第百四十一話「七夕松子の夢」
宇宙空間、地球軌道上。
借り物の母艦「テンペスト」の艦橋で、カーカラシカの若い士官が緊張した面持ちで計器を見つめていた。
「艦長、三時の方向に未確認飛行物体!」
日本のサムライ、ハブ家の若手が艦長席から立ち上がった。VR訓練を数週間受けただけだが、もう実戦だ。
「識別信号は?」
「ありません。おそらくトロン星の偵察機かと」
「警告射撃の準備」
竹彦から借りた護衛艦が、レーザー砲を偵察機に向けた。一発、二発。警告の光が宇宙空間を走る。
偵察機は慌てたように反転し、逃げ去っていった。
「追跡しますか?」
「いや、警告で十分だ」
艦長は座り直した。戦士連盟から借りた艦隊は小規模だが、威嚇には十分だった。竹彦が過去に助けた星々が、恩返しとして一年間の貸与を申し出てくれたのだ。
*
地球、東京。
アマガワ事務所は、がらんとしていた。
竹彦は一人、デスクに座って書類を眺めていた。宇宙人観光客の申請書。といっても、地球が急にきな臭くなったせいで、観光客は激減。申請書も数枚しかない。
「暇だな……」
窓の外を見ると、異様な光景が広がっていた。キノコが生えるような速度で、巨大な構造物が建設されている。多重防衛網の外殻だ。銀河標準の建築機械が、昼夜を問わず稼働していた。
電話が鳴った。
「はい、アマガワ事務所です」
『メル! 何してるの!』
ニーナの声だった。
「事務所で仕事です」
『仕事って、誰もいないんでしょう? 早くカーカラシカに来なさい』
「そのうち行きます」
『そのうちって、いつ!?』
竹彦は受話器を少し耳から離した。母親の声が大きすぎる。
「落ち着いたら」
『もう! メルったら!』
通話を切って、竹彦は椅子にもたれかかった。
正直、一人の時間が欲しかった。新しい体、新しい家族、新しい立場。全てが急すぎて、頭の整理がつかない。
ドアが開いた。
「やっぱりここにいた」
二宮が入ってきた。猫のような目で、竹彦を見つめている。
「二宮さん、受験勉強は?」
「息抜きよ。それより、一人で何してるの?」
「別に……」
二宮は竹彦の隣に座った。
「みんな心配してるわよ。キヨシ君も、萌ちゃんも、サヤカも」
「みんな忙しいでしょう」
確かにその通りだった。キヨシはサムライとアンナムの仕事で東奔西走。萌は地球人のイメージアップのため、銀河各地でコンサート。サヤカはマリアと一緒に技術開発に没頭している。
「でも、竹彦君だって忙しいはずよ」
二宮が不思議そうに首を傾げた。
「艦隊を借りてきて、白兵兵装を配って……全部丸投げして、ここで何してるの?」
竹彦は答えなかった。答えられなかった。
自分でもよくわからないのだ。ただ、この事務所にいたかった。松子さんと過ごした、あの静かな日々を思い出したかった。
「ねえ」
二宮が優しく言った。
「変化が急すぎて、疲れちゃった?」
図星だった。
「……かもしれません」
「そういう時は、無理しない方がいいわ」
二宮は立ち上がった。
「でも、ずっとここにはいられないわよ」
「わかってます」
二宮は微笑んで、事務所を出て行った。
一人になった竹彦は、窓の外を見た。
地球の空に、カーカラシカの飛空艇が飛び交っている。日本各地で、白兵兵装の訓練が行われているらしい。アメリカとヨーロッパも、結局は参加を決めた。全世界が、一年後の戦いに向けて動き出している。
その中心にいるはずの自分が、がらんとした事務所でぼんやりしている。
「松子さん……」
小さく呟いた。
「僕、どうすればいいんでしょうか」
答えは返ってこない。当たり前だ。松子さんはもういない。
電話がまた鳴った。今度はアスカからだった。
『おい竹彦! イタリア来いや! アンナムの仕事、山ほどあるで!』
「今は東京にいたいんです」
『は? なんでや』
「ちょっと…疲れちゃって…」
『……そうか』
アスカは珍しく、それ以上追及しなかった。
『まあ、ゆっくりしいや。でも、あんまり一人でおると、ろくなこと考えへんで』
通話が切れた。
竹彦は立ち上がり、事務所の奥へ向かった。そこには、松子さんの遺影が飾ってある。
「僕、強くなりました」
遺影に向かって報告する。
「体も治って、お母さんも見つかって、銀河でも認められて」
でも、と続ける。
「なんだか、全部夢みたいで」
遺影の松子さんは、優しく微笑んでいるように見えた。
外では、地球改造が急ピッチで進んでいる。一年後には、この星は要塞と化しているだろう。
竹彦は深呼吸をした。
いつまでも、ここにはいられない。二宮の言う通りだ。
でも、もう少しだけ。もう少しだけ、この静かな場所にいたかった。
窓の外を眺めながら、竹彦は五年前のことを思い出していた。
*
あの頃の事務所は、もっと賑やかだった。
所長の田中さん。いつも煙草を吸いながら、難しい顔で書類を睨んでいた。
経理の山本さん。眼鏡をかけた中年の女性で、竹彦にいつもお菓子をくれた。
調査員の佐藤さん、鈴木さん、高橋さん。それから、事務の伊藤さん、渡辺さん……。
十人ほどの、小さな探偵事務所。
浮気調査や人探しが主な仕事だった。
竹彦は、その中で一番下っ端だった。
お茶を淹れる。書類をコピーする。郵便物を届ける。
十三歳の少年にできることは、それくらいしかなかった。
「竹彦くん、これコピー十部ね」
「はい、山本さん!」
「竹彦、ちょっと煙草買ってきてくれ」
「わかりました、所長!」
走り回る毎日。でも、嫌じゃなかった。
みんな優しかった。竹彦を家族のように扱ってくれた。
そして、松子さんがいた。
*
あの日の数日前。
事務所は、いつもと変わらない昼下がりだった。
「竹彦、お昼ご飯買ってきて!」
松子さんが財布を渡してくれた。
「コンビニでいいから。みんなの分ね!」
「はい!」
竹彦は事務所を出て、近くのコンビニに向かった。
十人分の弁当とお茶。両手いっぱいの袋を抱えて戻ると、事務所は昼休みの和やかな空気に包まれていた。
「おー、竹彦くん、ありがとう」
佐藤さんが弁当を受け取りながら言った。
「今日の調査、大変だったんだよ。浮気現場の張り込みでさ」
「佐藤、飯食いながらその話はやめろ」
所長が煙草を消しながら言った。
「食欲なくなる」
みんなが笑った。
竹彦も一緒に弁当を食べた。松子さんの隣で。
*
あの夜。
事務所に泊まり込みで仕事をしていた。
大きな案件が入って、みんな忙しかった。
竹彦は、資料整理を手伝いながら、ソファでうとうとしていた。
「竹彦、もう寝てていいよ」
松子さんが毛布をかけてくれた。
「奥の部屋、使っていいから」
「でも……」
「いいからいいから!」
松子さんは笑った。
その笑顔を、竹彦は今でも覚えている。
竹彦は、言われるままに奥の部屋に向かった。
小さな仮眠室。簡易ベッドが一つだけある。
横になって、目を閉じた。
事務所の方から、みんなの声が聞こえる。
「この案件、やばくないか?」
「相手が相手だからな。白い林檎だろ?」
「新興宗教か。最近、過激になってるらしいな」
「気をつけろよ。逆恨みされたらたまらん」
大人たちの会話。竹彦には、よくわからなかった。
白い林檎。
変な名前の宗教団体。
依頼人の家族が、その団体に入信して帰ってこないらしい。
それを調査しているのだと、松子さんが教えてくれた。
竹彦は、そのまま眠りに落ちた。
*
ガラスの割れる音で、目が覚めた。
悲鳴が聞こえた。
怒号が聞こえた。
そして――銃声。
竹彦は飛び起きた。
心臓が早鳴りしている。何が起きているのかわからなかった。
ドアの隙間から、事務所を覗いた。
見えたのは、地獄だった。
白い服を着た集団が、事務所になだれ込んでいた。
手には、ナイフや金属バット。
そして、銃。
「神の敵を粛清せよ!」
狂ったような叫び声。
所長が、最初に撃たれた。
胸を押さえて、倒れた。煙草が、床に転がった。
「所長!」
佐藤さんが駆け寄ろうとして、背中から刺された。
山本さんが悲鳴を上げた。その声は、すぐに途切れた。
鈴木さん、高橋さん、伊藤さん、渡辺さん。
一人、また一人と倒れていく。
血が、床を染めていく。
竹彦は、動けなかった。
声も出なかった。
ただ、震えながら見ていることしかできなかった。
*
「竹彦!」
松子さんの声が聞こえた。
「逃げて!」
松子さんが、こちらに向かって走ってきた。
その背後から、白い服の男が追いついた。
男は松子さんの髪を掴み、強引に引き倒した。
「松子さん!」
竹彦は思わず飛び出した。
男が、ナイフを構えた。
松子さんが、竹彦を見た。
その目が、何かを伝えようとしていた。
逃げて。
生きて。
刃が、松子さんの首を横に薙いだ。
赤い線が、喉元に走った。
血が、噴き出した。
松子さんの口が動いた。声は出なかった。
ただ、唇だけが動いていた。
たけ、ひこ。
そして、崩れ落ちた。
竹彦の足元に、松子さんが倒れた。
首から流れ出る血が、竹彦の靴を濡らした。
「松子……さん……?」
膝をついた。
松子さんの体を抱き起こそうとした。
首が、あらぬ方向に傾いた。
「あ……」
温かかった体が、急速に冷たくなっていく。
目が、虚空を見つめていた。
竹彦を守ろうとした、あの優しい目が。
もう、何も映していなかった。
「嘘だ……」
涙が溢れた。
「嘘だ……起きてよ……松子さん……」
白い服の男たちが、竹彦を取り囲んだ。
「ガキがいたぞ」
「始末しろ」
ナイフが振り下ろされた。
肩に激痛。
腹に熱い何か。
背中に、鈍い衝撃。
竹彦は、松子さんの隣に倒れた。
二人の血が、床の上で混じり合った。
意識が遠のいていく。
寒い。
痛い。
松子さん。
ごめんなさい。
僕も、すぐに……。
*
闇の中で、何かが燃えていた。
体の奥底から、暗い炎のようなものが湧き上がってくる。
熱い。
痛い。
でも、その痛みが――力になっていく。
刺された肩の傷が、ずきずきと脈打っている。
腹の傷が、焼けるように痛む。
激痛が、全身を駆け巡る。
だが、その傷口が――半端に塞がり始めていた。
肉が盛り上がる。皮膚が引き攣る。
完全には治らない。でも、死なない程度には塞がっていく。
痛みが、何かを呼び覚ましていた。
体の底に眠っていた、暗い何か。
エネルギーのような、炎のような、どす黒い力。
それが、竹彦の中で渦巻いていた。
*
目が覚めた。
最初に見えたのは、天井だった。
見慣れた、事務所の天井。
蛍光灯が、チカチカと点滅していた。
竹彦は、ゆっくりと体を起こした。
肩が痛い。腹が痛い。背中が痛い。
傷は塞がっていたが、完全ではなかった。
赤黒い瘢痕が、皮膚を引き攣らせている。
でも、動けた。
生きていた。
なぜか、生きていた。
周りを見た。
白い服の男たちは、いなかった。
逃げたのだろう。仕事を終えて、去っていったのだ。
代わりに、あったのは――
死体だった。
所長が、デスクの前で倒れていた。胸に、大きな穴が開いていた。
山本さんが、椅子に座ったまま死んでいた。頭が、不自然な角度に曲がっていた。
佐藤さんが、床にうつ伏せで倒れていた。背中に、何本ものナイフが刺さっていた。
鈴木さん、高橋さん、伊藤さん、渡辺さん。
みんな、死んでいた。
そして、すぐ隣に――松子さん。
竹彦は、松子さんの顔を見た。
首の傷から、もう血は流れていなかった。
流れ尽くしたのだ。
白い顔。青い唇。閉じられた目。
「松子……さん……」
手を伸ばした。
頬に触れた。
冷たかった。
氷のように、冷たかった。
「松子さん……」
抱き上げた。
軽かった。
こんなに軽かったのか。
この人は。
毎晩、ご飯を作ってくれた人。
名前をくれた人。
家族になってくれた人。
「……あ」
声が漏れた。
何か言おうとした。でも、言葉にならなかった。
代わりに出てきたのは、音だった。
意味のない、音。
「あ……あ……ああ……」
松子さんを抱きしめたまま、竹彦は声を上げた。
それは、泣き声ではなかった。
叫びでもなかった。
ただ、壊れた何かから漏れ出る、音だった。
「あああああああああああああああ――――!」
慟哭が、事務所に響き渡った。
死体だらけの部屋の中で、少年は泣き叫んだ。
松子さんを抱きしめたまま。
冷たくなった体を、離さないように。
「なんで……なんで……なんでだよ……!」
涙が止まらなかった。
鼻水も止まらなかった。
みっともなく、醜く、泣きじゃくった。
「松子さん……起きてよ……お願いだから……」
返事はなかった。
永遠に、返事はなかった。
*
一年後。
竹彦は、中東にいた。
「白い林檎」の本拠地。
砂漠の中に作られた、巨大な宗教施設。
数万人の信者が暮らす、閉鎖的なコミュニティ。
竹彦は、その入り口に立っていた。
十四歳になっていた。
あの夜から、竹彦の体は変わった。
傷が治る。力が湧く。人間離れした身体能力。
体の奥に眠っていた、あの暗い炎。
それを、自在に操れるようになっていた。
この一年、竹彦は調べ続けた。
白い林檎の本拠地。教祖の居場所。信者の数。
全てを突き止めた。
そして、ここに来た。
復讐のために。
*
最初に殺したのは、門番だった。
二人の男。銃を持っていた。
竹彦は、素手で二人の首をへし折った。
呆気なかった。
紙を破るより、簡単だった。
施設の中に入った。
白い服を着た人々が、驚いた顔でこちらを見た。
「何者だ!」
「侵入者だ!」
叫び声が上がる。
銃を向けられる。
竹彦は、走った。
弾丸より速く。
男の腹に拳を突き刺した。内臓が飛び散った。
別の男の頭を掴んで、壁に叩きつけた。頭蓋骨が砕けた。
銃を奪い、撃った。一発、二発、三発。
倒れる。倒れる。倒れる。
悲鳴。怒号。銃声。
そして、血。
竹彦は、止まらなかった。
*
施設の奥へ進むにつれて、信者の数は増えていった。
武装した男たち。
逃げ惑う女たち。
泣き叫ぶ子供たち。
竹彦は、区別しなかった。
白い服を着ているなら、殺した。
それがこの組織の人間である証だから。
「や、やめてくれ!」
男が命乞いをした。
殺した。
「私は関係ない! ただの信者よ!」
女が叫んだ。
殺した。
「お母さん! お母さん!」
子供が泣いていた。
その子供も、殺した。
あの夜、松子さんは命乞いをする暇もなかった。
所長も、山本さんも、佐藤さんも。
誰一人、助けを求める間もなく殺された。
なら、お前たちにも同じことをしてやる。
竹彦の目は、何も映していなかった。
ただ、機械のように殺し続けた。
*
三日、かかった。
施設を端から端まで歩き、一人残らず殺すのに。
数万人。
正確な数は、調べつくした。
丁寧に調べて、関係者を全員、皆殺しにした。
最後の一人を殺した時、竹彦は施設の中央広場に立っていた。
周りは、死体だらけだった。
血の海。
肉の山。
腐臭が、鼻を突いた。
竹彦は、空を見上げた。
中東の青い空。
雲一つない、晴天。
「松子さん……」
小さく呟いた。
「終わったよ……」
返事はなかった。
当たり前だ。
松子さんは、もういない。
何万人殺しても、松子さんは帰ってこない。
竹彦は、空を見上げたまま、ぼんやりと立っていた。
後悔はなかった。
罪悪感もなかった。
当然のことをしただけだ。
松子さんを殺した。
あんなに優しい人を。
あんなに温かい人を。
なら、死んで当然だ。
全員、死んで当然だった。
松子さんなら、許したかもしれない。
あの人は優しいから。
「復讐なんてしなくていいよ」と、笑って言ったかもしれない。
でも、僕は許さない。
松子さんが許しても、僕は絶対に許さない。
竹彦は、周りを見回した。
血の海。肉の山。腐臭。
何も感じなかった。
ただ、松子さんのことだけを思っていた。
所長のこと。山本さんのこと。佐藤さんのこと。
みんなのことを思っていた。
この数万人の死体は、あの十人の命に比べれば…
「松子さん……」
小さく呟いた。
「終わったよ……」
返事はなかった。
当たり前だ。
松子さんは、もういない。
竹彦は、その場に膝をついた。
泣いてはいなかった。
涙は、もう枯れていた。
ただ、空虚だった。
復讐を終えても、何も満たされなかった。
松子さんのいない世界で、これからも生きていかなければならない。
それだけが、ただ重くのしかかっていた。
*
回想が、途切れた。
竹彦は、事務所の椅子に座っていた。
窓の外では、巨大な構造物が建設されている。
多重防衛網の外殻。銀河標準の建築機械が、昼夜を問わず稼働している。
地球が、変わっていく。
一年後の戦いに備えて、要塞化が進んでいく。
仲間たちは忙しい。
キヨシは東京と京都を往復している。
サヤカは技術開発に没頭している。
萌は銀河各地でコンサート。
みんな、前を向いている。
未来に向かって、走っている。
竹彦だけが、ここにいた。
がらんとした事務所で、一人。
この場所は、もう誰も訪れない。
観光客もいない。報道もない。
地球が改造されていく中で、この小さな事務所は、忘れ去られようとしている。
それが、少し悲しかった。
でも、どこかで安心もしていた。
ここだけは、変わらないでほしい。
松子さんとの記憶が残る、この場所だけは。
*
夜になった。
竹彦は、事務所の奥にある仮眠室で横になった。
あの夜、自分が眠っていた場所。
目を閉じる。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
*
夢を見た。
東京の、小さなアパート。
一間だけの、狭い部屋。
夕方の光が、窓から差し込んでいる。
「竹彦! ごはんできたよ!」
松子さんの明るい声が、台所から聞こえた。
竹彦は、畳の上で読んでいた漫画を閉じた。
十歳の、小さな体。
「はーい!」
元気よく返事をして、台所に駆け寄る。
松子さんが、フライパンを持って振り返った。
十六歳の、若い女性。
エプロンをつけて、髪を後ろで束ねている。
竹彦を拾ってくれた、優しい人。
「今日は焼きそば! キャベツおまけしてもらったから、たくさん入ってるよ!」
松子さんは、得意げに胸を張った。
「ほら、見て見て!」
小さなテーブルに、二つの皿が置かれた。
焼きそば。確かにキャベツはたくさん入っている。もやしも少し。
そして、ウィンナーが三本。
竹彦の皿には、二本。
松子さんの皿には、一本。
「わあ、美味しそう!」
竹彦は笑顔で言った。
でも、すぐに皿を見比べてしまう。
「……松子さん、僕のほうがウィンナー多いよ」
「いいのいいの! 竹彦は育ち盛りなんだから!」
松子さんは、ぱたぱたと手を振った。
「私、そんなにお腹空いてないし!」
「でも……」
「ほら、冷めちゃうよ! 早く食べよ!」
松子さんは、もう座って箸を取っていた。
嘘だ、と竹彦は思った。
松子さんは、いつもそう言う。
いつも、自分の分を竹彦に回してくれる。
お金がないのに。
自分だって、お腹が空いているはずなのに。
「いただきます!」
竹彦は、明るく言った。
暗い顔をしたら、松子さんが心配する。
だから、笑顔でいる。
箸を取る。
焼きそばを口に運ぶ。
「美味しい!」
「ほんと!? よかったあ!」
松子さんが、嬉しそうに笑った。
「ソース、ちょっと多かったかなって思ったんだけど」
「ちょうどいいよ! すごく美味しい!」
「えへへ、ありがと」
松子さんが照れたように笑う。
その笑顔を見ていると、胸が苦しくなった。
温かくて、切なくて、どうしようもない気持ち。
竹彦は、机の引き出しのことを思い出した。
あそこに、手紙が入っている。
何度も書き直した、ラブレター。
松子さんへの、想いを綴った手紙。
でも、渡せない。
渡したら、この関係が壊れてしまうかもしれない。
このあたたかな日々が、終わってしまうかもしれない。
カーカラシカの孤児院を逃げ出して、貨物船に忍び込んで、北海道に渡って、東京まで来て。
やっと見つけた、居場所。
人生で初めて感じた、温かさ。
それを、失いたくなかった。
だから、手紙は隠したまま。
想いは、胸の奥にしまったまま。
きっといつか、身長がもっと高くなって、重たい荷物も一人で運べるようになったら…。
「ねえねえ、竹彦!」
松子さんが、目をキラキラさせて身を乗り出した。
「明日、商店街でお祭りがあるんだって! 一緒に行こうよ!」
「お祭り?」
「うん! 屋台とか出るらしいよ! 金魚すくいとか、りんご飴とか!」
松子さんは、両手を握りしめて興奮している。
「お金、あんまりないけど……見て回るだけでも楽しいじゃん!」
「うん! 行きたい!」
竹彦は、大きく頷いた。
「松子さんと一緒なら、どこでも楽しいよ!」
「もー、竹彦ったら、嬉しいこと言ってくれるじゃん!」
松子さんが、竹彦の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「よし、決まり! 明日は早起きしようね!」
「うん!」
竹彦は、笑顔で頷いた。
でも、心の中では思っていた。
本当は、お祭りなんてどうでもよかった。
松子さんと一緒にいられれば、それだけでよかった。
こうして、同じテーブルでご飯を食べて。
同じ部屋で眠って。
朝、松子さんの「おはよう」で目が覚めて。
それだけで、十分だった。
ウィンナーを噛みしめる。
松子さんが、自分のために残してくれた一本。
申し訳なかった。
でも、嬉しかった。
優しさのなかで、微睡の中のような幸せに浸っていたかった。
*
目が覚めた。
暗い天井が見えた。
事務所の仮眠室。
夜明け前の、薄暗い空気。
竹彦は、しばらく天井を見つめていた。
また、あの夢だ。
眠ると、必ずあの頃に戻る。
松子さんと二人で暮らしていた、あの小さなアパートに。
具の少ない焼きそばを、一緒に食べた夕暮れに。
目が覚めると、いつも思う。
目が覚めなければよかったのに。
あの夢の中で、ずっと眠っていられたら。
松子さんと、ずっと一緒にいられたら。
机の引き出しの、あの手紙。
結局、渡せないまま終わった。
松子さんは、竹彦の想いを知らないまま死んだ。
机の引き出しの、あの手紙。
結局、渡せないまま終わった。
松子さんは、竹彦の想いを知らないまま死んだ。
時々、別の夢を見ることがある。
あの手紙を渡した夢。
松子さんが、頬を赤くして、「うん」と頷いてくれる夢。
その夢の中で、竹彦はもうちびじゃない。
背が高くて、肩幅も広くて、大人の体になっている。
銀河を旅する船のキャプテンで、松子さんと一緒に宇宙を冒険している。
知らない星に降り立って、不思議な生き物と出会って、松子さんと笑い合う。
夜は、船の窓から星を眺めながら、二人で話をする。
「ねえ竹彦、明日はどこに行く?」
「松子さんの行きたいところ、どこでも」
「じゃあ、あの青い星! 海がとっても綺麗だって!」
「よし! いこう!」
そんな、ありえない夢。
目が覚めると、いつも泣いている。
あの夢のほうが、現実だったらよかったのに。
竹彦は、ゆっくりと起き上がった。
体が重い。
心が重い。
窓の外を見た。
東の空が、少しだけ白んでいる。
新しい一日が、始まろうとしている。
母親のニーナとは、ようやく再会できた。
本当の母親。血の繋がった家族。
嬉しいはずだった。
幸せなはずだった。
なのに、何かが空虚だった。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いているような。
どれだけ埋めようとしても、埋まらない空洞。
松子さんがいない。
「松子さん……」
小さく呟いた。
返事はない。
あの夢の中でしか、もう松子さんには会えない。
竹彦は、窓辺に立った。
外では、建設機械が動き始めていた。
新しい日が始まる。
地球の改造が進む。
仲間たちが走り回る。
世界は、前に進んでいく。
竹彦だけが、過去に留まっていた。
五年前のあの夜から、一歩も動けずに。




