが空虚だった。

 胸の奥に、ぽっかりと穴が開いているような。

 どれだけ埋めようとしても、埋まらない空洞。

 松子さんがいない。


「松子さん……」


 小さく呟いた。

 返事はない。

 あの夢の中でしか、もう松子さんには会えない。

 竹彦は、窓辺に立った。

 外では、建設機械が動き始めていた。

 新しい日が始まる。

 地球の改造が進む。

 仲間たちが走り回る。

 世界は、前に進んでいく。

 竹彦だけが、過去に留まっていた。

 五年前のあの夜から、一歩も動けずに。

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